第9回 夜半
その日も暮れ方に差し掛かった頃。物珍しさに誘われて方々歩き回ったぼくらが宿に戻ると、主人が例のひどく恭しい様子で、
「お食事とご入浴は、どちらを先に致しましょうか」
などと宣った。ぼくはアルサランと顔を見合わせ、どちらが良いかと問うてみたが、
「さっきまで茶屋で団子を食べていたことですし、後でもいいのではないでしょうか」
「言われてみれば確かにそうだな。では、先に風呂を貰うことにしようか」
「はい、畏まりました。おい、支度をしろ」
主人がそんな風に奥に声をかけると、すぐさま可愛らしく髪を結い上げた少女たちが駆け出してきて、ぼくらの袖をちょこんと掴み、それでいて逆らえない強さで奥へと連れていく。
「おいおい、どこへ連れていくんだ」
「お風呂場にございます!」
「今回はお二人様の貸切でございますよ!」
なお、このことについてはアルサランが手を回したわけではなく、宿の主人が多めに弾んだ心付の代わりにそうしてくれていたらしい。
「貸切はありがたいが、他の客に迷惑にはならないか?」
「ご安心を。他のお客様方には巡にご入浴頂いておりますから。もちろん、お湯は新しく張り替えてございますよ。さあどうぞ中へ」
旅籠屋と言うだけあって、湯殿はそれはそれは立派なものであった。ぼくの邸宅のそれに比べれば多少手狭の感は否めないが、少なくとも旅人が疲れを癒し、身体中に溜まった垢と疲れを押し流すには十分であろうと見える。
「(簡素とはいえ床にはしっかりと石畳、木製の浴槽もにも腐ったところは少しもない。それから──)」
「お湯に香草か何かを入れてるのでしょうかね」
「悪くない香りだ」
そうのんびりと見ていると、ぼくらをここに引っ張ってきた少女らが、
「さぁ、見ているだけではなくて入りましょう!御服を御脱ぎになってくださいまし!」
強引だが流石は旅籠の女、手際よくぼくらの服を脱がし終えると、そのまま濛々たる湯気で満たされた浴室の中に放り込む。声も溌剌としていて好ましいが、どうもぼくの世話をするには騒々し過ぎやしないだろうか。
「よくよく考えると久しぶりだな」
「何がです?」
「風呂に入る時に、お前以外の誰かに世話をしてもらうことだ。昔は随分と、人に肌を見られるのが嫌だったものでな」
「あぁ、ありましたねぇ。お世話をする侍女が怪しからぬ振る舞いに及ぼうとして、その場で馘首になるとか」
「結局あの後どうなったんだ?」
「お聞きにならない方がよろしいかと」
ごしごしと背中の垢を落としてもらいながら、そんな四方山話を続ける。小窓から見える湯気越しの外はすっかり日が落ち切っていて、深い青色の夜空だけが広がっている様だった。
「こちら、終わりましたら全身の按摩も致しますよ」
「助かるな。何しろ仕事が多くて最近肩が凝る一方なんだ。役所勤めも大変だよ」
「親王殿下のお仕事、想像もつきませんけれど、他の官僚の方々みたいに役所にお勤めになりますの?」
「まあな。皇族だと言っても、毎日遊んでいられるわけではないんだ」
「あの、永暁さま。いい加減わたしを通訳に噛ませるのやめましょうよ。全く安らげませんから」
「おっと、これはすまないことをしたな。分かった、少し黙っていることにしようか……」
さて、風呂で汗と疲れを洗い落とした後のこと。例の小さな相部屋に戻ってみると、
「殿下、質素ではございますがお夕食をお持ちいたしました」
「あぁ、ありがとう」
主人は後ろに従えていた女中達に作りたての食事を盆に乗せて運ばせ、一通りの準備が終わると再び頭を下げて部屋を出て行った。宿屋らしく品目は食べやすくまとまったもので、そぼろ肉を挟んだ焼き餅に付け合せの葱、ついでに鶏をじっくり煮込んだ羹。基本的にはぼくの好物だ。
「はい、どうぞお召し上がりくださいな」
「ありがとう」
給仕役の女中達に甲斐甲斐しく世話をされながら、ぼくらは(通訳の必要を省くため、満洲語で)絶え間なく会話を続ける。話題は主に、例の事故についてのことだ。
「そういえば、あの鈴について別荘の連中に聞いてみるべきだったな」
「すっかり忘れていましたね、まああの扱いは答えてくれるかも怪しいところでしたが」
「だが、その扱いが気になるところなんだ。どうも非協力的が過ぎるだろう。大概どこの家も主家のためだと言えば、素直に協力してくれるはずなのだが……」
羹を匙から啜りながら、ぼくはまた考え込む。眉根に皺を寄せてじっと目を細めるこの癖は、アルサランからすれば見慣れたものだが、女中達からすれば何か機嫌を損ねてしまったのかという恐れを引き起こす様で、
「あ、あの殿下。何かご無礼がありましたか?」
「永暁さま」
「あ、あぁ、なんでもない。すまないな、ちょっと考え込んでいたんだ」
辿々しい漢語で何でもないと伝えると、彼女らはほっと一息胸を撫で下ろす。その顔に難しい話をしようという気勢は殺がれ、少し力を抜いてみようという気持ちが取って代わった。
「ところで、お前達に問いたいのだが、この辺りで何か面白い噂話はないか?何でもいい、色恋の話でも構わんし、妙な事件の話でもいい。特にわたしは怪談が好きでな、面白い話をした者には褒美をやるぞ」
「本当でございますか?」
「勿論だ。誰でもいい、ぼくが唸る様な話をしてくれ」
こういう時、頭骨を覆う表皮一枚が随分と役に立つことを、ぼくはこの二十年程の生涯の中でよく学んできた。女中達の中でも一際若く、純情そうな娘を側に引き寄せ、アルサランが顔を顰めるほどに甘い笑顔を振りまいてやる。すると、緊張した空気はたちまちのうちに弛緩し、向こうの方から意に沿う様な話をしてくれるものだ。(無論、いつも効くとは限らないし、決して効かない相手がいることも承知の上ではあるが)
「では、私からお話ししても?」
「構わんぞ」
その娘──ぼくのすぐ側に引き寄せられ、雀斑の痕の上まで赤く染めているのが愛らしい──は、宿の窓から見える大きな黒々とした山を指して言った。
「殿下はあの山向こうに何があるのか、ご存知でしょうか」
「誰か高貴な人の屋敷があるとだけ」
「はい。ここから山を越えた先にもう一つ山があるのですが、その裏手には京師の貴族さまのお屋敷があるんです。だから、山全体がその方の持ち物になっているんですけど……」
「その山に何かあると?」
「『鬼』が出るんだそうです。『
「それはどんなものなのだ?」
「あの山には一応道が通っているんです。裏の方に抜けていく、獣道よりマシなくらいの道が。そこを伝って山奥に入っていくと、突然木の影がゴソゴソって動いて、見ると、地面を這うようにしてこちらに向かってくる影があるんです」
彼女は上目遣いにこちらを見ながら、ゆっくりとした調子でその話を続けていく。
「その影を灯りで照らしてみると、肌は真っ白で髪を振り乱して、でも伸びた腕や肩の形は明らかに人とは違っていて、カタカタと不安定に動き回りながら、旅人に襲いかかってくるんです」
「ほう、ほう」
「それだけじゃありません、他にも、人間の言葉を喋るのに影が人間の形じゃない化け物を見たという人もいますし、またある人は咄嗟に持っていた刀で斬りつけたものの、すぐに傷が治っていくのを見たと言ったり。とにかく、あの山には何かいるんだって、みんな話しています。宿場のすぐ近くだから怖くって怖くって」
「なるほどな、いい話をありがとう」
ぼくは娘の頭をぽんぽんと撫でると、褒美として紐で括った銅銭二十枚を与えてやった。彼女はぱっと表情を綻ばせて、何度もありがとうございます、と礼を言った。すると、歳上の女中たちが口々に、
「ちょっとずるいわ。その話ならみんな知ってるじゃないの」
「あたしだってその話したかったのに」
「こらこら、お前たち。そう厳しいことを言うものではない。この子は皆が躊躇う中先陣を切ったわけだ。その勇気に小遣いをやったまで。お前たちも何か良い話を聞かせてくれたら、褒美をやるさ」
きゃあ、やったと言って矢継ぎ早に話を繰り出す女中達。あまり言いたくはないが、彼女らの話はいずれも芸が無いもので、どこかで聞いた様な話ばかりだった。正直、退屈していなかったと言えば嘘になるが、それを言わずにおくのもまた嗜みであることは先に述べた通りである。
ぼくは、自分を楽しませてくれようとする彼女らの心意気に対して、一人当たり二十文ずつ銅銭を渡してやった。差をつければ喧嘩になるだろうし、まあこのくらいが穏当であろう。そんな風に思って。
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