片鱗
線香の香りがした。
その後暖かな陽の光を感じた。まるでふかふかの布団に包まっているような心地の良さだった。
気がつけば、私は大堤の畔に立っていた。しかし夢で立っていた側の岸ではない。その対岸、いつもカモシカが現れる側の岸に立っていた。
空は青く、真っ白い雲がゆっくりと流れていた。春らしい陽気が私の頰を暖めた。
足元に釣り竿か置かれていた。私はそれを手に取り、堤に釣り糸を垂らした。釣れるはずのない魚を狙って。
奈良へ引っ越す直前の頃、父と交わした会話が思い起こされた。
「そこの堤で釣りしたいんだけど」
「何もいないよ」
「そうなん」
「二年前に親父が水抜きしたらしい」
「一人で?」
「らしい。色々出てきたって」
「色々って?」
「教えてくれなかった」
「ふぅん」
今思えば、これ以来今まで父と全く会話していなかった。
爽やかな風が吹き抜けた。水面が揺れ、浮きが波に煽られた。
刹那、浮きがスッと水中に消えた。糸が引き込まれ、竿に重みが乗った。ただ生命反応はない。重いだけだ。
切れないように慎重に引くと、徐々に何かが浮き上がってきた。灰白色の何かがぼんやりと水面に姿を現した。私はそれを見たことがあった。祖父の通夜が行われた日の真夜中、矢口邸の二階で、私はそれを見た。
浮き上がってきたのは、カモシカの頭骨だった。
これが四つ目のカモシカなのかは分からない。普通のカモシカの骨格さえ分からないからだ。しかし、釣れてはならないものが釣れてしまったという、根拠のない確信はあった。
夢の中で父が言っていた言葉を思い出す。
「釣れなくていい」
「釣れるとおじいちゃんみたいになる」
「これでいい」
叔父もここに来たのだ。そしてこれを釣ってしまったのだ、と思った。
コンクリートの壁に触れた手の感触が薄れつつあった。片栗粉を大量に溶かした水に手を突っ込んでいるようなあの感触が、急激に消えてゆく。
なんとなく、二度と戻れないような気がした。動物的な感覚と言えばいいのか、なぜか分かるのであった。
いつも夢で立っていた対岸には行けないのだと分かった。これもまた動物的な勘だった。
足元には、カモシカの大きな頭骨がごろりと転がっている。鼻のあたりだろうか、酷く損傷している箇所があった。よく見てみれば、何やら外部からものが刺さったようだった。
先程まで読んでいた狩猟記録の文が頭に浮かぶ。
死体は大堤にて処理
正嗣が四つ目のカモシカを獲っては武芸練習場で生かしていたことを、祖父は知らなかったのだろう。正嗣を自身の管理下に置いて初めて、異形のカモシカが存在していることを知り、正嗣の行為を知ったのだろう。
そのカモシカが死んでしまった時、祖父は納屋で死体を処理した。正嗣がいつもどのように処理していたのか知らなかったのだろう。あの桐箱に入った頭骨は、その時のものだったのかもしれない。
それから何十年もの時が経ち、四つ目のカモシカの存在など疾うに忘れた頃、大堤で骨骸を発見したのだ。
祖父はたいそう驚いたことだろう。怖かったろう…。だから祖父は死の間際、何かを恐れているような素振りを見せたのだ。
もう疑う余地はなかった。矢口家はカモシカに呪われていたのだ。
元木田帝治に始まり、矢口正嗣に受け継がれたカモシカの呪いは、祖父を苦しめ、博通叔父を失踪させたのだ。
全てが繋がったように思えた。
しかしそれと同時に、何かを見落としているような気もした。
もしこのシナリオ通りだとしたら、少し妙なことになるのではないか。
狩猟記録は、かつては元木田家が、分裂後は矢口家が所有し、その中身を見ることができたはずだ。ならば、家訓の禁忌を破った元木田帝治は、件の狩りの段階で一族から総バッシングを食らってもおかしくないのではないか。
仮にも名家の子として厳格に育てられた正嗣が、易易と禁忌を破って妙なカモシカを狩り続けるだろうか。
何事にも厳しい祖父・正治が、過去の狩猟記録を確認せずに異常なカモシカの死体を処理するだろうか。もちろん、記録を見た上で、大堤で処理することに抵抗があったのかもしれない。しかし家督を継ぐ際に狩猟記録を見ていれば、正嗣によって獲られた奇妙なカモシカが他にも居たことを知っていたはずで、先程のシナリオは成り立たなくなる。
何かを見落としている。私はこの数日で見聞きしたこと、今まで聞かされてきた矢口家の歴史について必死に回想した。
……。
そういえば、なぜあの新しい狩猟記録の記録者は曽慶家の人間ばかりなのだろう、と思った。少なくとも元木田帝治が当主を務めていた明治後期以降、記録者は全員曽慶家の人間だった。曽慶昌、曽慶典司、曽慶典明、曽慶崇、曽慶弥七郎、曽慶弥里。
あの狩猟記録は曽慶家の手にあったのではないか。狩猟記録が曽慶家の手に渡って隠匿されることで、帝治は追及を逃れたのではないか。正嗣はカモシカを獲り続けたのではないか。祖父は四つ目のカモシカの存在と処理法を知らなかったのではないか…。そして、祖父が当主となってから何十年もの歳月を経て矢口家に帰還し、死の数年前から祖父を少しずつ蝕んでいたのではないか。
すべては私の妄想に過ぎず、確かめる術はなかった。しかし、妙に筋が通っているように思えてならなかった。
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