第22話 小野田美由紀2

 差し迫った用件でもないのに、まして日曜日でみんなはまだ寝ている。北原はどんな風に酔いに任せて頼み込んだのだ。

「待ってくれたのはいいがなんでこんな時間に居るんです」

「みんなが起きる前の方がいいでしょう」

「何ですか」

「絵の解らん者と一緒にワイワイ話したくないでしょう。特にゴッホの星月夜なんて他の者に掻き回されたくないのよ」

 なら此処でなく近くの喫茶店にすればいいのに。まだいた店がないのならもっと遅い時間にすればいい。

「絵を描いてる者にすれば先ずあり得ない構図と表現方法なのよね、祥吾の話では山上さんもそれに気付いたそうなの。どうおかしいのかしら」

「柳沢君も言っていたが目が回りそうだと、でもぼくの見立ては、ひとつひとつの渦が小宇宙にして画家の精神の中に、幾つもの抜け出せないものがとぐろを巻いて存在しているように思える。それがまたあの渦はムンクの叫びにも似ていていると思いませんか」

「面白い発想をするところが翔吾に似てるのね」

 心外な北原とは似ても似つかぬ。こじつけもはなはだしい。

「その北原が悪酔いした揚げ句にどんなことを頼み込んだんですか」

「もうッ、あなたたちなのね。祥吾にあれだけお酒を飲ますなんて」

「エッ、誤解もいいところだ。北原は勝手にチューハイを何杯も空けたのに。間を置かないで呑み続けるから、胃の中であのゴッホの絵のように逆流して揚げ句が吐いてしまうなんて」

「あの絵と祥吾を一緒にするんですか、しかも胃の中で」

「何か気に障ったですか」

「いいえその逆、あなたって言う人は……」

 そこで美紗和さんが顔を出し「あらー、朝食はどうしたの」とテーブルに何も載ってないのを見て「トーストでよかったら、用意するわよ」

 美紗和さんは二人に声を掛けて初めてそんな雰囲気でないと悟った。でも恋人同士でも無い、それよりもっと深刻そうに見えた。

 二人とも星月夜の画面上に散りばめられた謎について、門外の人にいじくり廻されれば真相が益々混沌として、とんでもない所に行く着くのを警戒した。

「明日からまかないのおばさんが来るんだ」

「もう、美紗和さんはゆっくりしたら、あたしたち外で済ますから」

 美由紀らしくない意外なひと言に、美紗和は訳ありと二人を見送った。

 朝の八時は早朝ではないが日曜だけあって人通りはまったくなく、小型犬のリードに引っ張られるように歩くおばさんとすれ違った。幾ら深泥池前とはいえ、道路を隔てた向こうは住宅街なのに人が居ない。

「別に驚くことはないわよ。普段はこの時間だと人通りの多い北山通も、日曜の朝は此処と変わらないわよ」

 どうやら瀟洒しょうしゃの住宅街に住む人達は、日曜は家でのんびりして早くても九時を回らないと出てこない人種らしい。朝の食卓で珈琲か紅茶を啜りながら、暑さが残る中で居間まで伸びた陽射しを見て秋を堪能している。そんな時の流れを悠長に構える形容詞が似合う喫茶店が近郊にあった。店の装飾も控え目だが周囲も簡素な佇まいだけに近寄ればそれでも喫茶店と解る。ドアを開けると低いが透き通るようなベルが鳴るようになって、中年の垢抜けした女性が切り盛りしている店だった。

 四人掛けのカウンター席とこぢんまりしたテーブル席が、カウンターを囲むようにL型に配置されていた。通りに面したガラス張りのテーブルに座った。注文を訊きに来た女性とは顔馴染みらしく、珈琲の注文以外に短い挨拶を交わしていた。

「あの絵は自分で自分の耳を切り落とした直後に描いた絵なのよ」

 女性がカウンターの奥に去ってゆくと、家からここまで溜めていたように急に美由紀は切り出した。此処までののんびりした雰囲気が、突然の変貌に覚めたように目が見開いた。この変貌が画家が持ち合わせている絵に対する閃きに近い精神状態と思えば、あの星月夜の歪んだ論評も理解できそうだ。

「あの家で屁理屈に見える画家を称賛すると、思わずみんなは身を引いてしまう。それで美紗和さんが起きてきたのを潮時に家を出たのよ」

「そうらしいが」

「そうらしいでなく、そうなの」

 彼女はハッキリしろと目を光らせている。これじゃあ梨沙とは全くの正反対なのによく一緒に出かけるのが不思議だ。

「それは判った。自分の耳を切り落とすなんて真面じゃない。その真相があの絵の中に凝縮されているとぼくはあの絵を見る度に、解明に挑んでいるがその時々によって解釈が変わってくるんだ」

「エッそうなの。じゃあひとつでも判ったことを訊きたい。何が解ったの」

 彼女に身を乗り出されても、複製画を直視しないで直ぐに出るもんじゃない。

「いったい何なの」

 と沈黙しているとただされた。

「そうは云っても、今頭の中であの絵のイメージトレーニングしている」

「そんなものぐらいで、あの狂人画家の精神が判るもんですかッ」

「ほう、最初からそう決めつけるんですか、まあ狂人は紙一重で現世と繋がってるんです。そこら辺りから切り崩していけば、あの絵の底辺を流れる敷き詰めたブルーの色が彼の精神と結びついて来ると思われる」

「セルリアンブルー、と翔吾が言う共通点は、藍染めに行き着くがそんな単純に分析できる色じゃないでしょう」

「そりゃそうだ。あの絵を百年眺めても、北原が指摘する共通点なんて何処にも見つからないのも当然。狂人が最期には死と引き換えに悟った色なんだ。それを分析するにはそこまで精神を追い詰めないと……」

「まるでチキンゲームね」

 思いついたまま美由紀は口に出した。

「ゴッホはそれに挑んだが、向こうの世界まで持って行っちまいやがった。それを読み解こうとみんながあの絵に穴が空くまで見ている。君もぼくもその独りだ」

「あなたは取り違えている」

 ハア? と山上は考え込んだ。

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