第12回 帰京
嘉慶八年閏二月二十日。早朝。
宿場町での調査に粗方カタをつけたぼくらは、ひとまず分かったことを報告書にまとめ、帝に上奏をするべく京師に戻っていた。
本来ならば十九日には屋敷に戻り、起案にかかる予定だったのだが、森の中での戦いで存外体力を消耗していた様で、(情けない話だが)ぼくらはほぼ丸一日身動きが取れなかったのだ。
「では、我々で馬車をご用意しましょう」
鏢局の楊頭領に相談すると、彼はぼくとアルサランを乗せる二頭立ての馬車、それと相応しい護衛を格安で手配し、二十日の夜明けと同時に京師に到着する様送り届けてくれた。
「すまないな、世話になった」
「いえいえ。それが私の仕事ですからな。それよりも、次はあまり、無謀な真似はなさいません様に」
「おや、なんのことかな」
そんな風にとぼけてはみたが、彼にはきっとお見通しなのだろう。何しろ、ぼくの後ろに控えているアルサランの顔が、あからさまにぼくの行動のせいで疲れ切っていたからだ。
「(つまり、こいつのせいだ。呑気に馬車の中で寝やがって)」
客車の中に敷かれた絨毯の上に猫の様に丸まって眠る従者。元が大きいので体勢を工夫したところで邪魔なのには変わりないのだが、それでもできるだけぼくの場所を確保しようという心持ちがいじらしい。
「……温い」
「んん……」
ガラガラと揺れる馬車の中、ぴったりと彼に寄り添う様にして寝ていたぼくは、重い瞼の向こうに差し込む朝日のぼんやりとしたあかりに気がつく。なんとなく起きてこの温もりを手放すのも惜しい様な気がしたが、支度は支度でしなくてはならない。
「(ここはどのあたりだろう)」
そう思って小窓から外を見ると、今しも京師の阜成門を潜ろうというところ、そうなったらぼくの屋敷はすぐそこだ。
「アルサラン、起きろ。もう屋敷についてしまうぞ」
「うぁ……あともう少しだけ」
「甘えるな。そんなに甘えたいなら今夜妓女を呼んでやるから、自分の寝台で散々可愛がれ。主君に甘えかかる包衣がどこにいるんだ」
「永暁さま……あれ、ここどこです?」
「今しがた阜成門を抜けたところだ。もうすぐ我が家の正門が見えてくるぞ」
と、言っている間に馬車は大通りに面した南門の前で停まる。質素だが格式高い構えの四脚門、上には先帝直々に揮毫された『瀏親王府』の扁額を飾り、朱塗りの柱には鶴や亀などの瑞獣をあしらった螺鈿の飾り。
車から降りるとすぐさま門番が通用門を開門し、中で待つ召使たちに大声で主人の朝帰りを伝える。我らがご主人様のお帰りだ、さあ出迎えよ出迎えよ。些か仰々しい様にも思われるが、この辺りの格式や典礼を疎かにするとお叱りを頂戴する羽目になる。朝廷の格式から言えばぼくは小なりとは言え一人の君主、そしてこの邸宅は同時に公の機関としての役割も持っている。言うなれば百分の一の大きさの紫禁城なのだ。
「親王殿下、無事のお帰りをお喜び申し上げます。
千歳、千歳、千々歳」
「わたしがいない間、何か特段異常なことは無かったか」
「はい、殿下。ですが、黒龍村の烏荘頭他、瀏親王家に連なります各地の荘園より、この閏二月の間に起きましたことども、並びに貢納の品物、出納についての報告文が参っております」
「では、朝廷に赴く前に目を通しておくことにしよう。それから、外にいる馬車の者どもと護衛の者どもに、食事と温かい湯を遣わせて、休息を取らせてやれ。あまり吝嗇な真似をするなよ、主人と遜色ないものを用意してやるんだ」
「畏まりました」
「それから、ぼくも軽く湯に浸かる。その間に簡単な朝餉、それから出仕に必要な仕度を全部整えておけ。良いな?」
「はい」
これだけ膨大な命令を大量に叩き込まれても、顔色一つ変えずに承り、遺漏なく執行する。この辺り、流石は父である先代親王の頃からこの屋敷に仕えている家司達の優秀さは疑うべくもない。
「アルサラン、すまないがお前にも少し事務作業を手伝って欲しいのだが」
「勿論です、永暁さまが湯浴みをなさっている間に、荘園からの報告書を整理して、すぐご覧になれる様にしておきましょう」
「宜しい。では皆の者、朝からすまないが、早速仕事を始めてくれ」
「「承知致しました」」
さて、その様にしてごく簡単な入浴を済ませ、侍女達に髪結いや服の着替えを手伝ってもらった後、ぼくは普段はあまり使うことがない表の執務室に姿を現した。そこには既に必要な書類をまとめたアルサランが丁寧な様子で立っており、
「永暁さま、まずは宗令として帝に提出される報告書ですが、一旦自分の方で仮案を作っておきましたのでお目通しをお願いします。よろしければ、宗人府の筆帖式に命じて清書させ、上奏して頂きたく存じますが」
見てみると、そこには流れる様に美しい書体の満洲文字と漢字で同じ内容の文章が記されており、要約すると「弘侃貝勒の死について、幾らか怪しい事情があるように見受けられるので、爵位承継のお沙汰は暫しお待ち頂き、調査の継続をお許し願いたい」という趣旨であった。
「まぁ、こんなものでよかろう。だが、宗人府御史処の堅物連中はあまり良い顔をしないだろうな。元より、ぼくの行為に眉を顰めてる連中だから」
「とはいえ、宗室の冠婚葬祭の監督をする御史処に何も伝えない訳には行きませんから。上奏する前に念の為書類を回し、今後調査が続く見通しであることは伝えておくべきでしょうね」
「そうしよう。それで、荘園からの話というのはなんだったかな」
そう問うと、アルサランは手に持った帳面を何度かめくり、ぼく──というより、ぼくの家が地方に持っている領地についての報告を始める。
「烏荘頭の管理する黒龍村の荘園より、この月の収益と貢納に関する見積書が一通届いております。順に読み上げますと、大鹿六頭、
「動物類がやけに多いが」
「なんでも、昨年は山の団栗の出来が良かったそうで動物が増え、畑に降りてくるものがあるのでその駆除をしたそうです。それから、近頃は肉の値段が高騰しているので、この収益になったとか」
「分かった。それで、その面倒な報告は後何通ある?」
「永暁さまがお持ちの荘園一つごとに読み上げて宜しゅうございますか?」
「馬鹿。一つ一つ聞いていたら日が暮れてしまう。不要だ。取り敢えずそちらで良い様に計算して、結果だけ持って来い。それから、今後は月毎の報告は不要にして、半年ごとにしてもよかろうな」
「良いお考えだとは思いますが、あまり期間を空けるのはお勧めはしません。何しろ、報告の間が開けばそれだけ懐のことはおざなりになります。気が付けば財政がボロボロという家は後を断ちませぬ故」
「よく分かってるよ。で、みんな合わせるとどのくらいの金額になるんだ?お前のことだから、すでにある程度は算盤を弾いているだろ?」
「特産品が多く獲れたところもあれば、災害で被害を被ったところもありますので一概に此の位、とは申せませんが、ざっと額を足し合わせた限りでは、銀に直して約二千五百両と言ったところでしょうか。いかが致しますか」
「いつも通りに。産品の類はすぐに捌かねばならないものを除いて荘園の蔵で管理し、歳末に纏めて銀と共に納付させろ。あぁ、ただし龍涎香があればすぐに持ってくる様に言ってくれ。この前定親王家のご夫人がご所望だと」
「畏まりました。それから、白華村の関荘頭の報告によれば、春の嵐によって村の用水路が破損し、作付けに支障をきたしているので、親王府から修理のための予算を拠出して欲しいとのことです」
「よかろう、必要なだけ拠出する。差し当たり今月の間に五百両ばかり計上して、すぐに取り掛かれる様にしてやれ。必要な分があれば来月再びあてがうことにしよう」
「分かりました」
と、本筋から逸れた面倒ごとの話はこのくらいにして。──誰も荘園の細かい話に興味など無いであろうから。
領地に関する報告を一通り捌き終えた後、ぼくは運ばれてきた点心を頬張って腹を満たし、そのまま馬車に乗って紫禁城前の宗人府まで出仕した。報告書の清書の他、やらねばならぬ仕事がまだ幾つか残っていたからである。
春の中頃にしては珍しいほどに、寒々とした空気が通り中に溜まっていた。職場に向かう官僚と民間人、彼らを当て込んで盛んに炊煙を吹き上げる食べ物屋。無数のものが入り混じりながら、今日という日の始まりを彩る。
「永暁さま、すみません。例によって道が混んでいるようです」
「そうか。今回ばかりは少し困るな、何しろ帝のお帰りまでに必要な仕事を片付けておかねばならないから」
「それはそうですね」
予め通達されている帝のご予定によれば、朝は行幸先の円明園にて過ごされ、昼に先帝の霊廟に礼拝された後、夕方に神武門から行列を立てて紫禁城に還御されることとなっていた。つまり、それまでに溜まった事務仕事に判を押して決裁し、尚且つ進められる調査については進めておかなくてはならない。
「仕方ない、少し回り道しよう。先導を頼む」
「畏まりました」
さて、その様にしてなんとか職場に足を向けてみると、たかだか二日の留守の間に随分と仕事が溜まっていた様で、執務室の机の上には堆く書類が積み上げられていた。報告書、許可書、認証書など名目は様々だが、どちらにせよぼくが目を通して押印しなくては片付かないものばかり。
「殿下、お帰りなさいませ。お待ちしておりました」
「おい、他の堂官どもは何をしていたんだ。何だってこんな大量の書類が積み上がっている?」
「どれも長官の専権事項が含まれておりまして……」
「仮に長官を欠いても良い様に次官がいるのだろうが、この役立たず共め。さっさと仕事を進めろ」
「永暁さま、その言い方はあんまりです。元はと言えば、調査のために長いこと京師を留守にしていた我々にも責任があるんですから。少しずつ、しっかり進めましょう?」
くそっ、こう言う時に限って反論できない正論を吐きやがる。相棒の真面目な表情を前にしては、ぼくの中で燃えたつ怒りは忽ちのうちに勢いを失って、ぬるくなった湯呑みのお茶よろしく、柔らかくなるざるを得ない。
「……分かったよ、仕方ないな。おい、お前」
「は、はい殿下!」
「代は後でこちらの財布から出してやるから、今日ここで勤めている連中全員分の点心を前門大街で調達してこい。いいな?」
「か、畏まりました!」
急ぎ外に出ていく官僚の背中を見送りながら、ぼくはボソリと呟いた。
「おい、アルサラン。今日のところはお前の顔に免じて許してやるが、次は無いぞ」
「理不尽をおやめになるわけじゃないんですねえ」
「やかましい」
「あいたっ」
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