2話 保護

 「ほんとに異世界じゃないんだよな……?」


 電車に乗っていくつかの駅を経由し、そこそこ栄えた都市へと踏み入れたわけなのだが、異世界の光景が繰り返されているようだった。

 雰囲気は明白にアジアで、それこそ過去に旅行で訪れた重慶に近い構造だが、人間、施設、生き物が現実には存在してはならないものだ。


 まずそこかしこに冒険者ギルドが運営されていて、路地裏から出現するオークを聖女が魔法で討伐したり、勇者のような男が剣で別のモンスターを真っ二つに切り裂いたり、と。俺にとっちゃあまりに見慣れた普遍的な風景が広がっていた。


 異世界でもこんなことが頻繁に発生していて、俺はよくそういう戦いに引っ張り出された。モスクで礼拝している時は考慮されたのか、免除となったが。

 立ち並ぶ高層なビル群の地帯から離れ、川を跨ぐための頑強な吊り橋を徒歩で渡り切り、住宅街へ突入する。


 ただ、とりあえずここはチェチェンでないのは確かだ。そもそもスラブですらないだろう。さっきの商業地区でも漢字とひらがなを大量に見たし、帰還魔法の座標が大幅にズレた可能性が高い。


 日系人なので簡単な日本語は話せなくもないが、チェチェンと極東の島国とでは文法も文字も乖離しすぎている。辺境の島国で生きるならなら相応の苦労を覚悟しないと。特に日本とか中国とかでは一神教は忌避される傾向にあるから、ムスリムということはなるべく隠しておくか。まあ、多神教なのも賑やかで楽しそうだとは思う。アッラーも八百万の神も個性があって素敵だ。原理主義者は反吐が出るほど苦手だけれど。


 住宅街は流石に平和でファンタジーな住民はこれといっていなかった。……アリシア姉さんに激似のエルフの中学生が何故かいたが、もう気にしない気にしない。


 俺の推測では、アジアに何らかの事件があったのだろうと思う。そうでなければこんな事態はありえない。というか今は何年だ。さっきビル群を見上げたが、やや近未来的なデザインが採用されていた。液晶パネルもやたらと多かった。チェチェンもここまでの栄光を手に入れてほしいものだ。


 閑静な住宅街を助けてくれたくっころが似合いそうな美女としばし歩いた頃のこと。


 「ん、ここが終着点なのか」


 少し古びているが大きなアパートに辿り出た。赤い屋根と簡素な扉が印象的だった。

 そもそも俺は何でこのお姉さんに案内されているんだ。

 疲れているからもてなしたいとは言われたが、光景が現実とかけ離れていてしっくり納得できなかった。


 「ああ、ここが私の家だ。遠慮なく入ってくれ」


 階段を上がって、端の個室のドアノブに美女が手を掛けた。

 扉がガチャリと開くが、俺は進まず、尋ねた。


 「あ、あの、お姉さん、何でここまで親切に? というかここどこなんだよ……」


 大よその見当はつきつつあるが、確証は持てない。

 その問いに対して美人な姉ちゃんは安心を覚えるような笑みをうっすらと浮かべて、


 「まあ、そんなことは後でいいではないか。強いて言うならば、君があそこで困っていたし、腹が減っていそうだから自宅に連れて来た。それだけのことさ」


 この人……俺のタイプだぁ……

 アリシア姉さんは近所に一人はいる明るい感じの女性だったが、こちらの美女は戦場で勇ましく戦いつつも日常では可愛げのありそうなそんな人だ。


 ちなみに俺は敬虔なムスリムでありながらくっころが大好きでもある。エセ教徒もいいところだ。

 招かれ、美女の命令に従って靴を脱ぎ、用意されたスリッパを履いてリビングへ向かった。

 正方形のテーブルがぽつんとあって、その横らへんに台所が佇む。


 家具は少なく、全体的にシンプルだ。このお姉さんはミニマリストなのだろうか。それはさておき、救ってくれたことを感謝しなければ。


 銀髪のクールなお姉さんは棚にクリンコフとチェストリグを収納し、エプロンを纏った。鋭いオーラを放っているのにエプロンの正面にはウサギが縫製されているのだから、萌えを感じ取れる。

 お姉さんは背中まで優雅に垂れる長い髪の毛をヘアゴムで纏め、くるりと振り返った。


 「ところで、坊やの名前は?」


 人の家に転がり込んでいるのに自己紹介していないとは何たる不敬。

 にしても……ガチで綺麗な人だ。

 恥ずかしさからか焦点が揺らぎつつ、名前を名乗る。


 「え、えっと、ラムザン・カワサキ……日系チェチェン人だよ」

 「チェチェン人だと? それは珍しい。私はサンクトペテルブルクの生体化学工場で生産されたラトニク……いや、猟兵のスラヴァだ。元はGRUに所属し、ウクライナとの紛争で動員されたが……色々あってここへ来ている」


 珍しいのはお姉さんの方だと思うけどな……大体、スラヴァって本名なのか。ロシア語で栄光という意味だったと記憶している。神聖な響きだが、キラキラネームに過ぎない。


 「何だよその名前……そもそも生産って何だよ。それを言うなら出産だろ」

 「違う。私は人間ではない。俗にアンドロイドだ。……生理もあるし、排泄もあるから、人間とそれほどの差異はないが……」


 スラヴァとかいうふざけた名前の女は顔を赤らめて言った。


 「そ、それはとにかく! ラムザン君とやら、もう少し事情を聞かせてくれないか? 何故チェチェンの少年がここにいるのか気になってな」


 話を逸らしてきやがったな。でも俺は世話になっている側の人間。ちゃんと説明しないと無礼だ。


 「えっとそれは、俺が異世界から――――」


 自分の身に起きたことを包み隠さずその全てを話し始めた瞬間、腹から間抜けな音が空間に轟いた。

 ……あんなに移動すりゃ空腹の一回や二回は発生するか。


 確かに冷静になってみれば、胃袋が底を尽いて気持ち悪い感覚だ。周囲の状況が特異だったから気にならなかったのだろうが、我ながらによく我慢できたよ。

 空腹に苛まれ気まずくなる俺の姿をスラヴァとやらがニヤニヤしながら見つめる。


 「そ、そんなに面白いかよ」

 「いやなに、ガタイのいい奴だからこういう一面もあるのかと……しかし空腹はマズいこと。私が何か作ってやろう」

 「え、マジすか?」


 どこか胡散臭い人だが、飯を頂けるのはありがたい。イスラムには厳しい戒律があるが、異国なんだしとことん異教徒に甘えてやろう。


 「ああ、もちろんだ。とは言っても冷蔵庫にはそれほどないから期待しているものではないかもしれないが……」


 スラヴァは不安げにそう呟いたが、俺は咄嗟に首を振る。


 「そ、そんな配慮大丈夫だよ。そもそも俺はあんたに保護されたわけで」

 「く、口に合わなくても……?」


 整っていない柔らかな瞳を向けられ、言葉に詰まる。

 ああー、ダメだダメだ! このお姉さん、俺の嗜好に合いすぎてるよ……クーデレは俺が最も好む属性だ。


 スラヴァは髪の毛の混入を防ぐためなのか頭巾も頭に縛り付け、キッチンに立って調理をやり出した。

 帰還してから味わう最初の料理は、一体どんなものなのかちょっと楽しみになってきた。

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