オペレーション・ショウトク
@tomoegawa198906
第1話 死の淵からの警告
1
2年前の秋の夕暮れ時のことである。
国道一号線を走る軽の営業車のハンドルを握る浩の表情は暗かった。取引先の思わぬ総務部長の交代により、3ヶ月間かけて練り上げたサーバー構築案が白紙に戻されたのだ。
サーバーを独自で保有するか全て外部委託して定額維持をするかはTOPの意志に大きく左右されるものだった。
クラウドサーバーの再検討——浩はその突然の要望に戸惑っていた。
「畜生め...今月予定していた売り上げがすっ飛んじまった」
浩の呟きが車内に響く。事務機器営業という職業の宿命とはいえ、今回の商談内容の変更は痛手だった。あの上司の冷たい視線が脳裏に蘇る。何度となく転職を考えた。だが30手前という年齢今まで積み重ねてきたキャリアを考えると二の足を踏む浩だった。
ハンドルを握る手が汗ばんでいた。気付くとスピードメーターの針は法定速度を大きく上回っている。慌ててアクセルを緩める浩。
その時だった。
対向車線から巨大な影が迫ってきた。大型トラックだ。運転手の居眠り運転か、それとも——
「うわああああっ!」
浩の絶叫が夕闇にこだまする。強くブレーキペダルを踏み込むが、間に合わない。トラックのフロントグリルが眼前に迫る。
時間が止まった。
奇妙なことに、浩の脳裏には冷静な思考が浮かんだ。「ああ、もう仕事の心配をしなくていいのか」
そして——意識が途絶えた。
2
三途の川。
古来より日本人が死の境界線として語り継いできたその川が、確かに浩の眼前にあった。静寂に包まれた水面が、薄明の中を静かに流れている。
対岸に人影が現れた。白い衣装をまとった神主のような人物である。厳かで神聖な雰囲気を纏うその姿を見つめていると、付き添いらしき白装束の人間がもう一人、突然その隣に現れた。
付き添いが神主の耳元に何かを囁く。神主は浩を見据え、静かに手を上げて「帰りなさい」の仕草を示した。
その瞬間、背後から声が響いた。「浩さん、浩さん」
振り返ろうとした刹那——
脳裏に映像が奔流のように流れ込んだ。
古い時代の農村。怒り狂う村人たち。後ろから男を突き落とす瞬間。場面が変わり、南海の海岸のような場所。血で染まった波が顔を掠める感触。
一瞬の出来事だったが、その映像は鮮烈で、まるで自分自身が体験したかのような生々しさだった。それに加えて、他人の遠い過去の記憶が、自分の意識を侵食していくようなそんな感覚を浩は感じたのだった。
「浩さん、浩さん、聞こえますか?」
気がつくと、病院のベッドの上にいた。医師と看護師が慌ただしく動き回っている。背後から聞こえた声——それは医師と看護師の声だったのだ。
3
後に浩が知ったところによれば、衝突の衝撃で車外に放り出されたことが、皮肉にも彼の命を救ったのだった。軽自動車は大型トラックとの衝突で車体前部が大きく損壊したが、浩は衝撃で車外に投げ出され、アスファルトに強打した頭部から大量出血していたという。救急隊員が現場に到着した時、浩は意識不明で呼吸も停止していた。
「頭部外傷と脳震盪、それに全身打撲。一時は呼吸が止まっていましたが、現場での心肺蘇生措置が功を奏しました」担当医はそう説明した。
3ヶ月間の入院と2ヶ月のリハビリを経て自宅療養後、翌月職場復帰した浩であった。
しかし自宅に戻ってからであるが、同じ悪夢が彼を襲う。
午前三時四十二分。デジタル時計の数字が浩の網膜に焼き付く。汗びっしょりになって目を覚ます浩。またあの夢だった。
暗闇の中を誰かに追われる。背後に響く足音。振り返ろうとするが首が動かない。逃げても逃げても足音は近づいてくる。そして口に小石を詰め込まれ、顎が動かない。息ができない——
「畜生...」
浩はベッドから起き上がり、キッチンに向かった。冷蔵庫から水を取り出し一気に飲み干す。鏡に映る自分の顔は青白く、目の下には濃いクマができていた。
事故の後遺症なのか。悪夢にうなされ、目覚めても体が動かない。会社ではボーッとし、細かなミスを繰り返し周囲に迷惑をかけている。毎週一回はこの悪夢にうなされ金縛り状態になってしまう。浩はこのような状態が半年も続いた。
このままでは——
浩は精神科にかかることを決意した。
4
「常盤心のクリニック」
看板を見上げる浩。受付で渡された用紙に、受診希望内容を細かく記入する。10分ほど待っただろうか名前を呼ばれた浩はスライドドアを開けて中に足を進めた。白い壁に囲まれた診察室で、中年の医師がマスク越しではあるが穏やかな表情で浩を見つめ診断を始めた。
「すみません、交通事故で頭を強く打って以来、心身の具合が...」浩は言葉を絞り出した。「夜が怖いんです。同じ悪夢で目を覚まし、得体の知れない恐怖で胸が締め付けられる感覚があるのです」
医師は静かにうなずく。「心的外傷後の反応かもしれません。病状報告書を診せていただくと、佐藤さんは臨死体験をされたそうですね。脳神経学的に言うと、脳が処理しきれない記憶や感情をキャパシティーを超えて処理しようとした時、そのような場面が浮かび上がることが報告されています。特に日本人は川を隔ててこの世・あの世を示すことが多い」
浩は目を見開いた。「記憶?でも記憶は...?」
「あなたが感じている不安や恐怖は、無意識の中でトラウマが甦っている可能性があります。脳は過去の経験から情報を引き出し、無意識的にそれを再現しようとするのです」
浩はしばらく黙った。「でも、僕は何も思い当たる節がないんです」
医師は穏やかな表情を見せた。「その『何も思い当たらない』ことが重要です。私たちの脳には、時折『記憶が閉じ込められる』場所があります。それが遺伝子に刻まれたものであれば——」
遺伝子に刻まれた記憶。
浩はその言葉に戦慄を覚えた。
「最近の研究では、強いトラウマ体験が遺伝子レベルで記録され、次世代に影響を与える可能性が示唆されています。ただし、これはまだ研究段階の話ですが。もしそうした分野の専門家に相談されたいなら、大学の研究機関などにアプローチしてみるのも一つの方法かもしれませんね」
診察を終えて帰路についた浩は、医師の言葉を反芻していた。遺伝子に刻まれた記憶——そんなことが本当にあるのだろうか。
携帯電話を取り出し、連絡先を検索する。“川崎稔”大学時代の友人で、現在は精密機器のエンジニア。「何か困ったことがあったら、研究者を紹介するよ」と冗談なのか本気なのかわからないが常々言ってくれていた男だった。彼は仕事柄研究者と接する機会が多いようだ。
浩は決意を固めた。このまま悪夢に支配され続けるわけにはいかない。もし科学で説明できるなら、それに賭けてみよう。
5
翌日の午後、都内の喫茶店で川崎稔と向かい合う浩。川崎は浩の話を最後まで黙って聞き、しばらく考え込んでいた。
「臨死体験か...実は、そういう分野を研究している人を知ってるんだ」
「本当か?」
「生理学研究所の橘美穂博士。エピジェネティクスの専門家で、最近は記憶の遺伝についても研究している。特に、トラウマが次の世代に与える影響について」
浩は身を乗り出した。「それ、俺の症状と関係があるのかな?」
「わからない。でも橘博士なら何かヒントをくれるかもしれない。海外の研究者とも共同研究をしているから、必要なら他の専門家も紹介してもらえるだろう」
川崎は携帯電話を取り出し、連絡先を確認した。
「今度、研究所に修理が終わった計測器を納品する予定がある。その時に一緒に来るか?ただし——」川崎は真剣な表情になった。「もし本当に研究に協力することになったら、それなりの覚悟が必要だぞ。時間的な拘束も考えられるし、未知の分野だから何が起こるかわからない」
浩は迷わず答えた。「是非やらせてほしい。このまま悪夢に支配され続けるより、真実を知りたい」
川崎は微笑み、握った拳を差し出した。「よし、決まりだ。来週の火曜日、一緒に研究所に行こう」
浩はその拳にグータッチで返した。これが、彼の運命を大きく変える第一歩となることを、まだ知る由もない。
6
その夜、浩は久しぶりに違う夢を見た。
今度は追われるのではない。古い橋の上に立っている。川の流れが眼下に見える。橋の向こうから誰かが歩いてくる。顔は見えないが、なぜか懐かしい感じがした。
目を覚ました時、浩の頬には涙が流れていた。恐怖ではない。長い間失っていた何かを見つけたような、不思議な安堵感だった。
「火曜日が待ち遠しい」
浩は小さくつぶやき、初めて安らかな眠りについた。
しかし、彼が踏み出そうとしている道は、現代科学の最先端と古代の神秘が交錯する、想像を絶する冒険の始まりに過ぎなかった。そこには、大正時代から連綿と続く因縁の糸が、複雑に絡み合って待ち受けていたのである。
<続く>
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