第3話 三つの技術の融合

5年前——国際神経科学学会(ボストン)

午後の陽光が会場の大窓から差し込む中、講演ホールから出てきたスタンフォード大学のジョセフ・アルバーニ博士の顔は、まるで敗北を喫した将軍のように青ざめていた。33歳という若さで既に世界的な注目を集める神経科学者であったが、この日の発表は彼の研究人生における最大の試練となった。

質疑応答での研究者たちの容赦ない追及が、今も耳の奥で反響している。

「解像度の改善見込みはあるのか?」

「ノイズレベルが高すぎて判別不能だ」

「実用化の目処は立っているのか?」

一つ一つの質問が、まるで鋭利な刃物のようにアルバーニの自信を切り刻んでいった。彼が開発した脳内電気信号による記憶映像抽出技術——理論上は完璧なはずのこのシステムが、公開実証実験の映像は不完全で無力な証でしかなかったことを、世界中の研究者たちの前で露呈してしまったのである。

ロビーの片隅のソファに身を沈めたアルバーニは、ノートパソコンの画面に映る自分の研究データを虚ろな目で見つめていた。何度見返しても、出力される映像は薄暗いモノクロ画像で、まるで古いテレビの砂嵐のようなノイズに覆われている。

これが自分の5年間の研究成果なのか——

絶望的な思いが、彼の心を暗い淵へと引きずり込もうとしていた。

「申し訳ございません、アルバーニ博士でいらっしゃいますでしょうか?」

その時、丁寧な日本語訛りの英語が彼の耳に届いた。顔を上げると、知的な眼差しをした美しい日本人女性が立っていた。若くは見えるが、落ち着いた佇まいの中にも、研究者特有の鋭い洞察力を秘めた瞳をしている。胸元の学会バッジには「Dr. Miho Tachibana, Toto University」の文字が見えた。

「そうですが...」アルバーニは疲れた声で答えた。

「先ほどのご発表、最後まで拝聴させていただきました」橘美穂は、敗者を労わるような優しさではなく、真の科学者としての敬意を込めて言った。「私は東都大学の橘美穂と申します。先生の研究に、深い感銘を受けました」

アルバーニの心に、久しぶりに小さな光が差し込んだ。批判と嘲笑しか聞こえなかったこの一日で、初めて聞く理解ある言葉だった。

「感銘を...ですか?」

「ええ」橘の目は真剣だった。「確かに現段階では技術的な課題がおありのようですが、そのアプローチ自体は革新的です。人間の記憶を映像として抽出するという発想——これは私たちの研究分野でも、長年夢見てきた技術なんです」

運命とは、時として最も絶望的な瞬間に姿を現すものなのかもしれない。後にアルバーニが振り返れば、この瞬間こそが彼の人生を、そして人類の科学史を変える転換点だったのである。

「私たちの研究分野、と言いますと?」アルバーニの声に、かすかな希望の響きが戻っていた。

「エピジェネティクス——遺伝子のメチル化パターンの研究です」橘は、まるで古い謎解きの鍵を差し出すように静かに答えた。「特に、記憶と遺伝的継承の関係について調べております」

この瞬間、アルバーニの脳裏に電光のような閃きが走った。エピジェネティクス——遺伝子が環境によって化学的に修飾される現象。それが記憶と結びつくとすれば...

「それは...」彼の目に、研究者特有の知的興奮の炎が宿った。「私の研究とも深い関連がありそうですね」

「実は」橘は周囲を見回し、声を落とした。まるで重要な秘密を打ち明けるかのように。「先生のご発表を拝聴している間に、一つの可能性が頭に浮かんだのです。もしお時間がございましたら、少し私の話を聞いて頂けませんでしょうか?」

アルバーニは即座に頷いた。「ぜひとも。お聞かせください」

二人は人混みを避けて、カフェテリアの最も静かな一角に向かった。そこは、後に科学史に残る重要な議論が始まる場所となるのであった。

学会のカフェテリアで、二人は熱心に議論を始めた。

「私の技術では、メチル化されたDNAのパターンから記憶が形成された年代を特定することができます」橘が説明した。「しかし、その記憶の内容までは分からない。一方、先生の技術は記憶の映像化は可能ですが...」

「出力された映像の画質問題があるんです」アルバーニが率直に認めた。「電気信号だけでは限界がある。もっと多角的なアプローチが必要なのかもしれません」

「神経伝達物質のデータは取得されていますか?」

「一応は測定していますが、データ量が膨大すぎて従来のコンピューターでは処理しきれません。例えて言うなら、本に書かれた文字だけじゃなくて、紙の繊維一本一本にも物語が刻まれている、その部分も読み取らなければ完璧なものとはならないんですよ」

橘の目が輝いた。「それなら、京都大学の神原博士にご相談してみてはいかがでしょう?彼の量子コンピューター技術なら、その問題を解決できるかもしれません」

翌日、二人は神原悟博士の発表会場にいた。50歳の白髪の研究者は、量子物理学と意識の相互作用について語っていた。

「量子もつれの現象を応用すれば、従来では不可能だった膨大なデータの並列処理が可能になります」神原博士の声は穏やかだったが、その内容は革新的だった。「特に、脳内の神経伝達物質の微細な変化まで瞬時に解析できるでしょう」

発表後、三人は静かなラウンジで顔を合わせた。

「神原博士、突然お声をかけて申し訳ありません」橘が切り出した。「私たちの研究について相談させていただきたいことがあります」

神原博士は興味深そうに二人を見つめた。「どのような研究でしょうか?」

アルバーニが熱心に説明を始めた。「脳内の電気信号から記憶映像を抽出する技術を開発していますが、画質の改善に苦慮しています」

「私はエピジェネティクスによる記憶の年代特定技術を研究しています」橘が続けた。「二つの技術を組み合わせれば、いつの時代の記憶なのかまで特定できる映像抽出システムが作れるかもしれません」

神原博士の目が光った。「非常に興味深い。私の量子コンピューターシステムなら、神経伝達物質のドーパミン、セロトニン、アセチルコリンといった化学的情報まで高精度で解析できます」

「それは素晴らしい!」アルバーニが興奮した。「電気信号と神経伝達物質の両方のデータを統合解析すれば...」

「鮮明なカラー映像の出力も可能になるでしょう」神原博士が静かに言った。

「しかし」神原博士は慎重に続けた。「この技術開発には相当な時間がかかります。三つの異なる技術を統合し、最適化するには...最低でも5年は必要でしょう」

「5年...」橘が呟いた。

「それだけの価値がある研究だと思います」アルバーニが断言した。「人類史上初めて、記憶を映像として視覚化し、しかもその年代まで特定できる技術になる」

神原博士は3人の座っている横の壁にかかっていた宇宙の写真を見上げた。

「私には一つの仮説があります。記憶は脳だけに保存されているのではなく、この宇宙のどこかに巨大な記憶保存システムが存在するのではないか...そんな壮大な可能性を探ってみたいのです」

「宇宙規模の記憶庫...」橘が驚いた。

「荒唐無稽に聞こえるかもしれませんが、量子力学の観点から見れば、あながち不可能ではありません」神原博士の声は確信に満ちていた。「もし成功すれば、人類の記憶に対する理解を根本的に変えることになるでしょう」

三人は握手を交わした。それは、科学史に残る共同研究の始まりだった。

「それでは、正式に共同研究プロジェクトを立ち上げましょう」アルバーニが提案した。

「資金はどうします?」橘が現実的な問題を提起した。

「私の研究には有力な投資家がついています」アルバーニが答えた。「純粋に学術的な研究として進めれば、資金面での問題はないでしょう」

神原博士が頷いた。「私の量子コンピューター設備も提供します。人類の記憶の謎を解き明かすためなら、惜しみません」

橘も決意を込めて言った。「認知症やPTSDの治療に応用できれば、どれだけの人を救えるか...私たちの研究が、人類の幸福に貢献することを信じています」

5年後——現在

東都大学生理学研究所の橘美穂の研究室。40歳になった橘博士は、5年間の研究成果を前に深い感慨にふけっていた。

壁には三つの技術が融合したシステムの設計図が貼られている。アルバーニの脳内電気信号可視化技術、神原博士の量子コンピューター解析システム、そして彼女のエピジェネティクス時代解析——これらが完璧に統合されたのである。

「ついに、臨床実験の段階まで来たのね」

橘は窓の外を見つめた。5年間、三人は純粋な学術的情熱に駆られて研究を続けてきた。数々の困難を乗り越え、ついに世界初の「記憶可視化システム」が完成したのである。

モノクロで薄暗かった映像は、今や鮮明なカラー映像として再現可能になった。神経伝達物質の解析により、記憶の感情的側面まで視覚化できるようになったのである。

研究室の電話が鳴った。

「橘先生、AIB株式会社の川崎です」

「川崎さん、お疲れ様です。明日の納品の件でしょうか?」

「実はそれもあるんですが...先生の研究にぴったりの被験者がいるかもしれないんです。僕の大学時代の友人ですが、もしよろしければ明日の納品時に一緒に連れて行ってもいいでしょうか?」

「どんな方ですか?」

「佐藤浩という男性で、現在30歳です。28歳の時に交通事故で臨死体験をして、それ以来同じ悪夢に悩まされているんです。しかも、その夢の内容が...まるで別の時代の記憶のようなんです」

橘は息を呑んだ。私たちが希望する、完璧な被験者が現れたのかもしれない。

「詳しいことは明日お会いした時にお聞かせください。ぜひ一緒にいらしてください」

電話を切った後、橘は深い感慨にふけった。ついに、理論を実証する機会が訪れたのかもしれない。

その夜、東都大学生理学研究所の橘美穂の研究室には、夜更けまで明かりが灯っていた。机の上には資料が山積みにされ、壁にはラットの脳組織写真や遺伝子発現データのグラフが所狭しと貼られている。

橘はアルバーニと神原博士に緊急のウエブ会議を呼びかけた。

「ついに私たちが探していた理想的な被験者候補が現れそうです」

画面の中で、アルバーニと神原博士の表情が明るくなった。

「どのような方ですか?」神原博士が尋ねた。

「佐藤浩、30歳。臨死体験後に先祖らしき記憶に悩まされている男性です。しかも、その記憶はかなり古い時代のもののようで、エピジェネティクス的継承の可能性が極めて高い」

「素晴らしい!もし本当ならこれは運命的な出会いになりそうですね!君のラット実験の成果を人間で検証できる絶好の機会だ」アルバーニが画面の向こうで手を叩いて喜んだ。楽天的で好奇心旺盛な彼は、常にポジティブなエネルギーに満ちていた。「もしその人が被験者としての適格認定ができ臨床実験ができたなら5年間の研究がついに実を結ぶかもしれない。こんなにワクワクすることはありません!」

神原博士は慎重だった。「彼の同意は得られるでしょうか?実験的技術ですから、十分な説明が必要です」

「もちろんです。明日、詳しく話をしてみます」橘が答えた。

三人の研究者は、ついに臨床実験の段階に到達した。5年間の純粋な学術的探究が、今まさに結実しようとしていた。

人類の記憶の謎を解き明かすという崇高な目標に向かって、科学者たちの情熱が一つになった瞬間だった。


<続く>

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