3話 善意は無駄にしない

 香ばしい匂いが部屋を満たして、食欲をずっとくすぐられ胃袋が疼く。

 玉ねぎと肉を炒めているようだ。何かしらのタレも突っ込んだのか、芳醇なものが空気に溶け込む。


 「はい、お待たせ――――沢山食べろ、おかわりも自由だ」


 ついに料理が完成し、スラヴァが運んで来て目を大きく見開いたのだが、期待は一気に消え失せた。

 どうしよう、これ。

 喜びは葛藤へと変化し、箸をまともに掴めずブルブルと震える。


 メニューとしては白米、濁った薄茶色だが美味そうな香りを放つ汁――――そして、生姜焼きだった。王国でもアリシアに振舞われたことがあるから知っていた。

 厳格な主義を重んじるムスリムにとって豚肉の摂取は重罪だ。もちろん適当な者はコッソリ食べているが……。


 俺は原理主義的な思想を捨てた奴だ。禁忌であっても豚肉を清らかな心で差し出されたのだら、口に運ぶと決めた。


 けれど、イスラームの教えがそれとせめぎ合い、迷って、結論にまで踏み出せないのだ。

 言っておくと、原理主義者をやめたとはいえイスラム教を心から愛している。だから簡単には受け入れがたい。


 「……食べないのか?」


 スラヴァは首を傾げ、不思議な眼差しをこちらに向けた。

 事情はしっかり話そう。これこそ隠してはいけない事実なんだから。


 まず自己紹介の時点でムスリムだと打ち明けなかった俺の責任だ。一言でも説明していたら、多少の配慮はあったかもしれない。

 息を深く吸い込むとコップの水を飲み干す。


 「俺、実はな……イスラム教のムスリムなんだよ」

 「む、ムスリム……? ああ、だからそれでそのような反応を……も、申し訳ない! 作り直す! 少し待っていてくれ!」


 スラヴァは俺がイスラム教徒だと分かるや否や生姜焼きの乗った皿を持ち上げ、どこか悲しそうな色が顔に滲ませた。

 客人が喜ぶと思って作った飯なのに、拒否されたら誰だって悲しむに決まっている。


 「待って、お姉さん――――」


 ショックを受けたであろうスラヴァの細くも鍛えられて固さを帯びる腕を優しく掴み、その食器をテーブルに戻し、唾をゴクリと流し込んで、タレが余剰に塗りたくられた一枚の肉を噛み砕く。


 「ちょ、ラムザン君――――!? ムスリムなのにそんなことして……」

 「うるさいなぁ、スラヴァさんとやらは。善意で出してくれたんならちゃんと食べる」

 「し、しかし……宗教上の理由から考えてそれはかなりタブーというか……」


 彼女の顔は青ざめあたふたしているが、気にせず頬張り、生姜焼きに玉ねぎとキャベツを挟んで黙々と食べ進めていく。

 この人は調理が上手いし、味も美味い。


 空腹の力も相まってものの数分で生姜焼きを完食し、慣れない白米も一粒も残さず平らげた。謎の汁もスプーンで掬って数滴だけ口内に滴らせたが、意外にも味わい深くそれも秒速で飲み干した。


 「ごちそうさん……っと」


 食べ終わり、満腹になった肉体を撫でて使った食器を洗い場に持って行く。

 席に戻って口をティッシュで拭うと、スラヴァは容姿には似つかわしくない驚嘆を響かせた。


 「ちょっとちょっとちょっと! ラムザン君! 何をやったのか分かっているのか!?」


 あ、手足をバタバタさせて慌てている。これも萌える行動だな。


 「何って、生姜焼きを食べただけなんだけど。あ、美味かったよ」

 「そ、そうではなく……全く、ムスリムとは勤勉で女性に厳しく……って、ならば私も髪の毛を隠さないといけないじゃないか!」


 そう言って、ドタバタしながらスラヴァは適当な布で毛髪を隠そうとするが、俺は呆れつつ言葉を捻る。


 「あのな、ムスリム全員がそうじゃないんだよ。確かに俺もラマダンの時は真面目になるけど、さっきも言った通り善意で出してきたならトンカツでも何でもいっぱい食べてやるさ」

 「ふぇ……?」


 天然なのかな。反応がいちいち愛くるしい。


 「で、でも、アフガンではタリバンが女性を束縛しているし……」

 「やかましいわ! それは、原理主義組織ってやつなんだから、そうなるのは当たり前だよ。というかイスラム教に関係なく宗教の原理主義者はどれもこれもヤバいよ」


 よく偏見を持たれるが、KKKやIRA、LRAに加えて歴史的に悪名高い十字軍もキリスト過激派組織といって過言ではないし、何なら神道にも日本軍という中々に狂暴な軍団が存在していた過去がある。


 「そ、そういうものなのか……?」

 「ああ、そういうものさ。歴史の勉強不足ってわけだ」


 ティッシュを折って手遊びしながらぽつりと答える。


 「で、ではああいうのは一部ということで?」

 「そうだスラヴァさん、それで合ってる」

 「……ラムザン君はそれでないと?」

 「原理主義だったらそもそもスラヴァさんと会った時点で髪隠せって連呼してるよ」

 「そ、そうなのか……偏見を抱いてしまって申し訳ない」

 「いーよ別に。宗教なんか偏見まみれなんだから」


 俺も小さい頃はユダヤ教とキリスト教に苦手意識を持っていて、ヘイトにこそ走らなかったものの、差別の一歩前にまで来ていた。しかしニュースや教科書を詳しく見ると、ヤバいのはごく一部の人だけ。それが契機となって今ではその二つをアブラハムの家族として尊敬している。特にユダヤには好意的だ。言い方は悪いがイスラム教とキリスト教はユダヤ教の二次創作であって、もしユダヤ教がなければ俺のアイデンティティもなかったことだろう。


 パレスチナ問題ではイスラムとユダヤが殺し合って、レバノンでもムスリムとキリシタンが闘争しているが、ああいう報道を目に映らせる度に心が痛む。


 多分、この世で極悪なのは宗教を政治利用する輩だと思う。政教分離は大切だ。ヒズボラなんかがまさにその例だし。原理主義者達にはいい加減イスラムもユダヤも穢さないでいただきたい。誇りが踏みにじられることほど悲しくて腹立たしいものはない。

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