第12話 名乗りボタンと、最後の全印一致
水曜・14:00。
旧会社・本館 大会議室。
長机がコの字に並び、前には天吊りのプロジェクタ。
壁にはいつもの社是パネルと、今日は見慣れないA3が一枚貼ってある。
〈本日の議題〉
1. 押印フロー見直し案(現行 vs 名乗りボタン)
2. 通称・法名の扱いについて(判谷さんケース)
3. 今後の移行スケジュール
後ろの席には現場の担当者たち。
総務、営業、経理、システム。
ざわざわした空気の中で、紙コップの水だけが静かに揺れていた。
前列右側に俺たち新会社チーム。
左側には旧会社側のキーマンたち。
その中央、ひときわ姿勢よく座っているのが——判谷 朱丸。
ネイビーのスーツ。
胸ポケットには、いつもの細い朱色のペン。
机の上には、黒い印鑑ケースと、厚いノートが一冊。
禁書「奉納帳」ではない。
今日は「会議用メモ」と書かれた新しい綴じノートだ。
議事進行役の総務課長がマイクを取る。
「それでは、“押印・名乗りフロー合同検討会”を始めます」
一礼のあと、まずは左側に視線を向ける。
「最初に、現行フローの代表として、
契約課の判谷さんから、改めて概要説明をお願いします」
判谷は椅子から滑るように立ち上がる。
「任された」
印鑑ケースをパチンと開け、細長いシャチハタを一本抜き取る。
「部内回覧」と刻まれたフタを、ゆっくり掲げた。
「初級技、《部内回覧》」
後ろの席から、クスクスと笑いが漏れかけて、すぐ咳払いに変わる。
判谷は気にしない。
「我が守ってきたのは、“紙の顔が見える流れ”だ」
スクリーンに、現行フローの図が映る。
起案 → 課長印 → 部長印 → 契約課印 → 保管。
判谷は、図の矢印に合わせて机上の紙に一つずつハンコを押していく。
ポン。
ポン。
ポン。
「この“ポン”一つひとつに、意味がある。“ここで止めた”“ここで確認した”“ここで責任を持った”。印影が残っている限り、“誰が通したか”は追える。」
一拍置いて、印鑑ケースの中から、丸くて大ぶりな印を取り出した。
「そして——
差し出された紙には、
「契約課」「総務部」「営業部」の三つの印がずらりと並んでいる。
「全ての部署の印が、一枚の紙に揃った状態。これが、“社としての意思”の形だ。これを捨てて、ただの“カチ”一つで済ませて良いのか——」
そこまで言って、こちらを少し睨む。
俺は黙って聞いていた。
「では、新フロー側からお願いします」
総務課長の促しで、俺は席を立つ。
「白石です。今日は、“ハンコを捨てよう”という話ではありません」
まずそれをはっきり言う。
後ろの椅子の緊張が、ほんの少しだけ緩んだ。
「やりたいのは、“印影だけ残って中身が分からない紙”を、“押した人と理由と時間が全部見える状態”に変えることです」
画面を切り替える。
そこには、シンプルな画面。
⸻
申請内容:[〇〇社との取引基本契約]
決裁者: [ 判谷 朱丸 ▼ ] ※プルダウンで “半谷 修” も選択可
コメント:[ ]
[ 自分で決裁(名乗る)]
⸻
「新しいフローの核は、この“名乗りボタン”です」
俺は、あえて難しい言葉を避けて続ける。
「これを押した瞬間、“誰が”“いつ”“どこから”“どういう名前で”決裁したかが、会社と本人の両方に記録されます」
スクリーンにサンプルのログを出す。
⸻
2025/06/10 14:32:11
決裁者:判谷 朱丸(法名:半谷 修)
端末:本館4F-会議室B(固定端末)
コメント:内容確認済み/原本ファイルID:K-2025-0610-01
⸻
「ここに残るのは、印影の画像ではなく、“名乗りと時間”です。紙の奉納帳に、あとからまとめて押す代わりに、その場その場で、“自分で名乗った記録”を残します」
後ろの席から、ぽつぽつとメモを取る音が聞こえた。
総務課長が段取りを進める。
「では、単純なケースで比較してみましょう」
机の上には、同じ内容の契約書のダミーが二部。
A:現行フロー(紙&押印)
B:新フロー(名乗りボタン)
「スタート〜決裁完了まで、双方で測ります」
秒読み役はことね。
スクリーンの隅にタイマーが表示される。
「起案、用意——スタート」
A側の紙は、まず起案者の席から課長の席へ。
誰も走りはしないが、机と机の間を紙が移動するたびに、
ちいさく「すみません、これ……」という声が乗る。
課長印:ポン。
部長印:ポン。
契約課に運ばれて、判谷印:ポン。
B側は、起案者が画面を開き、上長ラインを一覧から選んで送る。
契約課の決裁者を「判谷 朱丸」にセットして送信。
何度か「届きました?」の確認が飛ぶが、
タイムラインにはしっかり「受信」の記録。
最後の決裁者のところで、
画面が「名乗りボタン」を表示する。
[決裁者: 判谷 朱丸 ▼]
[ 自分で決裁(名乗る)]
カチ。
ことねがタイマーを止める。
「B側、完了——2分28秒です」
少しあと、A側の紙がやっと契約課から戻ってくる。
「A側、完了——7分12秒」
後ろの席から、小さなどよめき。
総務課長が確認する。
「内容は、どちらも同じですね?」
山内がログと紙を確認して頷く。
「はい。“誰が承認したか”を追うには、B側のほうが、むしろ情報が多いくらいです。」
二本目は、わざとトラブルを入れるケースだ。
「今度は、途中の押し忘れがあった場合」
現行フローでは、あえて課長印を飛ばして部長印だけ押す。
契約課に回ったところで、判谷が眉をひそめる。
「ここに穴があるな。押し直しだ」
紙が起案者のところへ戻される。
課長を探しに行く足が一人増える。
部長は席に戻ってこない。
紙は机の上を何往復もしながら、時間だけが過ぎていく。
一方、新フロー側では——
途中の承認者欄が空欄の場合、
「上長決裁未実施」というエラーが出て先に進めない。
「誰かが気合いで通す」という裏技は効かない。
課長が自席から画面を開き、
自分の名前で「自分で決裁(名乗る)」を押さない限り、
次の人のボタンがアクティブにならない仕組みだ。
「つまり、“押し忘れ”が起きた瞬間に分かる」
俺は説明を足した。
「紙の場合、“最後の人”が気付く。電子だと、“飛ばされた人”が自分の画面で気づく。“押してないのに押したことになっている”状態を、作らせないようにしています」
後ろの席で、何人かがはっきり頷いた。
三本目は——今日の本題。
総務課長が静かに言う。
「最後は、“名前”の扱いを比較したいと思います」
スクリーンに、名乗りボタンの画面が拡大される。
[決裁者: 判谷 朱丸 ▼ ]
※プルダウンに “半谷 修” も表示
会場に、さっと緊張が走った。
「こちらのケースでは、決裁者に“通称”と“法名”が登録されています」
山内が前に出る。
「従来は、紙の中では“判谷 朱丸”のみが使われてきました。一方で、人事台帳や法務の記録には“半谷 修”も残っています。今回のフローでは、それを——」
そこで、判谷が手を挙げた。
「待て」
総務課長が「どうぞ」と促す。
判谷は、席を立たずにマイクだけを手に取った。
「その説明は、我の押印でやらせてくれ」
スクリーンに、決裁画面が映る。
操作するのは判谷自身だ。
ゆっくりと、マウスカーソルを「決裁者」のプルダウンに合わせる。
カチ。
小さなリストが開く。
・判谷 朱丸
・半谷 修
会場の空気が、さらに重くなる。
判谷は、まず「判谷 朱丸」を選ぶ。
「我がこの会社に来てから、紙に書いてきた名は、ずっとこれだ」
次に、もう一度プルダウンを開く。
「半谷 修」の行の上で、カーソルが一瞬止まる。
「事故の前の名。新聞の記事に載った名。」
胸ポケットに、そっと左手を当てる。
「……どちらも、間違いなく俺だ」
一度、目を閉じて息を吸う。
呼吸が静まるのを待ち、
「決裁者」の欄にカーソルを戻す。
そして——
・判谷 朱丸(法名:半谷 修)
画面に、新しい表示形式が現れた。
ゆいが、事前に用意していた“両方表示”のフォーマットだ。
「通称と法名を、一行で並べる仕様にしています」
山内が説明を添える。
「どちらで呼ばれても、同じ一人として扱うために」
判谷は、小さく笑った。
「悪くない。“どちらかを殺せ”とは言われていない」
そして、画面下部のボタンを見る。
[ 自分で決裁(名乗る)]
右手の人差し指が、ゆっくりとパッドに降りる。
カチ。
会場のスピーカーから、小さな「カチ」の効果音が鳴るように設定してある。
それが、ポンの代わりの“音”だ。
スクリーンに、決裁ログが表示される。
⸻
2025/06/10 14:32:11
決裁者:判谷 朱丸(法名:半谷 修)
端末:本館4F-大会議室(会議用)
コメント:内容確認済み
⸻
後ろの席から、ざわめき。
「“半谷”って……」
「法名って書いてある……」
「通称と一緒に出せるんだ……」
総務課長がマイクを取る。
「この形式であれば、社内の誰がログを見ても、“同じ一人”だと分かります。」
判谷は、ゆっくり立ち上がった。
今度は、印鑑ケースから最後の一つだけを取り出す。
少し大きめの丸印。
「これは、“契約課代表印”だ」
紙の時代、最後に押す“まとめ”の印。
「この印を、“全印一致”のために使うのは今日で終わりにしよう」
会場が、静かになる。
「これからは——」
判谷は、印をそっと掌に戻しながら言う。
「“全印一致”じゃなく、“全員が名乗っている状態”を、お前らの“カチ”で作れ。」
俺は頷く。
「そのためのログと画面は、全部用意します。“誰が押したか分からない印影”より、“誰が名乗ったか分かる記録”を重く扱ってください。」
判谷は、印鑑ケースを閉じた。
パチン。
そして、黒いノート——新しいほうの「会議用メモ」を手に取り、
一ページ目に、大きく書いた。
〈全印一致(紙)→ 名乗りログ(電子+人事)〉
「これが、今日の結論だ」
総務課長が、会のまとめに入る。
「本日の検討の結果——」
・対外契約:当面は紙+押印を継続。ただし名乗りログも並行記録
・社内稟議:原則、名乗りボタンによる電子決裁へ移行
・判谷さんケース:通称と法名を明示的に紐づけ、表示は両方
「以上を、基本方針とします。詳細なルールは、後日各部署へ案内します」
一礼のあと、自然と拍手が起こった。
最初は遠慮がちに、次第に大きく。
その中で、判谷は座ったまま、
胸ポケットにそっと手を入れていた。
きっと、あの古い名刺を確かめている。
——朱丸印房。
——半谷 修。
♢ ♢ ♢
解散のあと。
人が少し引いたタイミングで、俺たちは判谷に声をかけた。
「お疲れさまでした」
判谷は、いつもの調子に近い笑顔でこちらを見た。
「全印一致、看板を下ろした気分はどうだ?」
「案外、悪くない」
印鑑ケースを軽く持ち上げる。
「“我が全てを押す”と思っていたが……、“皆が自分で名乗れるようにする”ほうが、仕事としては手応えがあるかもしれん。」
ことねが笑う。
「全員一致じゃなくて、“全員名乗り”ですね」
「言い得て妙だ」
紗良が、少し真面目な声で言う。
「……今日は、“半谷さん”としてもここにいてくださって、ありがとうございました」
判谷は、ほんの少しだけ目を細めた。
「呼ばれて、まだ少し足元が揺れる名だがな」
胸ポケットを軽く叩く。
「だが、“紙にしかいない名前”ではなくなった。それだけでも、ここに来た意味はあったのだろう」
ゆいが、タブレットを掲げる。
「名乗りボタン、正式採用されたら、“判谷さんの日”“半谷さんの日”って切り替えて使ってくださいね」
「贅沢なことを言う」
そう言いながら、判谷はふっと笑った。
「だが——考えておこう。“どちらで名乗るか”を、自分で選べるというのは、案外悪くない。」
会議室を出て、廊下を歩く。
自販機の前で立ち止まり、俺は小さく息を吐いた。
「……なんとか、ここまで来たな」
ことねが、ペットボトルのお茶を一本差し出す。
「“ハンコを否定する話”じゃなくて、“名前をごまかすためだけのハンコ”を終わらせる話になりましたね」
ゆいが、タブレットの画面で
ポンのアイコンとカチのアイコンを並べて見せてくる。
「“ポン”も“カチ”も、どっちも音として残します?」
俺は頷いた。
「音は残していい。大事なのは、“誰の音か分かること”だから。」
窓の外、ビルのガラスに映る自分たちの姿。
その向こうで、夕方の空が少しだけ赤くなり始めていた。
紙の上でしか生きられなかった名前が、
画面の中にも、口の中にも出てきた日。
判谷 朱丸。
半谷 修。
どちらも、今日からちゃんと“ここにいる人”として扱われる。
ポンとカチのあいだに、
やっと一つ、橋がかかった気がした。
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