虚無に抗う愛の美学 episode1
ひろの
羽黒信の場合
この世界は乾ききっている。
俺はからからに乾いた喉を潤すことも出来ず、ただ上を向いてかろうじて歩いている。
ビルの合間に見える空は小さい。
俺の住む世界はもっと小さい。
つんざくようなクラクションが、はっと我に返らせた。
鼻の先を車が掠めて走り去る。
グレーに歪む風景の中、歩行者信号の赤だけが、色を持って滲んだ。
同色の人々が行き過ぎる。
みんなビルと同じ色に鈍くくすんで、まるで泥の中に落ちた虫がうごめいているようだ。
「あの……大丈夫ですか?」
遠慮がちな声が、ふわっと視界を溶かした。
デイジーのような印象が先に来て、それから、地味なスーツ姿の男に焦点が合った。
「何……」
まるで自分の声とも思えないような、掠れた音が、乾いた喉を這いあがってくる。
男──仮にデイジーと呼ぶ──は、ほんの少し眉を寄せ、遠慮がちに視線を落とした。
「具合が悪そうです。さっきも危なかった。もう少し車道から離れた方がいい」
「ああ……どうも」
デイジーの手が促すまま、俺は後ろに下がり、歩道を横切って壁にもたれかかった。
ぱっと信号が青に変わり、向こうからと、こっちからと、人の列が交差する。
それを見ていたら、ますます気分が悪くなった。
自分がどこにいるのか、分からなくなりそうだ。
「本当に顔色が悪い。あの、病院、行きます?」
デイジーの声が、車や人が織りなす雑音の中に立ち上がる。
あんたの声は、ちゃんと聞こえる──
漠然とそんなことを思いながら、俺は首を振った。
「ちょっと、やなことあってしんどいだけ。ありがと。少し休めば大丈夫と思う」
「……ここじゃ、休めないでしょ。そこの喫茶店、行こう」
デイジーの声の指す先には、古びた純喫茶があったが、俺はこの男がなんでここまで自分に構うのか不思議に思って、まじまじと顔を見た。
少し疲れた、でも人の好さそうな顔つき。肌のくすみやところどころ毛穴の開いた感じからして、都会の一人暮らし、コンビニが冷蔵庫代わりってところ。つまりごく普通の、三十代くらいの男だ。
中肉中背、ライトグレーのスーツに白いシャツ、紺無地のネクタイ。ザ・地味。
俺がそんな無遠慮な視線を投げかけても、デイジーは気を悪くする様子もなく、俺を気にかけながら純喫茶のドアを引いた。
カロン、と牧場の牛を想起させるようなベルが鳴った。
正直、本当に気分が悪かったから助かった。
オレンジ色の照明がぽつぽつ灯る、外と切り離されたような空間。狭い店内の小さなテーブル席へ腰を下ろすと、マスターが、味も素っ気もないコップの水をふたつ置き、デイジーがコーヒーをふたつ注文した。
俺は紅茶党だったが、この際どうでもよかった。
店内には歌い手の名前も分からない、「昭和歌謡」ということだけが分かる曲が流れていた。哀愁漂う、少し粘り気のある女の声が、ドアの外の乾いた風について行けない俺にはちょうど良い感じがした。
平日ど真ん中の、薄曇りの午後。つまり、すべてがどこへも向かっていないような、澱みの時間帯。
俺は流れから外れた枯れ葉みたいに、この場所に行き着いた。いや──それは聞こえの良い言い方だろう。俺はもう、進めなくなったのだ。流れへは、二度と戻れない。
「……気分、大丈夫です?」
デイジーは、コーヒーが出てくるまでの間すら埋めがたい、とばかりに水を飲み、ちらりと俺を見た。
きっとこの男も俺と同じく、人が苦手なのだ。
それなのに声をかけた。
上流から流れてきて、同じように流れから外れた枯れ葉が思い浮かんだ。
思いがけず、ふたりきりになって、互いにどうしたらいいか分からない枯れ葉同士。
ふっと笑いが零れた。
悪いな。助けてくれたのに、枯れ葉だなんて。
「座ったんで、楽になったよ。荷物が重すぎたのかも」
「確かに重そうだ。山へ行かれるんですか?」
デイジーは、椅子の横へ下ろした、俺のデカいリュックに目を向けた。確かに登山用だけど。俺も、薄汚れたジャンパーに擦り切れたデニム。くたびれたスニーカーなんて、いかにもな恰好だけどさ。
「茶碗が入ってんだ。まぁ……運び損だったけど」
「……茶碗??」
デイジーは想像もつかなかったんだろう。目をぱちくりさせて、リュックと茶碗の関係に頭を巡らせている顔をした。
「茶碗、焼いてんの。確かに今から山へ行くよ。正確には『帰る』だけど」
「ああ……!陶芸家さんですか!」
「ん。まぁ」
陶芸家、という言葉は嫌いだ。自分がその言葉へ集約されてしまうことを、本能的に嫌悪する。
俺は俺だ。土をつくり、こねて、宇宙があぶり出した形をこの手で物質化する。窯に薪をくべ、火と空気と時間とが最後の仕上げをするのを、祈るように待つ。そのすべてが俺だ。
……なんて、息まいて言ったところで、誰にも伝わらない。……伝わらなかった。ギャラリーで門前払いを食った今、俺の言葉は俺にすら届かない。
デイジーは、素直に興味にかられた目をして、身を乗り出した。
「僕は陶芸のことはからきしなんですが、どんな作品を作ってらっしゃるんですか?インスタなどは──」
「SNSは嫌いだ。大嫌い。耳にしただけでもぞっとする」
俺が嫌悪を丸出しにして強く言うと、デイジーはぽかんとあっけに取られた顔になった。
なんとなく、八つ当たりをしてしまった気がして、俺はリュックを探り、木箱をひとつ取り出した。
年季の入った桐箱に結ばれた藍が色あせた真田紐を解き、蓋を開ける。
敷き詰められた藁に乗った、古布で覆われた茶碗。取り出そうと手をかけたとき、コーヒーが運ばれてきて、俺は自分の膝の上へ木箱を避けた。
デイジーは、マスターに会釈をし、俺が古布を取り去って茶碗を出すのを見守っていた。
指先に触れる、俺の魂。
複雑な黒と茶の地。土に眠る戦火を呼び起こしたような、緋色の斑点。薄く走るガラス質の青や緑。すべて、天が与えたもうた二度とない一瞬が閉じ込められている。
俺はその確かさを両手で味わい、デイジーに差し出した。
デイジーの瞳に、ふっとよぎったもの。それは──恐れだった。
俺は奥歯を噛みしめた。
これが見たかった、と思った。そうだ。これを手にすれば、恐れを感じるはずだ。それは割れ物に対する緊張とかそんなくだらないことじゃない。そこに現存する宇宙を、肌で感じるからだ。
それなのにあのギャラリーのやつら──
「申し訳ございません。当ギャラリーでは、初めての作家様からの作品持ち込みは予約制となっております」
「ですが、どうしても実物を見ていただきたい。私の作品は写真では、」
「お気持ちは分かりますが、こちらにも業務効率がございますので。まずはデジタルポートフォリオをメールでお送りいただくのがルールです。それに、陶器は破損リスクもございますので」
「そのポートフォリオでは、火の偶然、土の粒、手のひらの温度、何も伝わりません!どうか、この一つだけ、たった数秒で結構です!」
「作家さん、落ち着いてください。その木箱も、輸送梱包としては簡素すぎます。万が一ここで破損した場合、当方では責任を負えません。私たちは、美術品として市場価値が確実なものしかお預かりできませんので」
ただのひとつも、見てもらえなかった。何軒か回ったが、どこも似たり寄ったりで、最後の店を出たときには、吐き気を催したというわけだ。
デイジーは両手で包むように茶碗を持ち、まるで会話をしているかのように、じっと見つめていた。
軽々しい感想がないのが、より俺を喜ばせる。
そう。何も言わなくていい。言葉にすれば感じた世界は狭まり、削り落とされていく。
「あの……ありがとうございました……」
静かにこちらへ差し出された、その手つきで分かる。
この人に、俺の魂が伝わった、と。
俺は茶碗を受け取って古布で包みなおし、木箱へ仕舞った。
ようやく、立ち上る湯気にコーヒーの香りを感じた。
俺がカップを手にとって飲んでも、デイジーは少し俯いたままじっと押し黙っていた。
あんたの中に、何が広がった?
俺の茶碗と、どこへ行ってきたんだ?
俺は俺で、デイジーを観察していた。
こういう人間は初めてだったからだ。
地元の道の駅の奥の小さなコーナーや、骨董市で、この茶碗は多くの人の目や手に触れてきた。
本物を見抜く目のある人なら、必ず分かると思った。
でも……誰一人として、伝わらない。
「なんだか古臭い」
「高すぎる」
「今どきこんな無骨な茶碗は流行らない」
俺は耳を貸さなかった。俺が思案して作り出したものなら工夫もしよう。だがこれは宇宙の吐息なんだ。炎の中から生まれた、土の命そのもの。命に流行りなどあるものか。そう思って、ひと睨みで客を追い返した。
洒落たウェブサイトを作り、SNSで発信して成功を収めている同期が何人もいる。
俺が、頭の硬い山猿陶芸家だと陰で笑われているのも知っている。
それでも俺は嫌だった。
まるで、情報の海にヨットが万帆と押し寄せているような世界。みながそのヨットの上で、己を主張して旗を振っているのだ。ぞっとする。ぞっとする。ぞっとする。そんなものはもう、俺の「世界」ではない。
俺は、底まで見通せるような澄んだ湖に浮かぶ、一艘の小舟でありたい。
俺の手からひとつの茶碗が生まれる時、波紋が静かに広がる──そんな世界。
「……言葉が、見当たらないのですが──」
ふと、デイジーがぽつりとつぶやいた。
俺は沈黙と目線で、彼を促した。
「僕はなんだか……恥ずかしくなりました。茶碗を持って……胸が熱くなって──なんでしょう……僕は、本当にこのままでいいのかと、そう思えて」
彼の言葉が俺の胸の中に、ぽっと明かりを灯した。
そうだろう。作り手としてこんなありがたい言葉があるか。
俺は、茶碗を通じてこの人と、宇宙とを繋いだのだ。
「そう思うなら……そのままじゃ良くないんだろ。あんたは、どうすればいいか、もう分かってるはずだ」
まるでお見通しのようなセリフだが、何一つ、分かっちゃいない。
ただこの人が茶碗と会話した余韻が感じられるだけで、返事にはそれで十分だった。
重く粘る女の歌声は、声明のように平坦で独特の節のある男の歌声に変わっていた。
”ノリ”などは存在しない。マントラのように凝縮した音が流れていく。
コーヒーの味はまあまあだ。美味くもまずくもないのが、また真理に溶け込む中庸の味といったところか。
「……僕、市役所勤めなんですけどね」
デイジーが、聞き流してくれてもいいとでもいうような、小さな声で呟く。
ソーサーに戻したカップの中のコーヒーが、わずかに波打った。
「こないだ、市民の方から意見書が届いたわけですよ。とある公園の、センダンの木を切らないで欲しいと。ものすごく熱心なお手紙で、地域の方々のその木への思い入れが切々と綴られていました」
その手紙を思い出しているらしい彼の顔に、共感のような温かい揺らぎが浮かぶ。
「……で、僕はというと、上司への報告のために、意見書の内容をフォーマットに従ってまとめるわけです。『意見書(計3件)』『要望:センダンの木の伐採中止(理由:美観の維持)』というようにね。血も熱も削ぎ落されたあれに、なんの意味があるのか。そう思うことは、やめました。だって仕事は山積みなんです。ひとつひとつに血を通わせたら、貧血になっちゃいますからね」
冗談めかして笑うデイジーの目には、微かな痛みがある。
返す言葉はない。何も言えはしない。彼の判断も感情も、彼だけのものだ。
「けど……茶碗を持ったとき、ふとそれを思い出して。僕は、確かにあの手紙から受け取ったんです。その人の想いを。件の木は虫食いで、養生させるより切り倒す方が安全性も高く、予算もかからないということになったのですが、僕は想いをデータに変えるだけじゃなく、出来ることがあったかもしれません。伝える相手は人間ですから。ハナから諦めて、僕自身データ処理マシンになってしまっていた」
手の平がジンと熱くなる。デイジーの言葉を聞いている、茶碗と呼応しているかのように。
そして俺自身も──茶碗が生み出した波紋が俺を流れへ押し出すのを感じていた。
諦められない。俺の宇宙を。
こうして、伝わる人が、いるのだから。
カロンと、ドアベルが鳴り、二人連れの客が入って来た。外の喧騒が一瞬紛れ込んだ。
俺を軽んずる風が、胸の奥の傷を撫でた。それでも、さっきよりは幾分マシだ。
「スーパーマンにはなれないですけど……ちょっとは、何か、出来るかもしれませんよね」
「……ああ」
デイジーは照れ隠しのように、もう冷めてしまったコーヒーの残りを飲み干した。
俺は半分残した。
紅茶党には、美味くもまずくもないコーヒーは、半分で充分だ。
店を出ると、さっき立っていた横断歩道の前へ二人並んだ。
「一度、あなたの窯へ行ってみたいのですが。あの……連絡先とか、交換させてもらっても?」
デイジーのスマホを受け取り、俺の番号を打って発信。
俺がポケットからスマホを取り出すと、デイジーがふっと小さく笑った。
「なんとなく、『ガラケー』かと思っちゃいましたが、そんなことないですよね」
「持ちたくねぇけど、妥協した。色々支障が出る」
「えと……お名前は」
「羽黒信。羽に黒。信じるの信」
とてもお似合いですね、と、デイジーは笑った。
ぱっと視野で信号が青に変わる。
前に進む人波に、ふたり、足を踏み出した。
枯れ葉は、また、流れに戻ったようだ。
向こうへ渡り切り、デイジーが、雑踏の騒がしさに負けぬように耳元に口を寄せた。
デイジーの名前は、三雲義久と言った。
END
虚無に抗う愛の美学 episode1 ひろの @yunyun6
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