過去(3)

 正嗣から会社を継いだ祖父・正治は、まず借金の返済を急いだ。また、それまですべての工程を自家でやっていた煙草を、葉の栽培と乾燥のみに留めて工場を畳んだ。

 工場勤務の従業員たちについては祖父が、伯父である元山正次に頼み込み、元木田財閥のうちの一社がまとめて雇うことになった。

 そこからしばらくは、祖父と一部の親類が馬車馬のように必死で働き、なんとか借金を返済することに成功した。これをもって、祖父は会社を閉めた。

 祖父の、このある種キッパリとした潔さは親戚各所から賞賛を受けることとなった。滅多に他人を褒めないことで有名だった正次でさえ、

「轟沈してもおかしくないくらいの船を、無事に陸揚げに漕ぎ着けた有為の人だ」

と、その決断を全肯定するほどだった。

 それ以降、祖父は祖母と共に畑仕事に精を出し、豊穣とは言えぬものの幸せな生活を送っていた。


 ちょうど祖父が会社を畳んだ頃、正嗣はますます気をおかしくし、当時介護を担当していた弥里みりさんに正体不明の獣を重ねて酷く怯えるなど、とても不安定な状態にあった。

 この弥里さんというのは、元々武士だった元木田家の下人だった家の人である。

 正嗣は自身が生まれ育った、山奥にある武芸の練習場に幽閉されていた。目は落ち窪み、頰はけ頭髪は真っ白、縁側の籐椅子にもたれ掛かって日々を過ごしていた。

 基本的にはただ茫然自失としているが、時々カッと目を見開いて弥里さんから逃げ出したり、物置から道具を持ち出して矢を射っていたという。


 祖父が三十歳を迎えた日の夜、練習場から弥里さんが裸足で駆け出してきた。それを見つけたのは、当時矢口家に書生として居候していた弥里さんの兄・弥七郎やしちろうで、憔悴しきった妹に何があったのか訊ねるも、弥里さんはただただ辛そうに息をするばかりで何も話すことができなかった。この様子を見た祖父はただならぬことが起きたと即座に察し、弥里さんの介抱を祖母に託し、自身は木刀を持って弥七郎と共に練習場へ向かった。

 大堤の横、当時まだ人一人通るくらいに細かった道を抜け山道を登っていけば、江戸時代から建つ立派な練習場がある。しかしその夜二人が目にしたのは、猛々と天に昇る炎とどす黒い煙だった。


 この炎は練習場を丸ごと飲み込み、周辺に延焼して森林を一ヘクタールも焼いた。焼け跡からは正嗣のものと思われる遺体が発見された。この遺体はしっかりと弓を握っていたという。

 焼け跡の様子から、発火元はおそらく寝室として使われていた部屋で、その部屋にあったはずの様々な獣の剥製が全て粉微塵になっていた。

 しかし、寝室から燃え広がったであろうことは分かったのだが、発火原因はまるで不明だった。唯一の目撃者だったはずの弥里さんは、火事による怪我こそなかったものの、山野を駆けたことによる脚の怪我がことのほか酷く、転倒して頭も打っていたため検査入院と相成った。退院後、警察が幾度か事情聴取をしたのだが、彼女はショックのためか火事の記憶をあまり覚えておらず、この衝撃的な出来事が如何にして起きたのかは杳として知れなかった。


 仮にも名家の生まれ、元木田財閥を牛耳る元山正次の弟が死んだとあって、その葬儀は盛大に執り行われた。矢口家と元山家といった親族はもちろん、村長や村議会の議長、県庁からも役人が参列して正嗣の死を悼んだ。

 その葬儀の夜、精進落としの宴会が矢口邸で行われたのだが、ここで奇妙なことが起きた。

 宴会の最中、森の方から木々がざわめくような音が聞こえてきたのだという。風などほとんど吹いていない夜、これはおかしいと思った数人の参列者が開け放った座敷から外の森を見遣ると、そこには無数の光る目があった。参列者はぎょっとして、思わず「ああっ」と声を出した。

 その時、雲から月が抜け出して森を照らした。ぼんやりと浮き上がった森の中に見えたのは、そのおびただしい目の主らであった。

 カモシカだった。

 そこには実に十頭以上のカモシカが、矢口邸をじっと見つめていた。その異様さは、空気を辿って座敷で呑んだくれていた他の参列者たちにも伝わったらしく、場は一瞬にして凍りついた。

 今からおおよそ四十年前、奇しくも祖父の葬儀と同月同日の出来事であった。

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