どんぐりと油揚げ

「ん?」と聞くが、大きな猪は「…なんもねぇ」と無愛想に答える。


…つゆには本当に聞こえていなかった。


そして、まっすぐ天井を見て寝転ぶ天護に本当にぴたっと張り付いている。


そのお陰でつゆの体温はどんどん戻っていく。


「はぁ、暖かい…(くんくん)、しかもなんでこんなにいい匂いなんですか?」


「…えぇ匂いじゃないだろう」


「いい匂いですよ?御香かな…(くんくん)いや、これは…土とか木っぽい匂いかも…(くんくん)」


「そんな嗅ぐなや…」


「だって、いい匂いじゃないとかいうから…」


「…もう寝ろ。」




真っ暗な静寂、外で風に揺れる木々の音が聞こえるほどに。



「…今日は助けてくれて本当にありがとうございました。」


「気にするな。」


「…いつも山の中にいるんですか?」


「いや…なにか…そのぉ…気配がしてな。」



口数の少ない猪さんにしても、あまりにもあからさまに言い淀んだ。


本当は、なぜなら数日前に云壇が言っていたからーーー


“あのお客さんが家を買ったよ!近々ここにお参りにくると思うから気をつけておいてあげてね!”


そのため天護は橙と蒼を連れて山の中の様子に気を配っていた。



そして、つゆが囲炉裏の火で天護の顔を見たとき天護もまたつゆを見ていた。


天護は思った。


神として何世代もの人間を見守ってきたが、人間の目をきちんと見たのはきっと初めてだ。それが今、自分を嗅ぎながら“いい匂い、暖かい”と言って幸せそうにしてやがる。怖がりなんか一切しない、むしろその視線からは好意すら感じる、いや気の所為か…


しかし云壇がなぜ、こんなにこの女の事を気に掛けるように仕向けたか

天護は分かった気がした。



「やはりあいつは友達なんか…」


「ん?誰の話ですか?」


「気にするな、誰でもない。」


「そう…。あの、ひとつ…気になる事があるんですけれど…」


「なんじゃ」


「あのぉ…もしかしてこれ…誰かを怒らせますか?」


「どういう意味じゃ」


「女と同じ布団に入るとか…もしあれなら、もう私あったまりましたから…」


「いや、だれもなんもいわん…」


「皆さん、もう慣れてるってこと?」


「皆さんてだれのことじゃ?」


「いや、だから…なんというか、…奥様…とか愛人さんとか…。」


「なに?そんなもんおらんて。」


「ほんと?よかった…。」


「女手があるならお前の世話をしてもろてるわ。そっちのが…安心じゃろ。」




そういう異型の大男の横顔をじっと見つめる、

実はとっくに恋に落ちている事に本人はもう気付いている。


彼が大きな体を使い熊に体当たりしたその瞬間、誰にも何も言い訳できないくらいにしっかりと。


しかし最近恋に敗れたこの女は「違う違う、助けてもらったからでしょう。アレだよ、吊り橋効果ってやつ。」そう諌めた。


だが諌めても心は揺れる。

腰が抜けたつゆを背に乗せて運んでくれたこと、温かい味噌粥を出してくれたこと、冷えたからだを温めてくれた事…そして彼の匂い、ふさふさの毛皮。


彼のひとつひとつに触れるごとに、揺れる恋心全てを“吊り橋効果”という心理状態で片付ける事ができなくなっていた。



だがもし彼に特定の誰かがいるならば当たり前にその恋心は消滅してしまう、そうさせるべきだから。


だからそれがもっと大きく育つ前に確認しておきたったのである。



でも“誰もいない”その言葉をきっかけに、覚悟をきめたように…


「猪神様…何のお礼にもならないですけど…」そういって身を起こして彼の頬にゆっくりキスをした。


「おまん…!なにを…」


つゆは天護の目を見つめ、そらさない。

そんな優しく柔らかいものが天護のその頬に触れた事はなかった。



つゆの耳には届いてなかったあの「我慢が効かなくなるぞ…」という忠告…それが現実味を帯びてくる。


目を見つめたまま、つゆはもう片方の頬にもゆっくりキスを落とした。


ふたりの温度はすっかり上がってしまった。



天護が初めて受けた人間からの感謝とまっすぐな好意、そしてキス。

身体を寄せて何度も繰り返しされるそれは2人に我を忘れさせ、そして忘れられない夜になった。


二人の呼吸と漏れる声、ぎこちない気遣いは甘い夜に溶けていく。


◇◇◇…◇◇◇



引き返せない事実を重ねた二人。


つゆは恥じらいと後悔を孕んだ声で乱れた布団を整え…

「お、おやすみなさい」と早々に眠る体制にはいった。


この現実に心も体も追いつかなかったのであろう。



「お、おやすみ」と返したこの猪はまだ何も受け止めきれていない。

目を閉じたところで眠れない。

しばらくしずかにまた天井を見つめ、完全に眠っているつゆを確認したうえで

大きな体を器用によじらせ静かに布団から脱出する。


自分でもどうしていいかわからない様子でゆっくり立ち上がり、眠るつゆを見下ろす。


◇◇◇…◇◇◇



つゆは山で迷子になった疲労もあり、


空が白みはじめ外の早起きの鳥たちに起こされるまで完全に熟睡していた。


「ん…もう朝、あれ?」

しかし、なんということか…起きたら隣にあの猪はいない。


しかも眠っていたはずの部屋には囲炉裏があったのに、ここにはない。


つゆ「?」


周りを見渡すが、ここがどこかはわからない。

不審に思いながらも布団から出て、服を着て外の光が差してる方の襖を開けてみる。


縁側のようだ、外は明るい。


「ここどこ…山じゃない…猪さんはどこ?」



目線を下げると、そこには一匹の狐が座ってた。


「うわぁぁぁぁあああ!!!!」


きつねは笑ったような顔をして尻尾を振っている。


「わっ…へ、なんできつね?!ここどこ?猪さんは?なにが起こったの?!」




きつねは縁側に置かれた筒に注意を向けさせる。


「なにそれ、おもちゃ?遊びたいの?それどころじゃないんだけどな…」


きつねはそれを鼻で突いて、つゆに差し出す。


持ってみるとその筒は軽く、開けられる構造になっていて、振るとなにやら音がする、なにか何か入ってるようだ。



「どこから持って来たの?誰かの大事なものかもよ、悪い子ちゃんね。」


きつねは前足をばたつかせている。


「開けろって?まあ、中身で誰のものか分かるかも…」


筒をぽんっと開けて中身を出す。


出てきたのは鈴が付いた1本の組紐、そして1行の手紙。



「“会いたくなったら参道で鳴らせ…”?え、まさか…猪さん…?」



きつねが“へへへへへ”と声を出している。


笑っているように聞こえなくもない。


「これはどういう…私宛なの?」まだ状況が飲み込めていないつゆ。



すると、今度はきつねが庭を走りだし、どうやら次はつゆをどこかに案内したい様な仕草を見せる。


「まさかあなた…猪さんの友達?まさか、私を食べる気とか?…あ、きつねは人を食べないか…」


受け取った筒ごと、リュックに放り込み「待ってよ、きつねちゃん」と、後を追う。



よく見たらそこはまたしても神社であったが、しかし猪神様の神社ではない。

ここはどうみても村の中だ。


きつねの像が一対向かい合うように本殿の前に鎮座していた。


「稲荷神社できつねに案内されるなんて…変なの。」


◇◇◇…◇◇◇



朱い鳥居を抜け、本殿に向けお辞儀をし、前を向いた瞬間空気が変わった。


どこか人の暮らしのものになっていた。


しばらくきつねを追って歩いていると大通りにでた。


「あれ、このスーパー。うちから最寄りっていうあの…え?じゃあ隣の隣の村なの?」


振り返った時にはもうきつねはいなくなっていた。




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