番外編:風の向こうにいるひと

 わたしは、図書館の猫。

 名前はジュリア。

 静かな時間と、紙の匂いと、やさしい人たちに囲まれて暮らしている。

 けれど、わたしには、もうひとつの時間がある。

 それは、風の匂いが変わるときにだけ訪れる。

 あのひとが、やってくるのだ。

 —

 スパイク。

 キジトラ柄の、少し荒っぽい毛並み。

 左目は深い黒、右目は淡い茶色。

 その瞳は、まるで夕暮れの空のように、どこか遠くを見ている。

 彼は、図書館の敷地にときどき現れる。

 決まって、風が強く吹く日。

 わたしが裏庭で日向ぼっこをしていると、ふいに気配がする。

「また来たのね」

 わたしが声をかけると、彼は何も言わずに、少しだけしっぽを振る。

 それが、彼の「こんにちは」だと、わたしは知っている。

 —

 スパイクは、図書館の中には入らない。

 けれど、わたしが窓辺にいると、外からじっと見つめてくる。

 その視線は、言葉よりも深く、わたしの胸を静かに揺らす。

 彼は、風のような存在。

 とどまらず、けれど確かにそこにいる。

 わたしは、その風を待つように、毎日を過ごしている。

 —

 ある日、シャーロットが言った。

「ジュリアさん、今日は少しそわそわしていますね」

 わたしは、彼女の膝の上で喉を鳴らした。

 だって、今日は風が強い。

 きっと、スパイクが来る日だから。

 —

 夕暮れ、裏庭に出ると、彼はいた。

 桜の花びらが舞う中、スパイクは静かに座っていた。

「また来てくれたのね」

 彼は、わたしのそばに歩み寄り、鼻先をそっと寄せた。

 その一瞬が、わたしにとっては一冊の詩集よりも深い。

 —

 スパイクは、何も語らない。

 けれど、彼の沈黙は、わたしの心を満たしてくれる。

 まるで、風の音のように。

 彼が去ったあと、わたしは座布団の上で目を閉じる。

 そして、夢を見る。

 風の中を歩くふたりの猫。

 言葉はなくても、心が寄り添っている夢。

 —

 わたしは、図書館の猫。

 でも、心のどこかで、風を待っている。

 スパイクという名の、静かな風を。

 —

(了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る