第11話 半谷さん、と呼ぶ

昼下がり。

旧会社・本館四階、小会議室B。


窓はすりガラス、観葉植物は葉先だけ元気がない。

長机の上に、ペットボトルの水が四本と紙コップ。

壁の時計は13:59を指していた。


カチ。

秒針が一つ進み、ドアがノックもなく静かに開く。


判谷 朱丸。


ネイビーのスーツ、胸ポケットには細い朱色のペン。

手には革の印鑑ケースと、例の黒いノート——禁書「奉納帳」は今日は持ってきていない。


「契約課・判谷、参上」


いつもの調子で一礼する。


すでに席にいたのは三人。

旧会社・人事の佐伯(さえき)主任、法務の山内。

そして俺——白石。隣にことねと紗良。


人事の佐伯が、柔らかい声で切り出す。


「今日は、押印と“名乗り”の話を、一度落ち着いて整理したくて」


判谷はニヤリと笑う。


「電子の眷属どもが、我が聖域に口を出しに来たか」


ことねが小声で「眷属……」と呟いたが、聞こえなかったことにした。



山内が書類を揃えながら言う。


「先日の公開会議、お疲れさまでした。“名乗りボタン”の案は、会社としても前向きに検討したいと思っています」


「ふん。あれはあれで、一つの“儀式”ではあったな」


判谷は椅子の背もたれに半分だけ体重を預け、指先で印鑑ケースをトントンと叩く。


「だが——紙を捨てる口実にはさせんぞ。ハンは魂であり、印影は存在の刻印。“ポン”のない契約は、砂に書いた約束と同じだ」


山内が苦笑する。


「“ハンは魂”は、さすがに条文には載っていませんが……」


ことねが前にメモを出す。


「今日は、ハンコをやめろと言いに来たわけではありません。“判谷さんの名前を、どう扱うか”を相談しに来ました」


判谷の視線が、ことねに少しだけ向く。


「我の名をどうこうするとは、なかなか大胆だな、小娘」


ことねはびくっとしつつも、紙から目を離さない。



俺は、テーブルの上に三枚のコピーをゆっくり並べた。

新聞記事、人事深層台帳の一部、そしてそれをまとめたメモ。


正面から判谷を見る。


「判谷さん」


「なんだ」


「……いえ」


一拍置いて、はっきりと言った。


「半谷さん」


空気が、そこだけ固まった。


判谷の指が、印鑑ケースの上で止まる。


「…………今、なんと?」


隣の佐伯主任が、静かに深層台帳のコピーを押し出した。


「こちらが、入社時にご本人と確認した“法的なお名前”です」


紙には小さく印字されている。


法名:半谷 修

通称:判谷 朱丸(社員証・社内システム表記)


判谷の視線が、そこに吸い込まれる。


「ふ、ふん。“人事の紙にはそう書いてある”というだけの話だろう」


声はいつもの調子のままだが、喉の奥が少し掠れていた。


「我は今、判谷 朱丸であり——」


ことねが、そこで口を挟む。


「否定しているわけではありません。」


判谷がぴたりと止まる。


ことねは、いつになくはっきりと言った。


「判谷 朱丸さんとして働いてきた記録も、印影も、奉納帳も、全部“なかったことにしろ”とは言いません。でも、“半谷 修”さんが紙の奥と、数年前の新聞の中にしかいない状態は、本人にとっても、会社にとっても、不自然だと思います」



紗良が、新聞記事のコピーをそっと前にずらす。


「十数年前の事故のことは、ご存じですよね」


判谷は一瞬、目を閉じた。

まぶたの裏で、何かを探るみたいに。


「……朱丸印房。配達の帰りに、事故に遭った。店主が、亡くなった」


声は思ったよりも静かだった。


紗良は淡々と続ける。


「同乗されていた“会社員男性・半谷 修さん”は、命に別状はなかったものの、“一時的な記憶障害の疑い”とあります」


判谷が、ゆっくりと笑った。

笑ってはいるが、目は笑っていない。


「その男は、もう十分に休んだ。だから今は、ここにはいない」


俺は、もう一枚の紙を出した。

それは、朱丸印房の「閉店のお知らせ」の写真。


ポスターの端には、小さく店名のロゴが写っている。


朱丸印房——朱丸の文字が丸い印の中に収まっている。


「事故のあと、“半谷さん”は、この名刺だけをずっと持っていたと聞きました」


これは商店街の人からの証言だ。

名前までは出していないが、俺たちだけは知っている。


「“修さん”と呼ばれると、自分のことなのに別の誰かみたいで、でも“朱丸”のほうは、店と祖母さんの顔とセットで浮かぶ」


ことねが、ゆっくりとまとめていく。


「だから“判”の字を足して、“判谷 朱丸”になった。少なくとも、紙の上では」


判谷は、印鑑ケースから指を離した。

代わりに、自分の胸ポケットを握る。


そこには——

今も、古い店の名刺が一枚入っているのだろう。



しばらく沈黙が続いた。


エアコンの風の音、壁の時計のカチ、という音だけ。


先に口を開いたのは、判谷だった。


「……我はな」


いつもの「我」だが、声の色が違う。


「事故のあと、病院で名を呼ばれた。“修さん、修さん”と」


視線はテーブルの木目に落ちている。


「頭では分かっていた。“それが自分の名前だ”と。でも胸の中では、まったくピンと来なかった。知らない男を呼ばれている気がした」


印鑑ケースの金具が、カチ、と小さな音を立てる。


「退院しても、家に戻っても、“修”と呼ばれるたびに、自分の輪郭が、少しずつズレていく感じがした」


そこで、一度だけ笑った。

自分で自分を馬鹿にするみたいに。


「そんなとき、引き出しの奥から出てきた。朱丸印房の名刺。あれは、はっきり分かった。“ああ、これは俺だ”と」


紗良が、ペンを握ったまま息を呑む。


「そこからは早かった。店は閉まった。祖母は居なくなった。その代わり、“朱丸”を名乗れば、“自分が居なくなる”感じは薄れた。」


判谷は、ほんの少しだけ顔を上げる。


「だから会社に来た時、最初から“判谷 朱丸”で名乗った。人事が“法名もいただけますか”と言うから、紙には書いたがな。現場に出す紙には、一度も書いていない」


ことねが小さく呟く。


「……“修さん”として働く場所が、どこにもなかった」


判谷の口角が、わずかに歪んだ。


「忘れるのが、怖かった。名前を忘れたら、事故で一回死んだのに、もう一回いなくなる気がした。だから、紙に押した。押して、押して、押して……、“今日の自分”がそこにいるようにした」


印鑑ケースを、指先でトントントンと叩く。


「全印一致。奉納帳。全部、“今日の判谷”を繋ぎ止めるための儀式だ」



山内が、そこで口を開いた。


「判谷さん——いえ、半谷さん」


珍しく、法務が直球で呼んだ。


「会社として、あなたの通称使用を責めるつもりはありません。当時の人事も、事情を知ったうえで通称を受け入れたのでしょう」


佐伯主任が続ける。


「ただ、“事故の負担”を、ずっとあなた一人の“個人技”に任せてきたのは、会社としても反省すべきだと思っています」


俺は、ノートPCを回して「名乗りボタン」のモックを出した。


画面には、シンプルなフォーム。


氏名:[ 判谷 朱丸 ▼ ]

(プルダウンを開くと “半谷 修” も表示される)


ボタンにはこう書いてある。


[ 自分で決裁(名乗る)]


その下に、小さな説明文。


このボタンを押した人の「選んだ名前」「日時」「場所」が記録されます。

会社と本人が、同じ記録を持ちます。


判谷の視線が、そこに止まる。


俺は、ゆっくりと説明した。


「“判谷さん”として押してもいいし、“半谷さん”として押してもいい。その日の自分を、どちらの名前で残すかは、その時に選んでください。」


ことねが言葉を足す。


「紙の奉納帳も、すぐに捨てろとは言いません。

 ただ、“名前を繋ぎ止める装置”を紙だけじゃなく、システム側にも一緒に持たせたいんです」


紗良が、法務視点で補足する。


「今後の契約書や社内承認では、“通称:判谷 朱丸/法名:半谷 修”をセットで扱う案を出します。本人がどちらで名乗っても、会社としては紐づけて管理できるように」


判谷は、しばらく黙って画面を見ていた。


印鑑ケースから手を離し、無意識に胸ポケットに触れかけて——やめる。

代わりに、マウスに指を乗せる。


「やけに、優しいな。“ハンコを取り上げに来た”とばかり思っていたが」


俺は首を振る。


「ハンコを全部やめたいなら、わざわざ“名前”の話なんかしません。」


判谷が、初めて少しだけ笑った。

乾いているが、攻撃的ではない笑いだ。


「電子は魔王だと言ったぞ、我は」


「魔王とまで言われると困りますけど」


俺も、少しだけ笑う。


「電子は、“忘れないための箱”にはなれます。魔王にするかどうかは、持ち主次第です」


ことねが真面目な声で言う。


「紙が守ってきた名前を、本人と、会社と、システムで分けて持てるようにしたいんです」


紗良が短くまとめる。


「“紙がなきゃ覚えてもらえない人”を減らすために」


ゆいが、小さな声で付け足す。


「“電子だけしか覚えてない人”も、増やさないように」



判谷は、ゆっくりと椅子の背にもたれた。


天井の蛍光灯を一度見上げ、目を閉じる。

数秒、静かに息を吐く。


「……ひとつ、だけ訊かせろ」


「どうぞ」


「明日から、全部“半谷 修”にしろと言われたら、我はここに居場所があると思うか?」


誰もすぐには答えられなかった。


山内が、慎重に言葉を選ぶ。


「いきなり変えるつもりはありません。通称使用は認めたまま、“どちらもあなたの名前だ”という前提を会社側が明文化するところから始めます。」


佐伯主任が続ける。


「そのうえで、“どの場面でどちらを使うか”を、あなたと一緒に決めたいんです。“勝手に決めて押し付ける”のはやめるので。」


俺も、一歩だけ踏み込む。


「“判谷さん”として積んできたものを否定するつもりは、本当にないです。ただ、“半谷さん”としてもここに居ていい、ってことを会社と一緒に確認したい。」


判谷は、ゆっくり目を開けた。


「……我の中で、あの事故から前の記憶は、ところどころ抜けている。だが、“半谷 修”という名があったことだけは、分かっている」


印鑑ケースを一度、強く握る。


「その名で呼ばれると、今でも、少しだけ足元が崩れる感覚がある」


小さく息を吐く。


「それでも、明日また“半谷さん”と呼ぶ気があるか。」


俺は、迷わず頷いた。


「あります」


判谷は、少しだけ笑った。


「……なら、聞こう」


視線を画面に落とす。


「“名乗りボタン”とやらの話を、公開の場でもう一度。全員の前で、“半谷”の話も含めて聞かせてもらおう」


ことねが息を飲む。


「ということは——」


山内が確認する。


「来週火曜の“第2回合同検討会”、事故と通称と名前の話も含めて、公開でやっていい、ということでしょうか」


判谷は頷いた。


「どうせどこかでバレる。なら、契約の場で、自分の口から話したい」


胸ポケットにそっと触れる。


「“朱丸”を看板から剥がされた日、名刺だけが残った。今度は逆をやる。名刺だけが名残になっている“半谷”を、人の前にもう一度出してやる」



会議が終わり、判谷が出て行く。


ドアが閉まったあと、小会議室には一気に疲労の空気が広がった。


ことねが、背もたれにぐったりと沈む。


「……なんとか、次に繋がりましたね」


紗良が眼鏡を外して目頭を押さえる。


「めちゃくちゃ神経使いました……」


ゆいは、ノートPCの画面を抱えるみたいにして言う。


「名乗りボタン、“名前表示切り替え”の仕様、急いで固めます」


人事の佐伯が、静かに頭を下げた。


「本当に、ありがとうございます。事故のことも、名前のことも、全部“本人の我慢”で終わらせてしまっていたので。」


山内も続ける。


「次回の公開検討会、法務からもバックアップします。“通称と法名の両方を認めたうえでの名乗りフロー”という形で」


俺はホワイトボードに予定を書き込んだ。


来週火曜 14:00

第2回 押印・名乗りフロー合同検討会(公開)


その下に、小さく一行。


「判谷さんに、“半谷さん”ともう一度呼びかける日」


ペン先が止まる。


ことねが、ぽつりと呟いた。


「名前を紙から出すって、思っていたよりずっと、怖くて、でも大事なことですね」


紗良がうなずく。


「だからこそ、“全印一致”を終わらせるに値する」


ゆいは、画面の端に小さな鍵マークのアイコンを描いた。


「“名乗りボタン”は、ハンコの敵じゃなくて、“名前の味方”ってことですね」


俺は、ホワイトボードのペンキャップを閉じた。


「次で、ちゃんと見せよう。紙とハンコで守ってきたものを、どうやって電子と一緒に持ち替えるのか」


窓の外では、会社のビルの間に夕陽が沈みかけていた。

光はビルのガラスに反射して、

どの窓にも、四角い名前の札みたいな光を浮かべていた。

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