第10話 名前を紙から出す日

朝。新しい会社のフリースペース。

窓からの光でホワイトボードが白く光っている。


昨日の公開フロー会議の録画が、ノートPCの画面で止まっていた。

「名乗りボタン」の画面、その前でマイクを握る俺。

そして、あの一言。


——「個人の話、か」


判谷 朱丸の横顔で、動画は止めてある。


ことねが、マグカップを両手で抱えたまま言った。


「……完全に、“自分で分かってる顔”でしたね」


紗良もうなずく。


「“名を変える人もいる”って、自分のことじゃないとしたら不自然なくらい」


ゆいは膝を抱え込むように椅子に座り、画面を見つめた。


「でも、“ここで一気に言うのは違う”って空気もありましたよね」


「うん」


俺はペンを取って、ホワイトボードに三つ書いた。


1.事故の記録

2.朱丸印房

3.人事台帳


「この三つを、ちゃんと押さえてからにしたい。噂話でぶつけるんじゃなくて、“全部見た上で話す”って形にしたい」


ことねが頷く。


「じゃあ、役割分担を」


紗良が即座に手を挙げる。


「事故と人事は私が。紙仕事は私の担当です」


ゆいも挙手。


「朱丸印房は私。看板とか、跡地とか、雰囲気見るの得意です」


「俺は——」


俺はマーカーで自分の名前の横に、もう一行書いた。


・話す覚悟を決める


「これだけやる」


ゆいがくすっと笑う。


「それ、一番疲れるやつです」



♢ ♢ ♢



午前中。

区立図書館の新聞縮刷版コーナー。


冷房が少し強くて、紙の匂いがよく分かる。

紗良はマスクの位置を直しながら、古いスクリーンリーダーの前に座っていた。


係員に伝えた検索ワードは二つだった。


・「朱丸印房」

・「半谷 修」


ことねがメモ帳を開く。


「事故は10年以上前でしたっけ」


「人事台帳の入社日が12年前だから、それより前。ざっくりで追います」


画面に白黒の紙面が映る。

指でコマ送りしていくと、小さく見出しが出てきた。


『○○区 交差点で印章店の店主死亡』

『同乗の会社員男性(当時20代)、命に別状なし——一時的な記憶障害の疑い』


紗良が、顔色ひとつ変えずに読み上げる。


「店主、朱丸○○さん。同乗の会社員男性——半谷 修さん」


ことねがペン先を止めた。


「……出ましたね」


記事の本文には、こうあった。


・夜の配達の帰りに事故

・男性は命に別状なしだが、一時的な記憶障害の症状

・「当面はご家族のサポートが必要」と医師談


紗良は静かに別のタブを開く。


「ここから十二年後。うちの旧会社に中途入社」


ことねが、事前に預かってきた「人事深層台帳」のコピーを広げる。

通常は見ない、戸籍上の氏名・前職・通称使用の履歴が載っている。


「法名:半谷 修」

「通称:判谷 朱丸(社員証・社内システム上の表記)」

「備考:本人申請による通称使用。理由『旧家業の名を継ぐため』」


紗良が小さく息を吐いた。


「……“判”って字、祖母の店の“朱丸”から来てるのかもしれませんね」


ことねがメモに書く。


・事故で一部の記憶を失う

・祖母の店の名前「朱丸印房」が強く残る

・自分の氏名より、そちらを先に「自分だ」と感じた可能性

・入社時、通称として会社が受理


「本人も気づいてる?」


紗良が首を傾げる。


「どこかで自覚はあるけど、“朱丸として生きるほうが楽だった”時期が長すぎたのかもしれません」


ことねはペン先をぎゅっと握った。


「……“楽”というより、“そうしないと壊れそうだった”のかも」



♢ ♢ ♢



同じころ。

ゆいと俺は、古い商店街にいた。


シャッターの半分開いた八百屋、古い理髪店、そして——

角の一軒だけ、新しいカフェになっている建物。


看板には、かわいいフォントで店名が書かれている。

でも、その少し上。

外壁の塗装の下から、かすれた跡が透けていた。


「……“朱丸”の丸の痕、ですかね」


ゆいが指でなぞる。


丸い輪郭だけ、微妙に色が違う。

日焼けと補修の境目だ。


カフェの中に入り、俺たちはコーヒーを頼んだ。

カウンターの中には、三十代くらいの女性。


「こちら、昔は印鑑屋さんでしたよね」


俺が聞くと、彼女は「あー」と笑った。


「そうそう。うちの親世代がよく世話になってた店。朱丸印房って書いてあった」


「店主さん、覚えてます?」


「小柄なおばあさん。いつも指の先が赤くてね。“これでね、名前がちゃんと残るんだよ”って私にも遊びで押させてくれたなあ」


ゆいが、おそるおそる聞く。


「半谷さん、って人は?」


「ああ、いたいた。たまに配達手伝ってた若いお兄ちゃん。……そういえば、事故のあと見なくなったね」


女性は、少しだけ寂しそうな顔をした。


「店、急に閉まっちゃって。しばらく“朱丸印房 閉店のお知らせ”って貼ってあったけど、いつの間にか剥がされちゃってた」


ゆいが紙ナプキンにメモを取る。


店を出てから、俺たちは建物の横の細い路地に回った。

そこには、昔の看板の支柱だけが残っていた。


ゆいが、小さな声で言う。


「……ここで押してたんですね、ハンコ」


「たぶんな」


「“これでね、名前がちゃんと残るんだよ”って言いながら」


俺は、壁に残る丸い跡を一度だけ見上げてから、道に戻った。



♢ ♢ ♢

 


夕方。

新会社オフィスの会議スペースに、全員が戻ってきた。


テーブルの上には、図書館でコピーした新聞記事、

人事深層台帳の一部、

商店街で聞いてきた話のメモが、紙の小山みたいに積まれている。


ことねが、それらを一枚ずつ並べて口に出した。


「事故。朱丸印房。法名:半谷 修。通称:判谷 朱丸」


紗良が静かに言う。


「そして——奉納帳」


俺は、旧会社の総務から一時的に借りてきた、

一番古いほうの奉納帳をそっとテーブルに置いた。


「これ、本当は持ち出しNGだけど……、“フロー検証でどうしても必要”って言ったら、貸してくれた」


表紙には、薄く擦れた金文字。


〈契約課 押印記録(初版)〉


ページを開く。

一ページ目の一行目から、見覚えのある字が並んでいた。


「判谷 朱丸」


申請者欄も、承認者欄も、全部「判谷」。

横に並ぶ印影も、朱丸の丸い印だけだ。


ことねが、小さく息を呑む。


「……入社したときから、ずっと“判谷 朱丸”なんですね。“半谷 修”で押した行は、一つもない」


紗良が眉を寄せる。


「新聞記事では“半谷 修”で、人事深層台帳の“法名”も“半谷 修”なのに……、会社に来た瞬間から、記録上はずっと“判谷 朱丸”」


ゆいが押印記録を覗き込みながら言う。


「ここ、入社日と同じ日付ですよね」


最初の行の端に、小さく日付。

その横に、鉛筆で書かれた薄いメモがあった。


〈戸籍上の氏名は別途人事台帳参照〉


誰かが昔に書いた、人事向けの注意書きだろう。

消しゴムで一度なぞったようにかすれているが、読める。


紗良が指でそっとなぞる。


「“本当の名前は別のところにあるから、ここには書かない”ってことですね……」


ことねが、ペンを走らせる。


・事故前:半谷 修

・事故後:祖母の店「朱丸印房」の名が強く残る

・会社に来るとき、自分から“判谷 朱丸”を名乗った

・法名は人事台帳にだけ残し、現場の紙は全部“判谷”


俺はページの端に指を置いた。


「“半谷 修”は、会社の紙の上には一度も出てきてないってことか」


ゆいがぽつりと漏らす。


「“半谷さん”は、人事の奥と、昔の新聞と……、あとは本人の中にしかいない」


紗良が押印記録を閉じかけて、もう一度だけ開く。


どのページを見ても、「判谷 朱丸」。

ハンコも、全て「判谷」の印。


「……“仕事をするときの自分”は、最初からずっと“判谷”だったんですね」


ことねがペン先をぎゅっと握った。


「“半谷 修”として働く場所が、どこにも無かった……」


俺は、テーブルに広げた紙の束を見回した。


新聞記事の “半谷 修”。

人事台帳の “法名:半谷 修”。

現場の押印記録の “判谷 朱丸”。


「名前を紙から出すっていうのは、“半谷 修”を奉納帳に無理やり書き足すことじゃない」


全員がこちらを見た。


「“判谷 朱丸”として積み上げてきたものを否定しないまま、“半谷 修”も、ちゃんと本人とシステムの側に戻すってことだと思う」


ことねが小さくうなずく。


「“どっちかを消す”じゃなくて、“どっちも見えるようにする”」


紗良が押印記録を閉じた。


「だから——、ハンコをやめさせに行くんじゃなくて、“名前をごまかし続けるためだけのハンコ”を終わらせに行く」


ゆいが、その言葉をゆっくり復唱した。


「“名前をごまかし続けるためだけのハンコ”……」


会議スペースには、エアコンの音だけが低く響いていた。


奉納帳の表紙をそっと撫でると、

指先に、長い年月ぶんの紙のざらつきが伝わった。



♢ ♢ ♢



同じ頃。旧会社・契約課。


蛍光灯の白が紙に落ち、窓の外はガラスに黒を貼ったように暗い。

人の気配はもうない。


判谷 朱丸は、一人で奉納帳を開いていた。


机の上には朱肉、印鑑ケース、水だけ入ったマグカップ。

PCの画面はスリープ、会議室での録画が止まったままだ。


「“名乗りボタン”……ふん」


口では笑いながら、指先はほんの少しだけ震えていた。


半谷 修。


(誰だ)


事故のあと、病院のベッドで看護師が呼んだ名前。

家族が何度も呼んだ名前。


“修さん”。


頭の中では分かっている。

自分の名前だ、ということは。


けれど——


「……我の名は、判谷 朱丸」


口に出した瞬間だけ、呼吸が楽になる。


祖母の店の名刺。

閉店の貼り紙。

手の中で何度も折りたたんだカード。


朱丸印房。

朱丸の“朱”。

判子の“判”。


(これで、いい)


そう決めた日は覚えている。

それより前のことが、ときどきごっそり抜けるだけだ。


「名を変える人もいる、か」


会議室で、自分が言った台詞を思い出す。


あれは——

本当は自分に向けた言葉だった。


電気時計の秒針が、カチ、カチ、と進む。


「……名乗りボタン、ね」


笑い声は出ない。

喉の奥で、何かがひっかかったままだ。



♢ ♢ ♢



夜。

新会社オフィスに戻ってきた俺たちは、

ホワイトボードの前で輪になっていた。


ことねが、マーカーで一行書く。


「ハンコを否定しに行くんじゃない。“名前をごまかし続けるためのハンコ”を終わらせに行く。」


紗良が続ける。


「奉納帳を壊すんじゃなくて、そこに閉じ込められてる“半谷 修”を、本人に返す。」


ゆいは少し不安そうだ。


「でも、それって……、めちゃくちゃ痛いことをするってことですよね」


「うん」


俺は素直に言った。


「だからこそ、やり方を間違えたら最悪だと思ってる」


ことねが整理する。


「やってはいけないのは、

 ・みんなの前で“本名バラし”だけする

 ・事故の話を面白半分に引っ張る

 ・“騙してたんですね”と責める

 このあたり」


紗良が指を折る。


「やるべきなのは、

 ・事故と通称の事実を、先に会社側(人事・法務)と共有する

 ・“通称は否定しない、でも法名も見えるようにする”という提案にする

 ・名乗りボタンのログ設計で、過去の名前も参照できるようにする」


ゆいが小さく手を挙げた。


「それと、“本人にも選ばせる”。これからどっちの名前で働きたいか、本人に聞く。そのうえで、“システム上も選べる”ようにする」


俺は、ホワイトボードに大きく書いた。


「名前を紙から出す」


ことねが言葉を足す。


「“紙が守ってきた名前”を、本人とシステムにも分けて持たせる」


紗良が、静かに笑った。


「やっと“電子が善で紙が悪”じゃない言い方になりましたね」


ゆいは、ペンを回しながら呟いた。


「判谷さん、受け入れてくれるかな……」


「分からない」


俺は正直に言う。


「でも、あの人の“忘れる”不安を一人で抱えさせるのは、おかしい。事故の負担を、いつまでも“個人技”で処理させてる、ってことだから」


ことねが、ふっと目を細めた。


「“全印一致”って、本当は“自分の中のバラバラを揃えるため”にやってたのかもしれませんね」


その言葉に、誰も否定はしなかった。


 

スマホの画面に、旧会社の総務からのチャットが届く。


⭐︎ ⭐︎ ⭐︎

総務:

先日の公開比較会、お疲れさまでした。

社長・人事・法務で協議の結果、

「押印フロー・名乗りフロー合同検討会(第2回)」を

来週火曜 午後 に開催したいとのことです。

また、個別に契約課・判谷さんとの事前打ち合わせ時間も取れます。


⭐︎ ⭐︎ ⭐︎


ことねが、画面を覗き込む。


「……来ましたね、“個人の話”ルート」


紗良が時計を見る。


「来週火曜。それまでに人事と法務に全部出しておきましょう。“半谷 修”と“朱丸印房”のこと」


ゆいが、ぎゅっと拳を握る。


「私、“名乗りボタン”の画面、“名前の表示切り替え”を付けます。通称と法名、どっちも選べるように」


俺は、スマホに返信を打った。


⭐︎ ⭐︎ ⭐︎

白石:

承知しました。

事前打ち合わせ、ぜひお願いします。

「名乗りを紙から返す」話を、そこでさせてください。

⭐︎ ⭐︎ ⭐︎



送信ボタンを押す。


小さな“送信しました”の表示が出た。


「次は——」


誰に向けてでもなく、俺は言った。


「判谷さんに、“半谷さん”って呼びかける日だ。」


誰も笑わなかった。

でも、誰も目をそらさなかった。


窓の外はすっかり暗くなっていた。

街のビルの窓には、小さな四角い光が点々と並ぶ。


紙に押された名前と、

画面に残る名前。


その両方をちゃんと扱える日まで、

もう少しだけ、話を続ける必要があった。

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