裏山
翌朝目覚めると、なにやら父と母が騒がしく歩き回っていた。
どうしたのかと思い、部屋にやってきた母を引き止めて聞いてみると
「博通叔父さんがいない」
と焦り気味に言う。
「そんなまさか。隣の部屋で寝ていたはずだよ」
「そうなんだけど…、今家のあちこちを探してもいないのよ」
「外にでも出たんじゃない?」
「博通叔父さんならちゃんと言ってから出るわよ」
確かに、あの真面目な博通叔父が何も言わずに何処かへふらふらと出歩くのは想像できず、私にもその異常さが少しずつ分かってきた。その後は私も叔父探しに加勢し、畑などにも探しに行ったが、叔父は一向に見つからない。叔父の愛車である黒のクラウンは庭に止まったままだった。
「もしかして森に入ったのか」
父が言う。
そうなると、探すのは難義だ。矢口家の所有する森は、面積で言えば元山家のそれを大きく上回る広大な土地である。しかもそのほとんどは放棄された林野で、無数の倒木や崩れ落ちた崖、探すとなればそれ相応の準備をしなくてはならない。母は警察に相談することを提案した。
しかし父は首を縦に振らなかった。
「あいつは必ず俺が見つけ出す」
と勇み、物置から登山道具を引っ張り出して、すぐにでも山に入ろうと躍起になっていた。おそらくそれが現実的ではないことを、父も充分分かっていたはずだ。今思えば、それでも兄として弟を救わなければという強い覚悟で言っていたのだろう。
何度も何度も電話をかけても、何度も何度も家の中を探し回っても、叔父の行方は分からなかった。となるとやはり山だろう、と父は項垂れた。母の説得で、父は仕方なく警察に相談することに同意した。
到着した警察に状況を詳しく説明すると、若い巡査はすぐに署に連絡を入れ、さらなる増援を要請した。本格的な捜索が始まったのは昼頃で、父は案内役として警察に帯同した。
捜索の最中、私や母は警察の事情聴取を受けたが、叔父については最低限知っていることしか話すことができず、あまり参考にはならないと思われた。
捜索は夕方に一時打ち切られた。説明に訪れた警部補によれば、振り始めた雨の影響で山野の状態が悪く、暗闇で捜索を継続しても二次被害のリスクが高まるだけだという。父は歯軋りして悔しがっていた。
その日の雨は、激しいとは言わずとも長々と降り続く雨だった。実に十五日振りの雨に喜んでいるのか、大堤の牛蛙がいつにも増して五月蝿く声を上げていた。私はその声を仏間でじっと聞いていた。本来なら直也と飲みに行くはずだったのだが、こんなことが起きてはそれどころではない。直也からも「また今度な」という電話が来た。
叔父は何処に消えたのか。叔父の「まるで呪いだよ」という言葉が、頭の中で浮かんでは消え浮かんでは消えていった。
背後の仏壇に置かれた祖父の遺影が、こちらを睨みつけているような気がした。仏壇に向かって右側の鴨居に飾られた矢口家先祖の遺影は全てモノクロ、祖父の遺影だけがカラーで、私の目には少し異様に映った。
「ここに居たのか」と父が声を掛けた。祖父の葬式の疲れに加えて、叔父の失踪という事件が重なり、その声すら掠れてしまっていた。
「叔父さん、どこ行ったんだろ」
私は呟いた。
「さぁなぁ、何事もなければ良いんだけどなぁ…」
父は祈るように目を閉じた。
しばらくの沈黙が流れた。その間も雨は降り続き、庭の向日葵がしとどに濡れて、花弁が萎えたように垂れている。重暗く緞帳のような雲が空に蓋を被せてしまっていた。蛍光灯が時折、ぶぅぅーんんん、ぶぅぅーんんんと音を立てて瞬いた。
「父さんも、都会は無理なの?」
沈黙を破ったのは私だった。
「うーん、暮らしたくはないね」
父は、かつて元木田財閥の一角だった建材会社に勤めていた。実際のところ、具体的にどんな仕事をしているのかは知らなかった。とは言え、これまで特に大きな出張などがなく服を汚して帰ってくることがなかったことを踏まえれば、社内業務が大半を占める事務方なのだろうと予想はできた。
「叔父さんが言ってたんだよ」と一昨日の夜に門の下で話した「呪い」について語ると、父も似たような体験があると頷いた。
「身体が痒くなるくらいだけど、あるね」
「仙台くらいでも?」
「なる。というか、この町を出れば多少なりともむず痒い」
父は諦めたように語った。
「親父も同じことを言ってた。物心つく頃には死んでたけど、多分じいさんの正嗣さんも同じだったんだと思う」
父は続けた。
「カモシカの夢を見るんだ。晴れやかな秋晴れの下、まだ子供の俺がそこの堤で鮒っ子釣りしてると、若い親父が横に腰掛けてきて同じように釣り糸を垂らすんだ。魚のアタリはあるんだが、一向に掛からない。でも親父はそれでいいと言う。バシャンと音がしてそちらを見れば、大きなカモシカが片脚を水に突っ込んでる」
雨が少し強まった気がした。
「たまに俺の横に博通が座る。そんなときは決まって四つ目のカモシカがやってくる。親父は銃を持ってきて、そいつの頭を撃ち抜く。夢の中で親父は、撃ち抜いた頭を切り落として真っ黒に塗り固めた桐箱に入れる」
私はハッとした。心臓がギュッとなるのを確かに感じた。
父がこちらを見た。真っすぐに目を見てきた。
「それは現実にもあるんだ。お前も見ただろ」
心臓が止まったような心地がした。
「なんで、それを」
「あんなとこにあんなものがあったら誰だって見るさ」
父は笑った。
「俺も中坊のときに思わず覗いた。でも俺には学がないから、その頭骨が夢に出てきたみたいな四つ目の化け物なのかは分からなかった。お前は大学に行ったから分かるだろうが」
「俺だって分かんねぇよ。文系だぞ」
「そうか」と父はまたケラケラと笑った。
雨は激しさを増して豪雨となり、庭の向日葵さえ見えなくなった。
警察から「明日の捜索は断念する」と連絡が来たのはそう後のことではなかった。
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