第21話 小野田美由紀

 ドア越しに声を掛けただけで一緒に大学まで案内してくれた調子の良い梨沙に比べて、小野田美由紀はこれまで何度顔を合わしても敬遠された。無理もないか、ここに来てまだ数日では、と思えば梨沙の方が節度がないのか。同じ屋根の下に住んでいるんだ。まだ短いとはいえ性格なんだろう。一緒に行動してもデートにほど遠い内容でも、小野田を良く知る北原が、ほろ酔いの今なら聞きやすい。

「ところで小野田さんとは、絵に関してどんな遣り取りをしてるんだ」

 流石に柳沢君のウィスキーで鍛えただけはある。すでに三杯目のチューハイを注文している。

「やはりゴッホだろうなあ。あの独特の筆使いを真似しょうと思えば出来るが、独特すぎて直ぐばれてしまい、みんなやりたがらないだけなんだ」

 柳沢も山上も彼女の話題がない所為せいか、まだ二杯目のチューハイを飲み始めたばかりだ。恋がらみでないのに美由紀の話をする北原は三杯目で突出している。

「小野田さんもそうなんですか」

「彼女はあの『星月夜』のブルーに拘ってるんだよなあ」

「あれはまるで夜空に蛍が飛んでるようで目が回りそうだ」

 柳沢が不意に批評を言った。

「柳沢はそう見えても美由紀は違うんだ」

 なんで星があんなに渦を巻いているのか、美由紀の見立ては、ゴッホは完全に取り返しが付かないほど精神が病んでいる。そうでなければあんな星を誰も描きはしないそうだ。言われてみれば知ってる限り夜空の星をあんな風に描いたのはゴッホだけだろう。

「小野田さんの作品で夜空を描いたのがあるんですか」

「そりゃあ、誰でも描くが、真面な賞を狙う人は画面上のほとんどを夜空にしてしまう絵なんて描かない」

「そうだなあ。着物の柄はほとんどが花を中心にして描いてますね、それと小野田さんの絵とは接点はあるんですか?」

「ぼくが文化祭で見た時は、美由紀は風景画ばかりだったなあ」

「柳沢君も芸大には見に行くのか」

「でも北原は見に行かないよなあ、何でだ」

「彫刻も美由紀の絵も参考にならないんだ。あいつらのは賞を取るのが目的で、俺のは女性が着飾る着物とは全然違う」

「まあ言われてみればそうだ。しかしひとつの作品を仕上げるという目的では合致する、その一点に絞って小野田さんとの共通点を探るために展示会や美術館に一緒に足を運んでいるんだろう」

「そう言われても、美由紀と好みが合うものはそうない」

「じゃあ休みの日はどうしてるんだ。柳沢君と出掛けるのか」

「山上さん、ぼくは先生の運転手で、北原とは年に数回ですよ」

 これからは山上もいるし賄いの前島さんが来れば、美由紀さんも手が空いて柳沢君も休日は冴木さんに縛られることはない。

「小野田さんと北原君は最近は絵を見に行く機会はないのか」

「山上さんは美由紀を誘いたいのですか」

 柳沢が言った。

「と言うより彼女がどんな絵に興味があるのか知りたいんだ」

「それはまたなんで」

「いや〜、ゴッホの星月夜をあんな風に解釈した人に初めてお目に掛かって、なぜそう見えるのか是非知りたくなった」

「ああ、そう言う理由なら北原に頼めば伝えてくれますよ。ぼくは冴木先生が気になって彼女らには休みの都合は何も言わなくなった。その分はビールのロング缶で彼女らに断った穴埋めをしていますよ」

 そう言うわけで柳沢は直接、彼女らに頼みにくいようだ。

「ほうー、そうなんか。絵なら君の方が頼みやすいか」

「絵の解釈を訊くだけなら彼女は多分付き合うでしょう。俺の時もいつも断られた事はない。もっとも著名な画家の鑑賞なんてそうないけど」

 これで決まった明日の予定は北原君に期待してみよう。

 翌朝、七時に起きてダイニングルームに出れば、まだみんな夢の中だと思っていたが一人美由紀が居た。奥の小さいキッチンテーブルでなくダイニングテーブルの席に座っていた。頼んだとはいえ、まさか北原がこんな早い時間に呼び出したとも思えない。第一彼どころか他のみんなはまだ寝静まっている、あの美紗和さんすらまだ起きていない。まして学生たちは日曜ともなれば、起きるのは九時頃で酷いときは昼まで寝ている。

「今日はどうしたんですか」

「今日はと言っても、山上さんには初めての日曜なのになんで解るんです」

「昨日の北原君から色々訊きまして」

「どんなこと?」

「絵を通じて一緒に見聞を広めているそうですね。最初の切っ掛けもそうなんでしょう。それでこのシェアハウスを紹介したとか」

おおむね合ってますけど」

「違うところもあるんですか」

「それより祥吾君から山上さんも絵に詳しいから話を聞いてみたらと昨夜ゆうべ言ってたのよ」

「昨日? 何時頃だろう」

 夕べは北大路で柳沢とも一緒に呑んで、九時前には帰ってきたが、土曜の晩だというのに誰も居なかった。部屋も静かで美紗和さんまでいる気配がなかった。みんな夕食の後、揃って出るわけはないと思って三人とも部屋に戻った。呑みすぎた所為せいかそのまま寝込んでしまったはずなのに、独り北原だけが起き出すはずもない。一番深酔いしている彼奴あいつだけがあのあと起きるわけもない。

「梨沙と話し込んでいて、十時は過ぎていたわね。祥吾が急に部屋から飛び出してそのままトイレに駆け込んだのよ」

 中々出てこないからドアを叩いてみれば、ゲェー、ゲェー言って「開けるわよー」とドアを開けると吐いてるのよ。二人で介抱してとにかく梨沙には引き上げてもらって、あたし一人で背中を擦って楽にさせた。訳を聞くと山上さんと吉行君と三人で夕食のあとビリヤードだけだと思っていたのに、そのあと呑みに行ったのは知らなかった。そこで祥吾君は相当呑んだと解った。その訳は明日つまり今日、訊いてくれって云われて待っていた。

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