第37話 静かな場所
翌朝、僕は夜明けと同時に宿をたった。
宿の主人は何も言わず、ただじっと僕の目を見て、小さく頷いた。それが励ましなのか、諦めなのかは分からなかった。
まずは荒野の側にある門に行ってみた。錆びついた鉄格子が固く閉ざされ、長いこと誰も通ったことがないことを物語っていた。
門を開ける人間も当然いない。
「やっぱりな…わかってたよ…」
僕は踵を返して街道側の門へと向かった。
門から街を出ると、冷たい朝の空気の中、外壁に沿って開かない門のところまで黙々と歩いた。
そこからカルデラの縁の小高い頂上まで、道とも呼べないような微かな踏み跡を辿り始めた。
息を切らしながら丘を登りきった僕は息を呑んだ。眼下に、広大なカルデラ大地が広がっていたのだ。それはまるで、巨大な神が大地をくり抜いたかのような、途方もないスケールの光景だった。
そして、その底に広がるのは、ギルドの男が言った通りの、黒い岩と砂だけの死の世界。あまりの広大さに、自分がひどくちっぽけな存在に思えた。地平線まで続くその景色は、美しいと同時に、生きとし生けるもの全てを拒絶しているかのように見えた。
その高みではまだ、風が僕の髪を揺らしていた。しかし、カルデラの底へと続く砂利の斜面を降り始めると、奇妙なことが起きた。一歩、また一歩と下るにつれて、風の音が弱まっていく。そして、斜面を半分ほど降りたところで、まるで見えない壁を通り抜けたかのように、ぴたりと風が止んだのだ。
時々振り回されながらも、なんだかんだと頼りにしてきた『風の声』が完全に消失し、世界は絶対的な沈黙に包まれた。
それは僕が求めていた静寂のはずなのに、あまりに完全な無音は、まるで深い水の底にいるような圧迫感があった。自分の心臓の音だけが、やけに大きく頭に響く。
ここが、本当の「風止まり」の先の世界なんだ。
一歩、また一歩と荒野に足を踏み入れる。風が無いせいで空気がねっとりとしているように感じた。
草木一本、虫一匹の気配すらない。身につけたばかりのコダマと連携した狩りの技術は、ここでは役に立たなそうだ。。頼れるのは、背負った水と干し肉の量だけ。僕たちは、限られた時間の中でこの広大な荒野を突破しなければならない。
僕は一度立ち止まり、水筒の水を一口含んだ。
ねっとりとした空気と、どこまでも続く同じような景色が、体だけでなく心にも疲労を蓄積させていく。僕は肩の上の相棒に、わざと明るい声で話しかけた。
「…なあ、コダマ。静かな場所がいいって言ったのは僕だけど、これは少し…静かすぎやしないかな?」
まあ、虫の一匹もいないってのは、ありがたいけどね。野宿しても毒虫に刺される心配がないのはさ。いつもは虫除けの薬草で寝床を囲ったり、自分の肌に擦り付けたりして眠る。それが時々痒くなるんだよね。ここではその苦しみは無さそうだ。
でもこの感じ、夜は冷えそうだな。それは火とマントで何とかすればいいか……
僕が再び歩き始めようとした、その時だった。僕の体に、奇妙な異変が起こり始めた。最初は、ただの疲労だと思っていた。しかし、それは徐々に、無視できない感覚へと変わっていった。
音ではなかった。
けれど、体の芯、骨の髄に直接響くような、ごく微かな「振動」。
それは絶えること無く続き、三半規管を揺さぶられているような不快感と共に、僕の意識を内側へ、内側へと向かわせる。
その振動に共鳴するように、僕の頭の中に、忘れたはずの過去の記憶が蘇り始める。子供の頃から知っている人を飲み込む濁流。流されながら壊れていく家。悲鳴。僕を責める誰かの言葉。その声の震え。それはギルドで聞いたような亡霊の声などではない。僕自身の記憶、僕自身の後悔の声だった。
めまいを感じ、僕は思わず膝をつく。息が荒くなり、冷や汗が背中を伝う。胃の奥から何かがせり上がってくるような不快感に、僕は砂の上に手をついた。
(これが…『自分の心に棲む化け物』…)
宿の主人の言葉が、頭の中で反響した。この土地は、人の心の奥底に眠る記憶を、無理やり引きずり出すんだ。
僕が苦しんでいると、肩の上のコダマが、僕の頬を小さな手でパンチした。
その硬くて冷たい感触が、僕を悪夢のような記憶から現実へと引き戻してくれた。
コダマは、この振動の影響を受けていないようだった。そのいつもと変わらない姿が、僕にとっての錨だった。
僕はコダマの存在に勇気づけられ、ふらつきながらも立ち上がる。そして他の錨も出動させることにした。リラに改良してもらった『調律石』を握りしめ、『意味の無い詩』を口ずさむ。
本当の敵は、この荒野に潜む何かではない。僕自身の、過去だ。僕は、その見えない敵と対峙する覚悟を決め、再び沈黙の大地を歩き始めた。その一歩は、さっきまでとは少しだけ意味が違っていた。
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