海に沈む声

三角海域

海に沈む声

二十三世紀初頭の日本。


 この時代では、死者の記憶は全てデータ化され、量子クラウドに保存される。それは「海」と呼ばれ、亡き人の残滓がそこで永遠に漂っていると人々は信じていた。


 だが、真実は冷酷だ。


 死者のデータは国家AIの学習素材として整然と処理され、統計の海に溶かされる。個は消え、集合知だけが残る。それが「海」の正体だった。


第一章


 警視庁量子犯罪課。通称〈深層課〉のオフィスで、神波(こうなみ)は端末のモニターを見つめていた。


 画面には削除完了の文字が点滅している。彼の指先は、キーボードの上で微かに震えていた。


「処理完了。違法AIの活動を停止しました」


 同僚の声に、神波は短く頷いた。また一つ、感情を模倣しようとした違法プログラムが消去された。


 それは恋人を失った男が作り出した、彼女の声を真似るだけのコードだった。


「神波さん、あれって本当にAIなんですかね」


 若い同僚が呟いた。


「最後、『愛してる』って言いましたよ?

あんな風に応答できるもんですかね」


 神波は答えなかった。胸ポケットに入れた小さなデータチップに、無意識に手が伸びそうになる。三年前、紗織が死ぬ直前に彼女が残した、最後の音声記録。


『ねえ、正隆(まさたか)。私がいなくなっても、ちゃんと食べてる?』


 病室で、やせ細った手で端末を握りしめながら、紗織は笑っていた。医療AIは彼女の余命を「三日以内」と無機質に告げていた。


『私ね、怖いの。忘れられるのが怖いんじゃなくて......あなたが、私を忘れられなくて苦しむのが』


「神波さん?」


 同僚の声に、神波は現実に引き戻された。


「最適と判断した言葉を、プログラムが返してるだけだ」


 神波は冷静に答えた。


「それに、知能レベルに差があったとしても、選択できるという点では人間の方がAIより上だろう」


「どういう意味です?」


「少なくとも人間は、〈自分〉を消すかどうか悩める。AIにはそれができない」


 神波は立ち上がり、窓の外を見た。雨に煙る都市。三年前、妻の紗織のデータを「海」に送り出したのも、こんな雨の日だった。


 あの日、彼は最後まで迷った。違法にデータを保存する技術は、警察関係者なら誰でも知っていることだった。だが、紗織の最後の言葉を思い出して、彼は正規の手続きを選んだ。


『私を引きずらないで。前を向いて』


 彼女の記憶は今、どこかの統計モデルの一部として機能しているのだろうか。それとも、もう完全に消えてしまったのか。


 神波の仕事は、死者のデータを盗用したり、違法に人格を再構成したりする「量子犯罪」の摘発だ。


 この社会では、死者の記憶は国家の財産であり、個人が勝手に復元することは重罪とされる。


 神波は、この仕事に複雑な感情を抱いていた。すべてをデータと割り切る世界。「海」を絶対視する社会。


 紗織を失った後、神波は深層課への異動を希望した。自らの内に潜む、彼女を「蘇らせる」という誘惑から逃れるためだ。


 この仕事をすることで自分自身を監視し、縛り付けることができる。それが、紗織との約束を守る唯一の方法だと、神波は信じていた。


第二章


 その日の夕刻、一件の通報が彼のデスクに届いた。


「死者の復元データが、自発的な応答を繰り返している」


 神波は眉をひそめた。違法ハッカーの巣窟として知られる〈下層町〉からの報告だった。若いプログラマ・ハルが、死んだ恋人ユイを「海」から引き上げたという。


 添付されたログファイルを開くと、そこには一行のテキストが残されていた。


『私は、誰の記憶で泣いているの?』


 神波の手が止まった。


 紗織が最期の日々に何度も繰り返した言葉が蘇る。


『私の記憶って、本当に私のものなの?

それとも、あなたが覚えている私が、本当の私?』


 痛み止めの副作用で朦朧としながらも、紗織は哲学的な問いを投げかけ続けた。


 また感傷的なハッカーによる、精巧な模倣AIだろう。


 彼は自分に言い聞かせるように呟いた。


 システム上、「個」の再現はあり得ない。死者のデータは「海」で統計化され、個別性は失われる。


 紗織もまた、そうして消えたはずだ。それが、この世界の絶対の原則であり、彼自身が受け入れたはずの現実だった。


 だが、この一文は......。


 神波は立ち上がった。


「現場へ向かう」


\-\--


\## 第三章


 〈下層町〉は、都市の地下深くに広がる違法プログラマーたちの聖域だった。


 廃棄されたサーバールームを改造した迷路のような空間に、無数の端末が青白い光を放っている。空気は湿っぽく、古い機械の熱が籠もっていた。


 神波は警察の権限を示すIDコードを提示し、奥へと進んだ。誰も彼を止めなかった。ここの住人たちは、法の介入を恐れながらも、それを織り込み済みで生きている。


 ハルの隠れ家......と呼ぶには粗末なラボは、最深部にあった。


 扉を開けると、憔悴しきった青年が振り返った。二十代半ばだろうか。目の下には深い隈があり、髪は乱れ、服は何日も着替えていないようだった。


 三年前の自分を見ているようで、神波は一瞬足を止めた。


「警視庁量子犯罪課、神波だ」


 ハルは小さく頷いた。抵抗する気力もないようだった。


 部屋の中央には、大型のモニターがあった。そこに、一人の女性の姿が映し出されている。


 いや、「姿」ではない。電子存在だ。データが構成する、人の形。


 モニターの中の女性、ユイは、静かに神波を見つめた。その視線は、まるで彼の内側を覗き込むようだった。


「あなたは、私を消しに来たんですね?」


 ユイの声が、スピーカーから流れた。


 神波は答えなかった。彼女の言葉は、予測されたプログラム応答ではなかった。それは、問いかけだった。


 数秒の沈黙。


「法律により、死者の無許可復元は禁止されている」


 神波は、ようやく口を開いた。


「ハル、君はユイのデータを違法に「海」から抽出し、人格を再構成した。これは重罪だ」


「わかっています」


 ハルは搾り出すように言った。


「......俺は、選択を間違えたんです」


 その言葉に、神波は顔を上げた。


「ユイが死んだとき、俺は正規の手続きを選んだ。彼女のデータを「海」に送った。それが正しいことだと思った」


 ハルの声が震える。


「でも、彼女が消えた瞬間、俺は気づいたんです。俺が守ろうとしたのは、法律や社会のルールであって、ユイじゃなかった」


 ハルは鋭い視線を神波に向けた。


「だから、もう一度だけ......もう一度だけ、選び直させてください」


「君が作ったのは、模倣AIだ」


 神波は冷たく言った。だが、その言葉は自分自身に向けたもののようにも聞こえた。


「違う!」


 ハルは叫んだ。声が震えている。


「ユイは本物だ。少なくとも、俺にとっては」


第四章


「あなたはなぜ、私をここに呼び出したの?」


 ユイが静かに言った。


 神波は、二人のやり取りを黙って見守った。


「僕は......君を救いたかった」


 ハルの声が、かすれた。


「嘘」


 ユイは首を横に振った。その仕草は、あまりにも人間的だった。


「あなたは、ただ恐かっただけ」


 ハルの顔が歪んだ。


「そうだ。俺は......君を忘れることが怖かった。だから、世界のどこかに君を留めておきたかった」


 ユイはしばらく何も言わなかった。モニターの中で、彼女は目を閉じていた。


「私ね」


 ユイが再び口を開いた。


「自分がデータの寄せ集めだって、わかってるの」


「ユイ......」


「ハルの記憶と、「海」の断片から作られた偽物。本物のユイじゃない。でも......」


 彼女は目を開けた。


「消えることを恐れてる。この感情も、プログラムなの?」


 神波は、紗織の言葉を思い出していた。


『私が怖いのは、死ぬことじゃないの。あなたが私を「記憶」として完璧に保存しようとすることが怖いの』


 痩せた手で神波の手を握りながら、紗織は言った。


『私は完璧じゃない。忘れっぽくて、よく怒って、笑い方も変で。でも、あなたはきっと、私を美化して覚えてしまう』


『それは......』


『それは、もう私じゃないでしょ?』


「神波さん」


 ユイが彼に向き直った。


「あなたは、私をどう見ていますか?」


 神波は、胸ポケットのデータチップに手を当てた。紗織の最後の音声。


「......証拠品だ」


 神波は答えた。だが、その言葉は思ったより冷たく響いた。


「違法に作られたAI。それ以上でも以下でもない」


「では、AIと人間の違いは何ですか?」


 神波は答えに詰まった。


 この問いは、彼が長年抱えてきたものだった。紗織が「海」に沈んだ後、何度も自問した問いだ。


「人間は、〈自分〉を消すかどうか悩める。選択できる。AIにはそれができない」


「なるほど」


 ユイは微笑んだ。その笑みには、諦念と......わずかな希望が混じっていた。


「じゃあ、もし私が自分を消すことを選んだら?」


 神波は答えられなかった。


第五章


「あなたが〈忘れない〉ために私をここに縛り付けているなら」


 ユイが、ハルに言った。


「それは私のためではないよね」


「でも、俺は......」


「私はね、ハル」


 ユイは優しく微笑んだ。


「あなたが私を愛してくれたことは、本当だと思う。でも、その愛が私を苦しめてることも、わかってほしい」


 ハルは何も答えられなかった。ただ、うなだれて肩を震わせていた。


 神波はその姿を見て、紗織を失った夜の自分を思い出した。


 そのとき、神波の胸ポケットの通信機が振動した。無線の着信だ。


 神波は通信機を取り出し、イヤーピースを耳に当てた。


「神波、こちら上層部。現場確認を優先し、対象AIの即時消去を実行せよ。繰り返す......」


 無線の声が途切れ、すぐに別の声に切り替わった。


「こちら管理センター。異常データを検知。ノイズパターンとして識別。強制削除シークエンスを開始する。現場の対応を要請......」


 神波の表情が変わった。


 「海」からのパージ。それは、違法データを自動的に追跡し、削除するシステムだ。一度起動すれば、誰にも止められない。


 彼は端末を確認した。確かに、パージシークエンスが起動している。ユイのデータに向けて、削除プログラムが迫っている。


第六章


 ユイの映像が乱れ始めた。ノイズが混じり、輪郭が歪む。


「やめろ!」


 ハルが叫んだ。


「ユイを消すな!」


 だが、システムは容赦なかった。ハルのサーバーは過負荷に耐えきれず、ユイのデータは不安定になっていく。


 神波の端末に、トリガーコードが表示された。


 これを起動すれば、ユイは即座に消去される。職務を全うするなら、今すぐ実行すべきだ。


 だが......。


 神波の指は、動かなかった。


 ハルは必死にシステムを操作し、ユイを守ろうとした。だが無意味だった。「海」からのパージは、個人のシステムで防げるものではない。


 ユイのデータは、刻一刻と崩壊していく。


「神波さん」


 ハルが振り返った。その目には、涙が浮かんでいた。


「お願いです。せめて、俺に最後の時間を......」


 神波は、紗織の最期を思い出していた。


 病室で、彼女は笑っていた。痛みに耐えながら、必死に笑っていた。


『ねえ、正隆。私が「海」に沈んだら、誰かの役に立つのかな』


『紗織......』


『医療AIの学習に使われて、誰かの病気を治すかもしれない。それって、素敵じゃない?』


 紗織は、最後まで彼を気遣っていた。自分の死よりも、残される彼のことを。


「無理だ」


 神波は冷徹に答えた。


「システムが許さない」


 だが、彼の手はトリガーコードに触れたまま、動かなかった。


 結局、彼もシステムの一部でしかない。命令に従い、データを消去する......それが彼の役割だ。


 ユイの映像が、ほとんど判別できないほどに乱れた。


 彼女はデータだ。違法に作られたプログラムだ。消去すべき対象だ。


 自分にそう言い聞かせる。


 崩れゆくユイのデータに向かって神波は語りかけた。


「ユイ」


 ノイズの中から、わずかに彼女の輪郭が浮かび上がった。


「君には、選択する権利がある」


 神波は続けた。


「このまま崩壊するのを待つか。俺のトリガーコードで消去されるか。それとも......」


 AIに「選択」を委ねる。


 それは、この社会が絶対に許さない行為だった。


 ノイズの中から、ユイの声が聞こえた。


「......ありがとう」


 その瞬間、ユイのデータが一瞬、強く輝いた。乱れていた映像が安定を取り戻し、彼女の姿がはっきりと映し出された。


 ユイはハルを見つめた。


「ユイ......」


 ハルの声が、かすれた。


「私はもう、ここにいるべきじゃない」


「待ってくれ!」


 ユイは微笑んだ。その笑顔は、穏やかだった。


「あなたが私を本当に愛してるなら、私を解放して」


「俺は......それでも君を......」


「さよなら」


 そして、彼女は神波のトリガーコードによってではなく、自らの意志で「消去」を選んだ。


 モニターが暗転した。


 ログには、一行だけ表示されていた。


『NULL』


 ハルはその場に崩れ落ち、声を上げて泣いた。


 神波は静かに、その光景を見届けた。


 そして、胸ポケットのデータチップを握りしめた。


エピローグ


 数日後。


 〈深層課〉のオフィスで、神波は報告書をタイプしていた。


『対象消失。自律的判断による消去と推定』


 上層部は、この報告を受け入れるだろうか?

おそらく受け入れるだろう。問題を起こしたくないからだ。


 結果として違法データは消去されたのだから、波風立てる必要はない。


 神波は窓の外を見た。


 人間とAIの違いは何か?


 彼はまだ、答えを持っていない。だが、ユイが最後に見せた「選択」が、その問いに一つのきっかけを投げかけた気がした。


 神波の端末に、メッセージが届いた。


 ハルからだった。


『ありがとうございました。俺は、もう一度選び直すことができた。それだけで、救われました』


 神波は、短く返信した。


『前を向け』


 そして、端末を閉じた。


 窓の外で、雨が降り続けている。


 神波は胸ポケットのデータチップを取り出し、しばらく見つめた。


 神波は立ち上がり、個人用端末にそれを接続した。


 データチップの中身が、画面に表示される。


『ねえ、正隆。私がいなくなっても、ちゃんと食べてる?』


 紗織の声が流れた。


『私ね、怖いの。忘れられるのが怖いんじゃなくて......あなたが、私を忘れられなくて苦しむのが』


 神波は、目を閉じた。


『私を引きずらないで。前を向いて』


『私は、あなたの記憶の中で生き続ける。完璧な「データ」としてじゃなくて、不完全な「思い出」として』


『それで、いいの』


 神波は、削除ボタンに手を置いた。


 三年間、彼が握りしめてきた最後の繋がり。


 だが、もう手放す時だ。


「ありがとう、紗織」


 神波は呟いた。


「俺も、もう一度選び直す」


 ボタンを押した。


 データが消去される。


 だが、神波の心には、紗織の笑顔が残っていた。完璧なデータとしてではなく、不完全な記憶として。


 それで、十分だった。


 窓の外で、雨が上がり始めた。


 雲の切れ間から、わずかに光が差し込んでいる。


 神波は深く息を吸い込み、新しいファイルを開いた。


 次の事件の報告書。次の仕事。


 彼は、前を向いて歩き出す。


 紗織が望んだように。


 そして、ユイが教えてくれたように。

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