聖女の慈しみと魔王の嘆き

ゼノス(ヴァルザーク)は、聖女の監視をかいくぐり、魔将軍ザガートと秘密裏に打ち合わせを行った。


「いいか、ザガート。街ヤサイに微弱な力を持つ下級魔族を差し向けろ。それを私が『呪いに苦しみながら』倒し、功績を上げる。これこそが、私が勇者として信頼を得るための最短ルートだ」


「承知いたしました、魔王様。すぐに手配いたします」


計画は単純なマッチポンプだった。しかし、実行段階で、予期せぬ事態が起こった。

夜のヤサイの街に、ザガートの部下であるゴブリンやコボルトの一団が襲来した。ゼノスは、聖女の前で「呪いに耐えながら」戦う演技を始めた。


「ぐっ…呪いのせいで、力が…!」


そう言って、微弱な魔力で手下を一体ずつ倒していく…はずだった。


「ゼノス様!お苦しいでしょう!お任せください!」


聖女はゼノスの苦悶の演技を真に受け、彼を援護しようと前に出た。

聖女が手をかざすと、その清浄な力がゴブリンたちを一瞬で包み込んだ。


「ギャアアア!」


ゴブリンたちは、ゼノスが手を出す間もなく、聖なる炎に焼かれて次々と消滅していく。その浄化の速さと強大さは、魔族のゼノスでさえ戦慄させるものだった。


ゼノスは、目の前で自分の手下が容赦なく消えていく光景を見て、冷や汗を流した。


(な…何だこの力は!? 私の支配下にある下級魔族が、まるでゴミのように消滅していくではないか!魔族にここまで絶大な効果があるとは…)


ゼノスは、心の中で戦慄しながら呟いた。


(本当の魔王は…こいつなんじゃないのか?)


聖女がゼノスの方を向き、心配そうな顔で尋ねてきた。


「ゼノス様、大丈夫ですか?無理をなさらないで!」


「あ…ああ」


ゼノスは、聖女の純粋な笑顔を見て、別の恐怖を感じた。


(今は敵対されていないから大丈夫だが、もしこの聖女が私の正体に気づき、対峙した瞬間…間違いなく、私でも即死だな)


ゼノスは内心のパニックを隠し、「今は問題ない」と平静を装って答えた。

聖女はそれを聞くと、痛ましそうな顔をした。


「やはり、ゼノス様は呪いの効果で、無理をされているのですね…!私に、もっと力があれば…!」


(だから呪いじゃないんだ!もういい!)


聖女のせいでマッチポンプが失敗し、功績どころか戦力のほとんどを失ったことに、ゼノスは焦燥感を募らせた。

その時、後方から強大な魔力波が近づいてくるのが感じられた。

「…来たか」


ゼノスが裏で合図を送っていた、魔将軍ザガートが本隊を率いて登場したのだ。


「勇者どもめ!我ら魔王軍の脅威を知るがいい!」


他の勇者や冒険者たちが「今度こそ本物だ!」と立ち上がろうとした瞬間、ゼノスはザガートにアイコンタクトを送った。


ザガートはゼノスの意図を察し、聖女以外の勇者たちを標的とした。


「邪魔な勇者どもは、ここで始末する!」


ザガートは、他の勇者カイトやレオを含む冒険者たちに対し、圧倒的な力で一方的に攻撃を浴びせた。彼らはザガートの敵ではなく、次々と地面に倒れていく。 


聖女が「ザガート!なんて卑劣な!」と叫ぶ中、ゼノスは動かなかった。これは、彼が勇者たちを倒し、自分の地位を確立するための、魔王の命令による勇者たちの排除だった。


ザガートは、聖女の圧倒的な聖なる力に警戒しつつ、倒れた勇者たちを一瞥した後、ゼノスに鋭い視線を向けた。


「貴様…六人目の勇者とやらか。貴様は、他の物とは別格のようだ。だが、今は深追いはせぬ。我々の戦力の全てを、こんな場所で晒すわけにはいかない」


ザガートは、ゼノスに対し、あえてライバルとしての敬意を払うような言葉を残した。


「さらばだ、人間よ!」

そう言い残し、ザガートは残りの部下と共に、闇夜に消え去った。


こうして、ゼノスは動くことなく、「魔王軍の幹部を退散させた最強の勇者」として、再び規格外の功績を上げてしまったのだった。ただし、その代償として、他の勇者たちは瀕死の重傷を負うことになったが…。


魔将軍ザガートの襲撃後、街ヤサイのギルドは大混乱に陥っていた。他の勇者たちや冒険者たちは、ザガートの圧倒的な力により重傷を負い、動けない状態だ。


聖女は、ゼノスに一瞥をくれた後、すぐに倒れた者たちの治療に取り掛かった。


「皆さま、ご安心ください!私が必ず、お救いします!」


聖女の聖なる力は、傷ついた者たちに次々と注がれていく。ゼノス(ヴァルザーク)は、その献身的な姿を横目に、手持ち無沙汰で立っていた。


(あの魔将軍め。やりすぎだ。これで、しばらく勇者どもは使い物にならんな。…まぁ、結果的に私の地位は高まったが、聖女の監視が続くのは変わらない)


ゼノスは、聖女の治療能力を間近で見ながら、改めて彼女の脅威を実感していた。


その時、ゼノスの脳裏に、突如として直接的なテレパシーが流れ込んできた。


「魔王様!緊急事態です!」


声の主は、魔将軍ザガートだ。

「どうした、ザガート。あまり私に直接、意識を向けるな。聖女に察知されるぞ」


「申し訳ありません!ですが、至急です!我々の奇襲に動揺したのか、南の森から魔王軍とは一切関係のない、強大な魔物の群れが街に向かって移動しています!」


ゼノスは眉をひそめた。魔王軍が手配していない魔物の群れ。つまり、本物の脅威だ。


「このままでは、街だけでなく、我々の秘密基地も表に出てくる可能性があります!魔王様、聖女が治療に忙しい今が好機!ここは貴方にお任せするしかありません!」


ザガートの声には、焦りが滲んでいた。

(チッ、面倒なことになった。しかし、ザガートの言う通りだ。この魔物の群れに街が襲われれば、私の潜伏拠点も危うくなる)


ゼノスは意を決した。彼は、治療に専念している聖女に向かって、冷たい声で告げた。


「聖女。貴様はここで治療を続けろ。街の外で、別の騒ぎが起こっている。私が片付けてくる」


聖女が顔を上げて「ゼノス様!」と呼び止める間もなく、ゼノスは音もなくギルドを飛び出した。

森から迫る魔物の群れの方向へ、単身で向かう。魔王の姿に戻るわけにはいかない。だが、中途半端な力では、あの群れは止められない。


「仕方ない。勇者ゼノスの力として、最大限の魔力を開放する。呪いの副作用だとでも思ってもらおう」


魔物の群れが街の境に到達する直前、ゼノスは立ち止まった。目の前には、巨大なオーガ、暴れ狂うグリフォン、そして大量の獣人たち。

ゼノスは、全身の魔力を解放した。それは、周囲の空気を歪ませるほどの、圧倒的な力だった。


「…消え失せろ。私が相手をしている間に、人間どもを倒されては、計画が台無しだ」


ゼノスは、魔王の奥義の一つである広範囲殲滅魔法を、微弱な力に抑え込んで発動させた。


ゴオオオオオ!


大地を揺るがす轟音と共に、闇と炎が混ざり合った魔力の波が、魔物の群れを襲う。一瞬にして、群れの半分以上が魔法の餌食となり、塵となって消滅した。

単身で、数百の魔物の群れを半壊させる。これこそ、魔王ヴァルザークの真の力の一端だった。ゼノスは、勇者の姿のまま、残った魔物たちを睨みつけ、低く威嚇の声を上げた。


「これ以上、進むな。さもなくば、消滅するぞ」


残った魔物たちは、その圧倒的な力に戦意を喪失し、悲鳴を上げながら森の奥へと逃げ去っていった。


ゼノスは、魔力で衣服についた血を吹き払い、再び人間に偽装を施しながら、街のギルドへと戻るのだった。


単身で魔物の群れを半壊させ、街ヤサイの危機を救ったゼノス(ヴァルザーク)は、夜明け前にギルドへと戻ってきた。彼の服には、大量の魔物の返り血が飛び散り、体の一部にも、魔力制御の反動でできたわずかな擦り傷があった。

ギルドの片隅で他の勇者たちを治療していた聖女は、ゼノスが帰ってきたことに気づくと、血相を変えて駆け寄ってきた。


「ゼノス様!その血は! どうなされたんですか!?無茶をなさらないでと申し上げたでしょう!」


聖女は、ゼノスが瀕死の重傷を負って帰ってきたと思い込み、目には涙を浮かべ、怒りにも似た感情でゼノスを叱責した。 


「私がここにいる間、無理をしないでくださいと!ああ、すぐに治療を!このままでは、呪いがさらに進行してしまいます!」


ゼノスは、聖女の過度な反応にうんざりしながらも、魔王軍とは無関係の脅威を退けたことを説明した。


「落ち着け。ただ、街の外に魔物の群れが出た。それを排除してきただけだ。私が勇者として当然の務めを果たしたまで」


ゼノスは、聖女に治療させまいと、体の傷を魔力で覆い隠そうとしたが、聖女は既に彼の手の甲を掴んでいた。


「魔物の群れ…!しかし、私が側に居れば、ここまで傷を負うことなんて…!」


聖女は、自分の力が至らないせいでゼノスが無理をしたと思い、悔しさに唇を噛んだ。彼女はすぐに治癒魔法をかけようと、ゼノスの返り血に染まった袖口に触れた。


その瞬間、聖女はふと、違和感を覚えた。


(あれ…?)

聖女は、倒れた勇者たちや冒険者たちの血を大量に見てきた。人間の血は、赤く、乾くと黒ずんだ色になる。

しかし、ゼノスの服に付着している血は、どこか暗い緑がかったような、淀んだ、異質な色をしていた。それは、魔族の血だ。ゼノスが微弱な魔力で倒した魔物たちの返り血が大量に付着しているのだ。

聖女は、まじまじとゼノスの服の血を見つめ、戸惑いの表情を浮かべた。


「ゼノス様…これ…」


聖女は、恐る恐る尋ねた。


「もしかして、この血は…魔物の血、ですか?」


(しまった!)


ゼノスの心臓が跳ね上がった。自分の血ではないとはいえ、魔物の血が大量に付着しているのは、あまりに不自然だ。通常、強い勇者は、魔物に傷を負わせても返り血を浴びないように立ち回る。

ゼノスは、表情一つ変えずに、すぐに言い訳を考えた。


「…そうだ。私ほどになると、魔物の血液すら、体に浴びただけで呪いの穢れに変換される。気にするな」


(完璧だ。これなら、魔物の血を浴びたことも「呪いのせい」にできる)


ゼノスはそう結論づけたが、聖女はまだ納得していない様子で、暗い色の血をじっと見つめていた。その瞳には、疑惑ではなく、新たな真実を発見したかのような、驚きと閃きが宿っていた。


「…そうでしたか。呪いの影響で…」


聖女は、何かを確信したように頷いた。


「では、すぐに洗い流さなければなりませんね!ゼノス様の体に、この穢れを残すわけにはいきません!」


聖女は、ゼノスの服の血を洗い流そうと、彼の手を強く引いた。ゼノスは、これ以上聖女の過度な接触を避けたかったが、ここで抵抗すれば、再び疑惑を招くと悟り、内心で絶叫しながら、聖女に引かれるまま、水場へと向かうのだった。


ゼノス(ヴァルザーク)は、魔物の血を洗い流すと言って聞かない聖女に引かれるまま、借りた一軒家の湯殿へ連れて行かれた。


「ゼノス様、お待ちくださいね。この穢れは、ただの水では落ちません。特に呪いを受けていらっしゃる貴方様には…」


聖女はそう言うと、浴槽に張られた湯に、持参した大量の聖水を惜しげもなく注ぎ始めた。湯は、聖なる力により、淡い光を帯びて輝き始めた。


(聖水風呂だと!?やめろっ!! それは私にとって、マグマ風呂と同じだ!いや、それ以上だ!)


ゼノスは心の中で絶叫し、全身の魔力防御を再び最大まで引き上げた。この聖水風呂に全身を浸すなど、自殺行為に等しい。


「聖女。貴様は外で待て。この程度の穢れ、私一人で十分洗い流せる」


ゼノスは低い声で自ら洗うことを主張したが、聖女は首を振った。


「いいえ、ゼノス様。その呪いの穢れを一人で抱え込もうとなさらないで。私が傍について、聖なる力で穢れを和らげます。さあ、どうぞ」


聖女は優しくゼノスの背中を押し、湯船に浸からせようとする。抵抗すれば、自分の正体をさらすことになる。ゼノスは、絶望的な覚悟を決め、魔力防御に全てを賭けた。

ゼノスの体が、聖なる光を放つ湯に触れた瞬間、防御魔力の膜を突き破って、聖水の力が皮膚に到達した。


ジュッ――プシュウウウッ!

湯船から、激しい音とともに白い煙が立ち昇った。それは、聖水が魔族の皮膚を焼き、体内の魔力が熱として放出されている音だった。ゼノスは、表情一つ変えなかったが、体内の魔力が悲鳴を上げ、全身の細胞が灼熱の痛みにのたうち回った。


(熱い!熱い!体が焼かれている!この痛みは、過去千年で経験した中でも最悪だ!)


ゼノスは歯を食いしばり、必死に平静を装った。

聖女は、湯船から立ち昇る白い煙を見て、血相を変えた。


「こんなに…こんなに呪いの力が強かったなんて!湯が、穢れを浄化するために沸騰している!」


聖女は湯からゼノスの体を抱きかかえるように引き上げ、彼の肌に触れた。そこには、魔族の皮膚が聖なる力で焼かれた、赤い火傷の跡がいくつもできていた。


「ああ、火傷の跡まで!? ゼノス様、こんな傷を負っていたなら、先に言ってください!私に隠さずに!」


聖女は、ゼノスの体にできた火傷の跡を、魔王軍との戦闘で負った傷や、呪いが原因で皮膚が壊死したものだと信じて疑わない。彼女はすぐに治癒魔法をかけ始めた。 


(今、ここでお前から受けたんだよ!? この傷は、お前が勝手に注いだマグマ風呂によってできたものだ!なぜそれを、私が耐えてきた傷だと思うんだ!)


聖女の治癒魔法は、火傷の痛みを和らげてはくれるが、魔族の細胞を刺激することには変わりない。ゼノスは、治癒を受けながらも、心の中で怒りと絶望の叫びを上げるしかなかった。


こうして魔王は、聖女の純粋な善意によって、聖水による公開拷問を受け、その結果を「勇者としての苦しみ」だと誤解されるという、極限の屈辱を味わうことになった。


聖水風呂という名の拷問から解放され、皮膚の火傷を治癒魔法で無理やり治してもらったゼノス(ヴァルザーク)は、すぐに自室に戻った。服を着替え、体内に残る聖水の毒性を魔力で押し込めることに専念した。


(最悪だ。聖水で焼かれた皮膚が、まだジンジンと熱を持っている。少しでも気を抜けば、呪いではなく聖水の毒で、私の魔力回路がショートしかねん)


疲労困憊のゼノスは、早く休息を取りたかった。

だが、部屋の隅に目をやったゼノスは、信じられない光景を目にした。


彼の布団の、まさにすぐ隣に、聖女が自分の布団を丁寧に敷き終えようとしているのだ。


「…何をしている、聖女」


ゼノスは低い声で尋ねた。

聖女は、当たり前のことをしているという顔で、にこやかに答えた。


「あら、ゼノス様。お着替え、お疲れ様でした。見ての通り、寝床の準備ですよ」


「そうではない。なぜ、私の布団の隣に敷いている。貴様は、別の部屋で寝るべきだろう」


ゼノスの至極当然の主張に対し、聖女は顔を曇らせ、まるで彼が命に関わる間違いを犯しているかのように、真剣な表情でゼノスを怒鳴りつけた。


「ダメです!断じてダメです!」


聖女の強い口調に、ゼノスは思わずたじろいだ。

「あの聖水風呂での火傷を見て、まだお分かりになりませんか!?寝ている間は、最も無防備になる時間です。あれだけの強大な呪いが、眠っている間に貴方の身体を蝕んでいるなら…」


聖女は、ゼノスを指差し、強い決意を込めて言い放った。


「私が貴方の一番近くで寝泊まりしないと、どうなっても知りませんよ!? 私が聖なる力で貴方を守り、万一の事態に備えなければならないのです!」


聖女の瞳には、ゼノスの命を守るという、揺るぎない使命感が宿っていた。彼女にとって、これは絶対に譲れない一線だった。


聖女の真剣な「命をかけた主張」に対し、ゼノスは反論の言葉を見失った。これ以上拒否すれば、「呪い対策を拒否する=命を軽視している=偽物」という連鎖的な疑惑に繋がる。


ゼノスは、聖女の純粋な優しさと、それによってもたらされる自身の生命の危機という地獄のコントラストに、心の中で文字通りの断末魔の叫びを上げた。


(俺は、お前が一番近くに居られると、寿命が何倍も縮むんだよ! 貴様の聖なるオーラが、この部屋の魔力を全て浄化し尽くし、私の肉体を常に蝕んでいるんだ!私から離れろ!それが私にとって最大の!最大の呪い対策なんだ!)


ゼノスは、顔に一切の表情を出さず、ただ静かに聖女の敷いた布団を見つめた。

「…好きにしろ」

そう言って自分の布団に倒れ込むように横になったゼノスの隣で、聖女は満足そうに微笑みながら布団に潜り込んだ。


「ありがとうございます、ゼノス様。さあ、今夜は私が貴方の命を守ります」


魔王ヴァルザークは、隣から漂ってくる清浄な聖なる香りに、この夜も一睡もできないことを確信し、虚ろな目を天井に向け続けるのだった。

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