第16話 ピアニッシモ辺境伯1

「アリア様、アレクサンダー様、大変お待たせいたしました。ピアニッシモ辺境伯様をご紹介させていただきます」


 エドワードさんはそう言うと一歩下がって、扉の前のスペースを空けた。

 コツコツと革靴の音を響かせながら、一人の男性が応接室の中に入ってくる。


 四十代前半だろうか、大柄な体格だけど威圧的という訳ではない。

 知的で穏やかな顔立ちのおかげかもしれない。赤茶の髪を後ろに撫でつけた髪型に、穏やかな印象を受ける淡い緑の瞳がこちらを見た。



「ご紹介いたします。こちらがピアニッシモ辺境伯家当主、ホスタ・ロイ・ピアニッシモ様でございます」


 エドワードさんが男性の斜め後ろに立って、紹介してくれた。

 この人がピアニッシモ辺境伯様……。



「お初にお目にかかります。私はアレクサンダー・フォン・ヴァレンタインと申します。ヴァレンタイン騎士爵家の粗忽者ですが、どうぞお見知りおきくださいますようお願い申し上げます」


 アレクが滑らかに長い挨拶をして、優雅に頭を下げた。そして私にも挨拶をしろと合図を送っているのが見える。



「あ、あの、ア、アリア・カンタービレと申しましゅっ!」


 ……噛んだ。


 恥ずかしくて顔が真っ赤になって、もう涙目。助けを求めて隣を見ると、アレクが肩を震わせて俯いている。

「俺が前に出る」とか言っておきながら、笑って話せてないじゃない!

 

「ふふ、失礼。可愛らしいお嬢さんではないか」


 ピアニッシモ辺境伯様が、淡い緑の瞳を柔らかく細める。



「恥ずかしがることはない、誰しも初めは緊張するものだ。初々しい姿で心を和ませてもらったよ」


 うう……恥ずかしいけど、怒られなくて良かった。

 私がそう思っていると、辺境伯様はスッと姿勢を伸ばしてこちらを見た。


 

「私がピアニッシモ辺境伯家当主を務める、ホスタ・ロイ・ピアニッシモだ。此度は長旅を経て我が城まで来てくれてありがとう。万事障りは無かったかね?」

 

「はい、エドワード殿に色々と取り計らっていただけたので、何の問題もなくこの地に参じる事が出来ました」

 

 笑いの発作から復活したアレクが、辺境伯様との会話の前面に出てくれた。

 ピアニッシモ辺境伯様はアレクと話しながらも、こちらにも視線で様子を伺ってくれていたから、私だけ置いてけぼりにされている感じがしないで済んだ。


 ふと自分の心の音に集中していた事を思い出して、辺境伯様の心の音に耳を傾けてみる。

 すると、温かく柔らかいヴィオラが深みのある響きを私の心に届けてくる。

 それは秋の夕暮れのように切なくも美しい音色。優雅に奏でているけど、時折音が歪んで、不安の音色が織り込まれている。



「さあ、そろそろ座って話そうか。私も堅苦しいのは苦手でね。貴族らしい腹の探り合いは、王都の社交場だけで十分だ」


 そう言って朗らかに笑う辺境伯様。アレクも同感だとばかりに頷いている。

 メイドさん達がふたたびソファに座るよう促してくれて、ようやっと座ることができた。緊張でずっと足が震えていたから、やっと座れてほっとする。


 入ってきた扉とは別の扉が開いて、カートを押しながら男性が歩いてくる。

 途中でメイドさんの一人にカートを渡して、一礼して去って行った。


 私とアレクが隣り合って座って、正面に辺境伯様が座る。

 その斜め後ろにエドワードさんが控えて、入口付近には帯剣した護衛の方が直立不動で立っていた。



 私の前にティーカップが置かれる。


 そのティーカップは、まるで夜空に浮かぶクレッシェンドの光を器にしたみたいで、白磁の上を走る青い筆致が花でも蔓でもない不思議な文様を描いている。

 その美しさに思わず息をのんだ。



 ――なんて美しいんだろう。


 触れるのさえためらうような白と青のコントラストで、繊細な美が宿っている様に見える。

 紅茶が注がれると、花のような上品な甘みを感じさせる香りが鼻腔をくすぐってくる。


 一口ずつ食べれそうな可愛らしいお茶菓子もテーブルに置かれて、準備が整ったとばかりに辺境伯様がにっこりとこちらに微笑みかけてくる。



「さあ、それでは頂こうか。この茶葉は隣国から取り寄せた逸品でね。王都でも人気の茶葉だよ。どうぞ召し上がれ」


 そう言って紅茶を勧めてくれた。

 この繊細なティーカップに触るのは怖いけど、それよりもこの美しいカップで紅茶を飲んでみたい。

 そっと手に取って、口につける。

 


「美味しい……」


「そうだろう。我が家のメイド達は紅茶を淹れる達人でね」


 私が思わず口に出すと、辺境伯様が笑った。


 

「王都の社交場なんかで飲む紅茶より、ウチのメイドが淹れてくれる紅茶の方がよっぽど旨い」


 辺境伯様はメイドさん達を褒めたたえて、お茶菓子も勧めてくれた。

 高級な紅茶なんて飲んだことは無いけど、辺境伯様の言う事はわかる気がする。


 もう一口紅茶を飲むと、緊張がほぐれてきた気がした。


 辺境伯様が気さくな態度で接してくれているので、だんだんと心に余裕も出てきた。

 その後も軽い話題でお茶を飲んでいたけど、お茶を交換するタイミングで辺境伯様が話題を変えた。



「さて、そろそろ本題に移ろうか。アリア嬢、君にこの城まで来てもらった理由を話そうと思う」


 ピアニッシモ辺境伯様の知的で柔和な表情は変わらないけど、雰囲気が変化した。

 彼のヴィオラの音も緩やかな調子から、短いテンポへと変わっていくのが聴こえる。

 部屋の空気が引き締まっていくのを感じて、私とアレクも背筋を伸ばして座り直した。



「わかりました。私で出来る事なら、お手伝いさせていただきます」


 私が辺境伯様の目を真っ直ぐに見ながら答えると、辺境伯様はふっと軽く笑みを浮かべてから息を吸い込んだ。



「市井で困りごとを解決している少女がいると報告を受けたのが始まりだった。すれ違いで諍いを起こした夫婦や兄弟間の確執、村の農地をめぐっての争いなどというものもあったな」


 辺境伯様は指を組んで視線を落としながら語り出す。



「親子の気持ちのすれ違いなんてものも解決したと聞いている。エドワードをはじめ、幾人かに情報を集めさせたが、不思議な力でお互いの心を通わせて解決に導いたと報告を受けて、私の悩みも相談したいと思ったのだ……」


 そう言う辺境伯様は少し疲れたような、寂しいような表情をする。



「実は、アリア嬢に相談したいのは、娘のことなんだ」


「娘さん……ですか?」


「ああ、私にはセシリアという一人娘がいる。ちょうど君と同じくらいの年齢なんだが」


 辺境伯様が深くため息を吐いた。



「最近、娘のセシリアと上手くいってないのだ」


 彼のヴィオラが、深い悲しみと困惑の音色を細く長く響かせている。



「私のような娘には話しにくいかもしれませんが、どうか聞かせて下さい」


 辺境伯様の悲しい音を聴いて、なんとかしてあげたいという気持ちが湧き上がってくる。



「ありがとう。話しにくいなんてとんでもない、是非聞いて欲しい」


 辺境伯様は一呼吸おいて説明してくれた。



「どこから話したものか……」


 辺境伯様が、少し困ったように笑う。


 

「娘のセシリアとは、ここ一年ほど衝突してばかりなんだ。セシリアは絵画と音楽を心から愛していてね、素晴らしい才能を持っている」


 彼のヴィオラにクラリネットの語りかけるような音が加わって、セシリア様の事を本当に誇りに想っているんだろうなと思う。



「だが……貴族に生まれた娘としての義務がある」


 辺境伯様の声が少し硬くなる。彼のヴィオラも重く響く。


 

「社交界に参加して貴族社会というものを学び、領地経営を学んで家を支える知識を付けなくてはならない。そして領民と家の発展のために良縁を得る事も、大切な貴族の義務だと私は思っている。しかしセシリアは絵画と音楽以外は必要無いと考えているようでね……」


「それでお互いの意見がぶつかってしまうんですね?」


「ああ、最近は顔を合わせるたびに喧嘩になってしまう……。セシリアは私がセシリアの事を理解してくれないと言い、私も何故貴族の務めを理解してくれないのかと責めてしまう」


 辺境伯様は両手で顔を覆って俯いてしまう。

 クラリネットの音色が何処かへ飛んでいって、今度は低音のファゴットが沈み込むように響きだした。

 深い苦悩を感じさせる音だけど、その奥には強く深い愛情を感じる。これは娘であるセシリア様に向けたものなんだろう。



「セシリアは一人娘だ。いずれ誰か婿を取り領地を盛り立てていかなければならない」


 辺境伯様が顔を覆って吐き出すように言う。

 ……とても苦しそうに。

 


「絵を描き、音楽を奏でるだけでは領地の経営は出来ないのだ。セシリアの将来を思ってのことなんだが……私の気持ちが伝わらないんだ」


 そう言って、胸の中の重いものを絞り出すような、大きいため息を吐いた。


 その時、勢いよく扉が開いた。



「お父様!」


 甲高い声を響かせて、一人の少女が応接間に乗り込んできた。



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