受信
異常事態だ。
非常に困惑している。
裏ポケットのスマホの、通知プレビュー画面が見えてしまった。
今しがた、部下から「だいちゅきでちゅ♡」というメッセージを受け取ってしまったのだ。
わたしは今、何事もなかったように会議を続けている。何の話をしているのかさえ、耳に入ってこない状態で。
彼は25歳独身男性で、「えへへ、間違えました~」などと冗談を言うタイプではない。至って普通の、真面目な青年だ。
だから、本気なのだろう。
そして今、隣の部屋で仕事をしているはずだ。
会議終了の予定時刻は14:30。
つまり、あと10分でわたしはこの会議室を出て、彼の待つ部屋へ戻る事になる。
落ち着いて考えるんだ。
今はまだ大丈夫だ。
社運のかかった重要な会議中に、ポケットのスマホを見るなんて100%ありえない、と、彼は思っているはずだ。
つまり、この10分――そう600秒の間に、わたしは今後の彼への対応を決定せねばならないのだ。
まず最初に疑問なのは、「なぜわたしなのか?」そして「なぜ今、このタイミングなのか?」だ。
彼とはそれほど親しくもなかったはずだが――ただの上司以上の感情を持たれるほど、一体わたしは彼に何をした?
そういえば、先週の会議で、今後のためにと彼を同席させたな。それが嬉しかったのか? いや、そんなのは誰にでもやっている事じゃないか。
じゃあ何だ? いつだったか、ロビーの自販機で缶コーヒーを買ってやったからか? ……そんな簡単なのか?
そして、会議中は見ないと知っていてなぜ今送ってきた? あれか、リアルタイムだと恥ずかしくて、少しラグを置きたかった。いや、それだと辻褄が合わない。会議後にアプリを開けばその時点がリアルタイムじゃないか。出て来てから見せる事に何の意味があるというんだ。
残り410秒。
まて。そもそも前提がおかしいだろう! わたしは保守だ。男同士のアレコレなどもってのほか!
それだけじゃない。彼は仕事中に一体何をしているんだ! 日ごろから皆にはTPOをわきまえろと、朝礼で口を酸っぱくして言ってきた。そんな事も分からなくなってしまうほど、わたしを愛してしまったのか。
この文面だってそうだ、客観性がもうゼロじゃないか。受け入れられると確信してなきゃ、送れんぞ。まあ、狂恋状態ならば無理もないか……。
思えば彼は素直な可愛い子だからな……あっ、別に変な意味ではないぞ! あくまでも部下として、だ! そんな彼に、もし「けしからん!」などと言おうものなら、ショックで会社を辞めてしまうかもしれない。それはいけない。
どうにかして考えなければ――傷つけずに、そしてあの子を正しき道に戻す方法を!
残り301秒。
どうするべきか、想像してみよう。
プラン1:正しく叱責する。
プラン2:何事もなかったように接する。
プラン3:真摯に向き合う。
1の場合。
「仕事を何だと思っている!」
「うわあああんごめんなさああい」
これは論外だな。絶対に辞めてしまう。
2の場合。
永遠にメッセージに気づかなかった事にする。
いつ読まれるかとドキドキして過ごす彼は、日を追うごとに暗く沈んでゆく……。あのつぶらな瞳に光が灯らなくなって……ダメだ!
そんな残酷な扱いはできない!
3の場合。
丁重にお断りしつつ、それでいてフォローを入れる。
「すまない。わたしには妻子がいるんだ。でも君にはもっと相応しい人が現れるよ」
「わかりました……」
日を追うごとに暗く沈んで……ダメだ!
どれも可哀そうで、できない!
残り215秒。
――そうだ、彼の対象が男性だけとは限らないじゃないか! わたしとした事が、重大な見落としをしていた!
ならば、女性をたきつけてみるか! 経理の浅野さんなんてどうだ? 美人だし、彼女を嫌いな男なんていない。だが浅野さんになんて頼む? 理由を聞かれれば、それこそリスクのほうが高いか、ダメだな。
残り163秒。
まずい。今頃きっとソワソワし始めている頃だ。早く打開策を打ち出さないと!
考えろ考えろ考えろ……。
ああもう! どんな顔をして待っているのかと思うと、集中するのが難しくなってきた……!
どんな結末にせよ、わたしはあの純な心を壊したくないのだ。
残り124秒。
なぜだろう、彼とのこれまでの日々が走馬灯のように見えてきた。
入社したての初々しかった頃、仕事に慣れてきた頃、少し成長してきた頃、子供っぽさから大人っぽさへの変移……。そういえばあの子は、どことなく初恋のミホちゃんに似ている気がするな……透明感のある肌、さらりとした髪、少し伏せがちな憂いを帯びた眼……。
ああっ、何を考えている! ミッドライフクライシスで陥りやすい妄想パターンになっているぞ!
いかん! わたしはまだまだ現役で戦う企業戦士なのだから!
残り60秒。
前世で武士だったわたしの記憶が正しければ、なにも否定されるような事ではない。
そうだ、彼は自ら小姓を申し出ているのだ。それは尊敬の証、わたしという武将への。
それに、「ぼーいずらぶ」というジャンルが確立されてからそこそこ年数も経っている。偏見を持つわたしのほうが間違っているんじゃないのか……?
だとすれば、このまま化石として生きるのか、殻を打ち破るのか、まさに今、人生の選択が迫られている……!
彼はその機会をわたしに与えてくれたというのか……!!
残り10秒。
決めた。
破ろうじゃないか!
もうどうでもいい!
ありがとう!
残り2秒。
メッセージを返信したぞ!
未来への扉は今、開かれた――!
600秒 遊螺 @Holospira
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