第34話 忠告

「お疲れ様です、真宵さん。」


 空気の張りつめた静けさを、背後の声がゆっくりと裂いた。

 昨晩と同じ、どこか冷たく湿った声。

 ぞわりとした悪寒が首筋を這い上がる。


「……お疲れ様です、馨さん。」


 声の矛先へ振り返れば、馨さんが笑っていた。

 図書室には私と生徒以外の気配はなかったはずなのに、いつの間に背後に潜んでいたのだろうか。

 音もなく、馨さんが一歩、また一歩と距離を詰めてくる。

 彼から離れたい。

 気づかれないよう、少しずつ後退する。

 ……が、 途中で踵が扉にぶつかり阻まれてしまった。


「もうすぐ最終下校時刻ですね。秀一くんと生徒の様子を確認していましたが特に問題なさそうでしたので、真さんのお手伝いにきました。」

「そうだったんですね。お疲れ様です。秀一くんはどちらへ。」

「ふふっ。先に生徒室へ戻りましたよ。」


 なるべく恐怖を悟られないように応えてみる。

 果たして、私の声は震えていないだろうか。


「……それより、真宵さんは進捗いかがですか?」

「特に進展がなかったです。お役に立てず申し訳ございません。」

「いえ、謝らないでください。むしろ安心しているんですよ。」


 自分の世界に浸っているのか、どこか虚ろな表情で、にっこりと微笑む馨さん。

 頬に手を当て、ふっと息を吐く。

 安心……?

 得体のしれない恐怖を感じる。

 逃げるように図書室から出ようと、扉に手をかけた。


「ふふっ」

「うわっ!!」


 ――一気に距離を詰められた。

 馨さんと扉に挟まれ、わずかな隙間しかない中でもがく。

 彼の体はビクともしない。

 せめてもの抵抗として馨さんをにらみつける。


「何をするんです、か…………。」


 ――本能が「今、抵抗してはいけない」と判断した。

 何かに囚われてしまったかのように、馨さんの瞳がどろどろと濁っている。

 じっとりとした視線を向けられる。

 身体が強ばり、動けない。

 彼のひんやりした手が耳に触れ、反射的に体が震えた。


「――かわいい真宵さん。教えてください。」


 指先が頬の輪郭をなぞる。

 耳元で、息が触れた。

 酷く甘い声。

 けれど、吐息には有無を言わせぬ命令が混じっていた。


「――あなたはどこまで思い出しているのですか?」

「え…………っ!」


 ――馨さんが記憶喪失のことを知っているのか。

 心臓の鼓動が激しくなる。

 汗が首元を伝って気持ち悪い。


「ふふっ驚かないでください。昨晩ルルさんと2人きりでその話をしていたのでしょう。私、知っているんですよ。」


 ルルさんとのやり取りまで知られている。

 光が入り込まない瞳が冷たく、心に突き刺さる。

 呼吸が喉の奥で詰まり、肺が空気を拒んだ。

 怖い。

 助けて。


「ふふっ。必死に隠しているようでいて、隠しきれていない真宵さん。――そんな隙だらけのあなたが好きなんです、私。」


 私の青ざめた表情を見て、彼は幸せそうに目元を緩ませた。

 ルルさんだけではなく、馨さんまで私の記憶喪失を知っていた。

 ……馨さんはどこまで私のことを知っているのだろうか。

 聞きたい。

 自分の記憶を取り戻したい。

 知りたい、が。


「――知らないです。」


 喉が引きつる。

 けれど、視線は崩さない。

 ――2人だけの秘密だと、約束した。

 ルルさんへ口外しないと誓った。

 だから、例え馨さんに知られていたしても、決して言葉にしてはいけない。


「……心当たりがないです。なんのことでしょうか。ルルさんとは生徒会のお話をしていただけですよ。」


 声は裏返ったが、はっきりと言ってやった。

 馨さんは、表情を失ったまま動かない。


「……ふふっ、そうですか。」


 時間が止まったと錯覚するほどの静寂の中、先に沈黙を破ったのは馨さん。


「今回は、その答えで……許してあげます。だって、私は真宵さんにとって優しい先輩でいたいですから。」


 ひんやりとした手が耳から離れ、ひとまず安心する。 

 しかし、それも一瞬のこと。


「でも、思い出さないでくださいね、真宵さん。」


 耳元で、囁く。


「――私、嫉妬でおかしくなってしまいますから。」  


 息が、耳にまとわりついて離れない。


 無機質なチャイムが室内に響く。


「では、私たちも生徒会室に戻りましょうか。」


 動けない私の身体を支え、扉を開けてくれる馨さん。

 ……早く、この場所から離れたい。

 ルルさんに会いたい。

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