第2話 遺伝子に刻まれた記憶
1
約束した火曜日午後3時、浩は指定された東都大学の駐車場で川崎を待っていた。
川崎の乗る営業車も時間通りに到着した。
川崎稔は車を降りると修理部品の入ったアルミケースを肩に掛け、軽快な足取りで歩いて来た。
「浩、一緒に受付を済ませて研究棟に向かおう」
受付を済ませた二人は研究棟に続く坂道を連れ立って登って行った。
東都大学のキャンパスは、都心の喧騒を忘れさせる静寂に包まれていた。秋の陽射しが赤レンガの研究棟を温かく包んでいる。
「浩、悪いけど、ここで待っていてくれ」
川崎は大学のカフェテラスを指差した。ガラス張りの開放的な空間には、数人の学生がコーヒーを飲みながら議論を交わしている。
「橘博士は研究に没頭していることが多くてね。まずは僕が修理を済ませて、それから状況を見て浩の話をしてみるよ。少々時間が掛かるがね」
浩は頷いた。「分かった。よろしく頼む」
川崎はアルミケースを肩にかけて研究棟の奥へ足早に消えていった。
浩は窓際の席に座り、コーヒーを注文した。カップを持つ手が微かに震えているのに気づく。緊張している。
一時間ほど経過しただろうか。浩はスマートフォンを手にしながら、窓の外を眺めていた。研究棟の方向から、川崎の姿が見える。隣に白衣を着た女性が同行している。
2
「お待たせしました」
川崎が戻ってきた時、隣にいたのは穏やかな印象の女性だった。肩までの黒髪をポニーテールにまとめ、優しげな眼差しの奥に知的な輝きを湛えている。
「佐藤浩さんですね。東都大学生理学研究所の橘美穂です」
橘博士は柔らかな笑みを浮かべながら丁寧に頭を下げた。浩も慌てて立ち上がり挨拶を返す。
「川崎さんから詳しい状況を聞かせていただきました。ご体調はいかがですか?」
「ありがとうございます。体のほうはだいぶ回復してきましたが、精神面で悩みがあります」
三人はテーブルに着いた。橘博士は手帳を取り出し、川崎から聞いた内容を確認するように話し始めた。
「川崎さんによると、事故後の臨死体験で見た映像のいくつかが、あなた自身の記憶ではないような感覚があったということですが」
浩は頷いた。「はい。古い時代の農村や、海岸の光景が脳裏に浮かんだんです。まるで映画を見ているようでした。でも、妙にリアルで...」
「その映像の中で、あなたは第三者として見ていましたか?それとも、当事者として体験していましたか?」
浩は少し考えた。「当事者として、です。誰かを突き落とす場面では、自分の手で押している感覚がありました。海岸の場面では、赤く染まった血の波が顔に触れる感覚もありました...」
橘博士は興味深そうに頷いた。
3
「もしよろしければ、佐藤さんの家系について教えていただけますか?祖父母や曾祖父母の出身地など、何かご存じでしたら」
浩は少し考えてから答えた。「出身は静岡市です。両親は健在ですが、家族の昔のことはあまり詳しく聞いていなくて...ただ、祖父から聞いた話では、曽祖父が大井川上流の村から佐藤家に養子として迎えられたという話を聞かされました」
「大井川上流...」橘博士は興味深そうに眉を上げた。「それは興味深いですね。その村の名前など、覚えていらっしゃいますか?」
浩は首を振った。「詳しいことは...祖父も中学生の時に亡くなってしまって、それ以上は聞けませんでした」
「そうですか」橘博士はメモを取りながら続けた。「実は、最近の研究でエピジェネティクスという現象が注目されています。これは、遺伝子配列は変わらないものの、遺伝子の発現パターンが環境や体験によって変化し、それが次の世代に引き継がれるというものです」
「遺伝子の発現パターン?」浩は首をかしげた。
橘博士は温かく微笑みながら続けた。「私は主にラットを使った実験を行っているのですが、桜の匂いを嗅がせた親ラットに軽い電気ショックを与えると、その子どもも桜の匂いに対して過敏な反応を示すのです。これはその遺伝子情報が次の世代に引き継がれることを示しています」
浩の表情が真剣になった。「それが僕の見た映像と関係があるということですか?」
「可能性はあります。ただし——」橘博士は慎重に言葉を選んだ。「科学的に証明されているのは、トラウマの影響が遺伝的に受け継がれることまでです。具体的な記憶映像が遺伝するという研究はまだありません」
4
「でも」橘博士は身を乗り出した。「あなたのケースは非常に興味深いんです。臨死体験という特殊な脳の状態で、普段は抑制されている遺伝的記憶が表面化した可能性があります」
川崎が口を挟んだ。「つまり、浩の脳の中に先祖の記憶が眠っていて、事故をきっかけに蘇ったということか?」
「理論的には可能性があります」橘博士の目が輝いた。「川崎さんには前々からお話ししていたのですが、私の研究には限界があるんです。ラットでの実験結果は出ているものの、人間での検証が...」
川崎が苦笑いを浮かべた。「ああ、よく言われてましたね。『生身の人間で実証できれば』って」
「失礼な言い方をしてしまいました」橘博士は慌てて首を振った。「でも、佐藤さんのような症例に出会えるとは思いませんでした。これは運命的としか言いようがありません」
浩は二人のやり取りを見つめていた。何か重要なことが動き始めているような予感があった。まるで、長い間回らなかった歯車が、ついに噛み合い始めたような——
「最近の神経科学研究で、記憶は単なる電気信号の組み合わせではなく、タンパク質の構造変化として細胞に刻み込まれることが分かってきました。そして、この構造情報が何らかの形で次世代に継承される可能性が示唆されています」橘博士の声には抑えきれない興奮が滲んでいた。
浩は震える声で尋ねた。「それなら、僕の見た映像は本当に先祖の体験だったということですか?」
「断言はできません。しかし——」橘博士は一瞬躊躇した。「調べる方法はあります」
橘博士はカバンから資料を取り出した。「まず、あなたのDNA解析を行い、エピジェネティックマーカーを調べます。同時に、脳のfMRI撮影を行って、記憶に関連する脳部位の活動パターンを調べることができます」
「それで何が分かるんですか?」
「もしあなたの遺伝子に特定のトラウマの痕跡が刻まれていれば、それが何時代のものか、どの程度の強さだったかが推測できます。そして脳撮影により、その記憶がどのように保存され、どんな条件で表面化するかが見えてくるかもしれません」
5
川崎が心配そうに浩を見た。「どうする?やってみるか?実は橘博士、以前から言ってたんだ。『いつか本当に適切な症例の方に出会えたら』って」
「川崎さん、余計なことを...」橘博士は頬を染めた。「でも確かに、研究者として、ラットでの成果を人間で検証したいという思いは常にありました。ただし——」
浩は長い間沈黙していた。そして、決意を込めて橘博士を見つめた。
「お願いします。真実を知りたいんです。このまま悪夢に支配されて生きていくなんて耐えられません」
橘博士の瞳に、研究者としての情熱が燃え上がった。「分かりました。ただし、この研究は未知の領域です。予想もしない結果が出る可能性があります。精神的な負担も相当なものになるかもしれません。それでも続けられますか?」
「はい」浩の声に迷いはなかった。まるで、運命の歯車が回り始めるのを感じていた。
「それから」橘博士は少し躊躇してから続けた。「もし本当にあなたの遺伝子に先祖の記憶が刻まれているとしたら、その記憶の内容によっては...辛い真実と向き合うことになるかもしれません。人間の記憶は、ラットのそれとは比較にならないほど複雑で、時として残酷です」
浩は橘博士の言葉を受け止めた。「構いません。どんな真実でも受け入れます」
橘博士は深くうなずき、手帳に予定を書き込み始めた。「それでは、来週の木曜日から検査を始めましょう。まず血液採取とDNA解析から。結果が出るまで2週間ほどかかりますが、その間にfMRI撮影も行います」
川崎が安堵の表情を見せた。「よかった。浩、これで何かが変わるかもしれない」
浩は初めて笑顔を見せた。「ありがとうございます、橘博士。そして川崎、本当に感謝している」
6
カフェテラスを後にする時、橘博士が振り返った。
「佐藤さん、最後に一つ。もし検査の途中で体調に変化があったり、新しい夢や映像を見たりしたら、すぐに連絡してください。些細なことでも構いません」
「はい、分かりました」
橘博士は研究棟の方向を見た。「実は、あなたと似たようなケースを調べている研究者が世界に何人かいます。アメリカのスタンフォード大学、ドイツのマックス・プランク研究所...でも、これまで適切な被験者に恵まれませんでした。川崎さんにも、そんな話をよくしていたのですが」
川崎が苦笑いした。
浩は驚いた。「世界規模の研究になるということですか?」
「可能性はあります」橘博士の目が輝いた。「あなたのケースが、人類の記憶継承メカニズムを解明する鍵になるかもしれないのです。長年、動物実験でしか確認できなかった現象が、ついに人間で実証される日が来るかもしれません」
夕日がキャンパスを染める中、三人は別れた。浩の心には不安と期待が入り交じっていたが、長い間感じていた孤独感が薄れていくのを感じていた。
7
翌朝、浩は会社の自分のデスクに向かった。いつものように電話が鳴り、取引先からの問い合わせが続く。だが、今日はそれらの音が遠くに聞こえていた。
「佐藤君、例の件はどうなった?」
上司の声に我に返る。サーバー構築案の件だった。白紙に戻された案件について、再度検討するよう指示されていたのだ。
「申し訳ありません。もう少し時間をください」
浩は答えながら、机の引き出しから封筒を取り出した。昨夜、家に帰ってから書いた辞表だった。
昼休み、浩は人事部長の部屋のドアをノックした。
「失礼します」
「佐藤君、どうした?」
浩は深く一礼し、封筒を差し出した。「退職願を提出させていただきたく」
人事部長は驚いた表情を見せた。「急にどうしたんだ?体調の件か?」
「はいそれもありますが、個人的な事情で...どうしても時間が必要になりまして」
浩は詳細を説明することはできなかった。研究に参加することで、どれだけの時間を要するか予想もつかない。何より、自分自身と向き合う時間が必要だった。
「考え直せないか?君は優秀な営業だし、会社としても手放したくない人材なんだ」
浩は首を横に振った。「申し訳ありません。決心は固いです」
人事部長は辞表を受け取り、しばらく眺めていた。
「分かった。引き継ぎ期間を含めて一か月後ということで」
「ありがとうございます」
会社を出た浩は、携帯電話を取り出し川崎に連絡した。
「川崎、俺、会社を辞めることにした」
電話の向こうで川崎の驚く声が聞こえた。「おい、大丈夫か?そこまでしなくても...」
「いや、これで良かったんだ。中途半端な気持ちじゃだめだと思う。本気で自分の過去と向き合いたい」
しばらくの沈黙の後、川崎が言った。「分かった。なら、全力でサポートするよ」
浩は空を見上げた。不安はあったが、初めて自分の人生を自分で選択している実感があった。
自分の中に潜む得体のしれない恐怖・不安・孤独感を解消しない限り、これから先の長い人生が有意義なものにはならないのではないか。そう考え決意の一歩を踏み出した浩であった。
<続く>
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