SESSION 2
目が覚めた。ぼくはベッドの上にいた。
「夏休みの宿題やんなきゃ……」ぼんやりした頭でそう思う。
部屋の中が暗い。窓のほうを見ると、月明かりが窓枠を光らせている。夜になってしまったみたい。
「椅子の材料、庭に置いたままだ」
せっかく切った椅子の材料が夜露に濡れてしまうのを心配して、起き上がろうとしたとき、ぼくは思い出す。
キカイのひとがこっちを見てる――。
作り物の目がじっとぼくを見ていた。
ぼくの言葉に右手がピクリと動いた。
動いちゃいけないのに……。
動くわけないのに……。
ぼくは、怖くなって、またシーツを被る。
「前はよかったな」
そう思う。
キカイのひとがウチに来るまで、ぼくはパパとママと三人で暮らしていて、ママはいつも三時になるとケーキやクッキーを焼いてくれて、晩ご飯は三人でママの手作りの料理を食べて……。ママの得意な料理はクリームシチューとローストビーフで……。
キカイのひとが来てからは、ママがお昼に家にいることはほとんどなくて、ぼくはいつもキカイのひととお留守番。三時になってもケーキやクッキーはなくって、晩ご飯だってキカイのひとが作ったもの。
パパやママはそれでも「おいしい、おいしい」って食べるけど、ぼくには全然おいしいって思えない。
「あいつなんてウチに来なきゃよかったのに……」
シーツの中でぼくはそう呟く。
そう呟いてから、「あれ?」と考える。
「あいつがウチに来たのって、いつだったっけ?」
たしか、ぼくが小学校に入った頃だった、と思う。違うかな? もう少し後になってからだっけ? 運動会のときは、たしか、ママが手作りのお弁当を持ってきてくれたから……。
あれ? ぼく、運動会って出たことあったっけ?
何も思い出せない。ううん。思い出せるんだけど、はっきりしない。
担任の先生って誰だっけ? どんな顔してたっけ? 夏休みっていつから始まったんだっけ? ぼくって本当に学校行ってたっけ?
頭の中のどこかにぼんやりと浮かんでくるんだけど、全然はっきりしてなくて、それが本当にあったことなのかどうかがわからない。
あれ? パパってどんな顔してたっけ? ママってどんな匂いしてたっけ?
ぼくって、いったい誰だっけ?
◇
「この世界では十八歳になったら、大人だ」
パパが、僕の頭をくしゃくしゃっと撫でながら、ソファの上で言った。
ぼくはテレビから目を離して、パパの顔を下から覗き込む。
「おまえは何歳になったんだっけ?」
パパが顎髭を摩りながら訊いた。
「八歳だよ。先月の誕生日で八歳になったんだ」
そんなことも覚えてないの? って、ほっぺを膨らませながらぼくは言う。
「そうか。なら、あと一〇年後、かな……」
「あと一〇年したら、ぼくも大人になるの?」
ぼくは訊く。
「そうだね」
パパが答える。
「大人になったら、ぼくにもキカイのひとに命令できるの?」
ぼくはちょっと嬉しくなって訊く。
「そうだね」
パパはあんまり嬉しくなさそうに答える。
「十八歳になったら、ラボに行って、チップというものを左肩のところに埋め込んでもらうんだ」
「チップ?」
「ああ。IDと言ってね、おまえがおまえであることを証明するものなんだよ」
「ぼくがぼくってことを、ショウメイ?」
「ほかの誰でもない、おまえだってことの証拠だよ」
証拠なんてなくったって、ぼくはぼくだ。
「とにかく、そのチップを身につければ、おまえは誰もが認める大人になったってことなんだよ」
「ふぅん」
パパの説明はときどき難しい。でも、それもぼくが大人になったら、きっとわかるんだろうな。
「チップを埋め込んだら、おまえもロボットに命令することができるようになるよ」
「そっかぁ」
ぼくはまだ八歳になったばかりで、左肩のところにチップっていうのが埋め込まれていないから、キカイのひとに命令することはできないんだ。そういうことか……。
「でも、それって痛くないの? 肩のところに埋めるんでしょ?」
ぼくは、テレビで見た「カイゾウシュジュツ」を思い出して訊いた。暗い部屋で、白い服を着た悪の軍団の科学者が人間を「カイゾウ」するんだ。
「きっと痛くなんかないよ」
パパは笑って答える。
「だって、そのときおまえは、もう大人になっているんだから……」
悪の軍団の「カイゾウシュジュツ」は大人の人間だったけど、苦しんでいたように思う。大人だって、痛いことはあるんだろう、って思うんだけど……。
◇
ぼくはベッドの上にいた。
どうやら、「カイゾウシュジュツ」されていたわけじゃないみたいだった。
また眠ってしまってたみたい。
変な夢だったな。ぼくは、ぼく。パパは、パパ。ママは、やっぱりママ。なんでおかしなこと考えてしまったんだろう。
どこからが、夢……だろうか。
どこまでが、夢……なんだろうか。
家の前でブレーキの音が響いた。
「パパだ!」
今帰ってきたんだ。
一瞬ドアの向こうが気になって、ノブに伸ばしかけた手を引っ込める。
キカイのひとより先に、パパの顔を見て話をすれば、パパならきっとわかってくれるのに……。車から降りて、家に入ってくるまでがチャンスなのに……。
「いっきに走ればだいじょうぶ」
ぼくは、ぼくに言い聞かせて、思い切ってドアを開ける。
暗い部屋から飛び出して、廊下の明かりで目が眩みながら、階段を駆け下り、玄関に走る。
「パパ! 聞いてよ!」
そう大声で言いながら、ぼくにはちょっと重い玄関のドアを、力を込めて開く。
パパは車を停めて、アプローチをゆっくり玄関へと歩いていた。薄明かりの中でパパの顔はよく見えない。ぼくに気づいて、微笑んでいるようだった。
靴も履かずに、パパのほうに駆け寄ろうとしながら、ぼくは叫ぶ。
「パパ! 今日、あいつ、ぼくのことじっと見てたんだよ! 怖かったんだよ!」
パパに言いつけてやるんだ。あいつなんか追い出してもらうんだ。ぼくはそう思いながら、怖かった気持ちを精一杯言葉に込める。
パパの顔がだんだんと玄関の明かりで照らされてくる。
にっこり笑ったパパ……。その後ろに人影があった。ぼくの目はパパの笑顔を通り越して、そっちに向く。
パパの笑顔が明かりで照らされているのと対照的に、まだ薄暗がりにいるその顔はぼんやりと、重い。
パパがぼくに近づくにつれて、暗がりの顔もぼくに近づいてくる。一歩近づく毎に「ジーッ」という音が玄関前に響く。
ぼくは、その度に一歩づつ玄関へと後退る。
パパの後ろ、薄暗がりの中から玄関の心細い淡い光の中に現れたのは、表情のない、鉄仮面のような、作り物の顔だった。
ぼくは息ができなくなる。
「どうした?」
パパが、ぼくの頭をくしゃくしゃっと撫でて、ぼくに声を掛けた。
ぼくとパパの脇をキカイのひとが、パパの鞄を持って、玄関へと通って行った。
「ジュンがどうかしたのか?」
パパがキカイのひとを顎で指しながら、訊いた。
ぼくは、ちらりとキカイのひとのほうを横目で見る。キカイのひとは、玄関先でこちらを振り向いて立っていた。ぼくは、もう何も言えなくなった。
◇
気がついたら窓の外が明るかった。
ぼくはあのあと、すぐに自分の部屋に閉じこもった。
どうやってパパやママにあいつのことを言いつけてやろうか、そんなことを考えているうちに眠ってしまったみたい。
何時なんだろう……。
「ママ!」
眠い目を擦りながら、ぼくはシーツから這い出し、ドアに向かう。
「ママぁ!」
もう一度大きな声で言ってみる。返事はない。
ぼくは、何の躊躇いもなく、ドアを開ける。
家の中は静かだ。
ママは出掛けてしまったんだろうか?
一階からはテレビの音もしない。キッチンでお皿がぶつかる音もしない。
あいつは?
キカイのひとはどうしてるんだろう? いつもママやパパが留守のときみたいに、キッチンの隅でじっとしてるんだろうか?
部屋を出たところから動かず、じっと耳を澄ます。
家の中はやっぱり静かだ。誰かが動く気配もない。
家の前でママが隣のおばさんと話している声が微かに聞こえる。
「ママーっ!」
ぼくは、表にも聞こえるぐらいに大きな声を出す。ママには届かない。
廊下を進んで、階段を見下ろしたとき――心臓が破裂しそうになって、ぼくは息ができなくなった。
階段の下にはキカイのひとが立っていた。そして、じっとぼくのほうを見上げていた。
目が合った。作り物の目には光がない。がらんどうで油断すると今にも吸い込まれそうになるその目が、ぼくを見つめていた。ぼくは動けない。
キカイのひとが、ゆっくりと、ぼくを見つめたまま、階段を上り始めた。「ジーッ」という音が微かに、だけどはっきりと耳に届く。まるで、ぼくに聞かせるためにわざと大きな音を立てているんじゃないかと思うぐらいに、はっきりとした音だ。家の中全体が、キカイのひとの立てる「ジーッ」という音に共鳴し、振動する。
その音に、ぼくは押し潰されそうになる。立っているのが精一杯だった。その間にも、「ジーッ」という音は響き、キカイのひとは一段一段近づいてくる。
空洞の目はぶれることなく、ぼくを見つめ、ぼくを吸い込もうとする。
ぼくはその場で尻もちをついた。足に力が入らない。
キカイのひとがその手をゆっくりとぼくに近づける。ぼくは賢明に手で廊下のカーペットを引っ掻き、尻もちをついたままキカイのひとの手から逃げようとする。指先がぼくの足に近づく。
「ひいぃ」と声にならない空気が、ぼくの喉の奥から漏れる。
キカイのひとがぼくの足首を掴もうとする。
逃げられない、それはわかっていた。けれども、キカイのひとの手を蹴り払おうと、ぼくは力の入らない足を振り回す。
威力のないキックが偶然にキカイのひとの頬に当たったとき、キカイのひとの動きが一瞬だけ止まった。ぼくは慌てて座ったまま後退りする。
「来るな! あっち行けったら!」
ぼくは大きな声で精一杯強がって言う。それでもキカイのひとはゆっくりと階段を上りきり、ぼくを怖がらせるみたいに、さっきよりもゆっくりと廊下を歩き始めた。
ぼくはどうなってしまうんだろう。
キカイのひとは、ぼくを捕まえてどうするつもりなんだろう。
ぼくは何を怖がっているんだろう。
怖いって何なんだろう。
座ったままの後退りで、ぼくは廊下を進む。
いつの間にか、ぼくは自分の部屋の前を通り過ぎていた。
キカイのひとの動きはゆっくりで、だけど、ぼくがそうやって進むよりも少し速くて、確実にキカイのひととぼくの距離は縮まっていく。キカイのひとがどんどん大きくなっていくようだった。
キカイのひとは近づきながら、何かを喋ろうとするかのように、薄く、ぼんやりと口を開こうとするけれども、「ジーッ」とか「シューッ」とか、そんな音がするばかりで、言葉のようなものは聞こえない。
キカイのひとは近づきながら、何かを伝えるかのように、その真っ黒な目をグリグリと動かすけれども、作り物の黒い塊からは何も伝わらない。
キカイのひとは近づきながら、何かを訴えるかのように、首を傾げるけれども、操り人形のようなその動きは、ぼくに恐怖しか与えない。
背中に何かが当たる。
廊下の突き当たりだ。
キカイのひとはぼくの目の前にいる。手を伸ばせばすぐ触れるような距離だ。
もうダメだ。ぼくはきっとキカイのひとに首を絞められて殺されてしまうんだ。
なんとなくだけど、そう思って目を瞑る。
「ジーッ」という音が止まる。ぼくを見下ろしているみたいだ。
ぼくは、そっと目を開けて、キカイのひとを見る。
「メイレイヲ……」
キカイのひとからそんな声が聞こえた気がした。
次の瞬間、キカイのひとがゆっくりとその場に崩れ落ちた。崩れ落ちるキカイのひとの向こうには、ママが立っていた。
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