第38話 音無し

自分自身の過去という幻覚に苛まれながら、僕は荒野を歩き続けていた。僕の精神を守る錨達の力がなければとっくにおかしくなっていただろう。

しかし、もはや、どこからが現実で、どこからが記憶の残像なのか、その境界は曖昧になりつつあった。何か確かなものに触れたくて、僕はだらだらと続く砂地を離れ、そそり立つ巨大な岩のそばを歩いていた。ごつごつとした岩肌に時折指を触れ、その冷たさだけが、かろうじて僕を今ここに繋ぎ止めてくれていた。


風が吹いているのだろうか? 

僕が進む先の地面、岩盤の麓の砂や小石が、動いていた。

音もなく滑るように動き、一箇所に集まり始めた。

それらはやがて大きな塊を形成していった。


(…また、新しい幻覚か。今度はずいぶんと、手が込んでいるな)


僕はそれを、この土地が見せる新たな悪夢だと判断した。砂と岩は、僕の姿をぼんやりと模倣するかのように、人の形を成していく。それはみるみるうちに大きくなり、僕の背丈の二倍はあろうかという巨人の姿になった。

疲労困憊の僕は、もはやそれに付き合う気力もなかった。無視して、その脇を通り過ぎようとする。


その瞬間、その人型の塊が、巨大な腕を振り上げた。しかし、僕の目にはそれがひどくゆっくりと、非現実的に見えた。岩が擦れる音も、空気を切り裂く音も一切しない。完全に無音で動くその光景は、これが幻覚であることを僕に確信させた。

僕は避けようともせず、ただそれを眺めていた。どうせ、僕の体をすり抜けて消えるだけの、ただの幻なのだから。


その時、耳に強い痛みを感じた。

コダマが僕の耳に思いきりしがみつき、全体重をかけて僕を後ろに引っ張ったのだ。


その強い力に、僕の体は思わずよろめいて、一歩後ずさる。まさにその刹那、僕が立っていた空間を、岩の腕が強烈な風圧と共に通り過ぎていった。

そして次の瞬間、僕のすぐ横で轟音が響き渡った。岩の腕が、僕が寄りかかっていた巨大な岩盤を粉々に砕いたのだ。人型の塊そのものの動きは完全に無音だったのに、それが現実に干渉した結果は、鼓膜を揺さぶる本物の音と衝撃を伴っていた。


砕けた岩の破片が、僕の肌を打ち、鋭い痛みが走る。


(痛い…? これは、現実だ…!)

脳が、目の前の存在が幻覚ではないと絶叫する。僕の全身を、純粋な恐怖が貫いた。僕は咄嗟に身を翻して、全力で走り出す。背後からは、音もなく巨体が迫ってくる気配がする。


パニックに陥る僕の耳元で、コダマが必死に僕の髪を引っ張り、ある方向を指し示した。そこは、今にも崩れそうな、脆い岩が積み重なった崖だった。


僕はコダマの意図を信じ、崖へと走る。そして、崖を駆け上がりながら、振り返りざまに石を投げつけ、巨体を挑発した。僕を追って崖を登ろうとした巨体は、その重さに耐えきれなかった崖の崩落と共に、岩の下敷きになった。


息も絶え絶えに岩陰に隠れ、僕は荒い呼吸を繰り返す。心臓が、激しく鼓動する。

先ほどの、音も無く動く、空虚な存在。恐怖の中で、僕の口から自然と、その名前がこぼれ落ちた。


「……『音無し』…」

それは、僕がこの荒野で初めて出会った、現実の「死」の名前だった。

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