第13回 午前中 幕間

 仕事始めの鐘と同時に、宗人府でも執務が始まる。ぼくも久々に真面目に机に向かい、山をなす書類と格闘しているのだが、いかんせんずっと仕事に没頭するとなると大変である。


 度々集中が切れては顔を上げ、アルサランが集中しているのに主人のぼくがダメなところは見せられないともう一度戻し、再び顔を上げてはため息を吐くの繰り返し。気が向かない。遊びたい、なんとかしろ。


 凡そ二十を過ぎた親王のそれとは思えない子供じみた心に支配されたぼくは、遂に我慢できずに口を開いた。


「おい、相棒。何か面白い話はないか。なんでもいい、持って来い」


「いきなり過ぎませんか?」


「うるさい、仕事は退屈なんだ。お前はぼくの包衣だろ、つまりぼくの退屈を紛らわせるのも仕事のうちだ」


「と言ってもありませんよそんなの」


「じゃあ今すぐそこで裸踊りでもやれ。それで溜飲を下げる」


「包衣虐待はおやめください!」


 そう軽口を叩いていると、ややあって彼ががふと思いついた様に、


「そう言えば、あの不思議な蔵の話ですけど」


「なんの話だって?」


「お話ししたじゃありませんか、厳重に鍵のかかった蔵に保管しておいた米や麦が少しずつ無くなってる、という話」


「あぁ、あったなそんな話が。で、何か進捗でもあったのか?」


「実は昨日、永暁さまがお休みの間に外に出て調査する機会がありまして。買い物ついでに近くの食べ物屋で話を聞いてみたんです」


「そしたら?」


「驚かないでくださいよ。なんとその事件があったの、どうやら貝勒の別荘でのことらしいんです。そこの調達係がやけに頻繁に米を買いにくるので、理由を聞いてみたらそう答えたとか」


「ほほう」


 俄然面白くなって来たな、とばかりにぼくは目を細めて続きを促す。しかしアルサランはすぐさま口を噤んで、


「続きは永暁さまが仕事をきちんと進められてからということで」


「おい!酷いじゃないか、いいところで急にぶつ切りにするなんて」


「永暁様のやる気を掻き立てるためです。さあ、早速次の書類に判子を押してもらいましょうか」


「くそう、性格の悪い包衣め。いつか後悔する時がきっと来るぞ」


「はいはい。では早速、こちらの書類を処理してもらいましょうか」


 アルサランはしてやったり、と言う顔を浮かべながらぼくに新しい書類を手渡してくる。彼がこちらに上げるということは一通りの確認は済ませてあり、この中に指揮下の部署の手落ちがあるとは考えにくい。つまり、ぼくがしっかりと考えて処理するより他に無いのだ。


「恨むぞ、この野郎め」


「恨んでくれても別に構いませんよ。わたしとしては、永暁さまがしっかりとお仕事をなさってくれれば、それで心底十分ですからねえ」


 なんと憎たらしい野郎だ。しかし、先程よりもずっと仕事へのやる気がみなぎっているのもまた事実だった。流石、十年以上ぼくの側に仕えているこの男は、人のツボがよく分かっている。ぼくは外目には大きな舌打ちをしながらも、アルサランの正しさを認め、仕事に取り掛かった。


 この上は、ぼくの実務での有能さもしっかりと見せつけ、奴に吠え面をかかせてやるより他にない。ものの見事に乗せられた、いや、乗せられてやったと思うことにして。


 嫌だ嫌だと言う体に鞭打って一刻ばかり執務に没頭していると、机の上にうず高く山を成していた書類も半分以上は処理済みの箱に消え失せて、正面の扉が見える様になってくる。もう少し頑張れば、部屋の絨毯まで見える様になるだろうか。


 処理済みの書類が収められた箱は定期的に回収係の官吏がやって来ては運んでいき、空のものと取り替えられる。せっかくの努力が無にされてしまった様な気がして、ぼくはどうも切ない心持ちになっていた。


 執務室の自鳴鐘が正午を告げてけたたましく鳴くのと同時に、扉が開いて良い匂いのする蒸篭と料理を納める箱が宮中の雑用を司る宦官の手で運ばれて来た。彼らは恭しく頭を下げて、


「瀏親王殿下、昼餉のお時間でございます。お料理をお持ちしましたので、どうぞお召し上がりになって下さいませ」


 馬鹿丁寧だが、キンキンと癪に触る声だ。ぼくは思わず睨み据える様な視線を向けかけたが、冷静にアルサランが、


「永暁さま、少し手を休めて、食事にしましょうと言っております」


 と通訳をしたので多少気分が和らぐ。ぼくは頷いて彼らに向かい、


「一体どなたのお計らいかな」


「畏れ多くも帝の優諚にて。円明園に向かわず、紫禁城に残って職務を果たす大臣官僚に対し、労いとして一膳の食事を賜う旨詔されましてございます」


「そうか。されば、ありがたく頂戴しよう。望外の天恩を受け恐悦至極に存ずる」


 『天恩』と『恐悦至極』というこの言い回しは、漢語を習い始めたぼくに最初に叩き込まれたものの一つだった。流石にいつでもどこでも『ᡴᡝᠰᡳ(恩沢)』とか、『ᠠᠯᡳᠨᠪᠠᡥᠠᡵᠠᡴᡠ ᡠᡵᡤᡠᠨᠵᡝᠨᠪᡳ(感謝に堪えない』」という満洲語の慣れ親しんだ響きが通用すると言うわけではないのだ。


 ぼくは少し大仰なくらいに拱手の礼を取ると、給仕はあまりにも恐れ多いとして辞退し、自分の手で蒸篭と箱から料理を取り出すと、宦官どもが帰った機会を見計らって即座に机の上でがっつき始めた。


「ちょっと永暁さま!まず机の上を片付けて下さい!」


「ぼくは今食うのに忙しい。お前がやれ」


「わたしも食べたいんですけどね!」


 品の良さは現在品切れ中である。そんなくだらないことを口走りながら、ぼくは蓮華匙に山盛りの炒飯を口の中に放り込んだ。大膳房で使っている質の良い鶏油に包まれた米と細切れの具の中に、一抹香るしゃきしゃきの葱。こればかりは我が家の料理人がどれほど試行錯誤したとしても、なかなか真似出来るものではない。


「うん、やはり宮中の飯は美味いな。うちの台所でも再現したいところだが、いかんせん材料が上手く手に入らん」


「豚脂に比べて鶏油は高くつきますからね。手間もかかります」


「だが、費用を抑えて来たおかげが比較的蓄えもある。しばらくの間は食費を贅沢にしても良いのではないか?」


「その蓄えを本代と花街の遊び代に消費していることをお忘れですか、永暁さま」


「やかましいな」


 ぼくは黙ってアルサランの皿からひょい、と焼売を一つ摘んで口に放り込んだ。たちまち彼からは抗議の声が飛ぶが、そんなのを意に介するぼくではない。口の中で一通り噛んでごくんと飲み込むと、思考は既に別のことに移っている。


「あ、焼売で思い出した。あいつどうしたかな」


「あいつ?」


「ぼくをここに案内して来た奴だ。金をやるから全員分の点心を前門大街で仕入れて来いと命じたが、どうしたんだろう」


「さあ、わたしには分かりませんけど……」


「殿下!!ただ今戻りましてございます!」


 唐突な大声。扉を開けてみると、狭い額に汗をいっぱいに浮かべ、点心が詰まっているであろう風呂敷包みを両手に下げたあの若い官吏が立っていた。息が上がり、肩を忙しなく動かしている辺り、相当無理をして来たのだろう。


「(おい、どうする)」


「(どうするもこうするも、今昼餉を食べたばかりですよ)」


「(だからって突き返すわけにもいかないだろ)」


「(永暁さまがなんとかして下さい)」


「(なんだと!?)」


 と、こんな会話を視線だけで交わし、ぼくはやむを得ず不安そうに立ち尽くしている彼の方に向き直った。そして、大仰にぽんぽんと肩を叩いてやり、


「よくやってくれた。お前には報酬として銀二両を下賜しよう。それから、その点心は職務に励む官僚たちに対し、瀏親王からの贈り物だ。そう伝えて配ってやるがいい」


「ははっ、恐れ入ります殿下!」


 名誉あることだ、と言う気炎を満々にみなぎらせて、昼餉を終えたばかりの同僚たちが待つ仕事部屋に向かっていく若者。その背中を生温かい目で見送っていると、アルサランがひとこと。


「その手口、誰から学んだんです?」


「まごうことなく、お前だ」


 昼までの出来事は、一通りこんなところ。

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