第36話 風止まりの街

旅を続けるにつれて、周囲の景色は一変した。

緑は影を潜め、黒々とした溶岩大地がどこまでも続いている。太陽の光を浴びて鈍く輝く火山岩は、ガラスの破片のように鋭く、一歩一歩、慎重に足を選ばないと靴底が裂けてしまいそうだった。遥か先には、この異様な地形を生み出したであろう、巨大なカルデラの尾根が霞んで見えた。


鋭い岩に覆われた歩きにくい土地を避け、僕たちは不本意ながらも人々が使う交易路へと合流した。

土が踏み固められた道は、足には優しかったけれど、僕の心には優しくなかった。久しぶりに風の『声』が、遠くを行く馬車の轍の音や、商人たちの他愛ない話し声といった、無数の人の気配を運んでくる。

アルメを離れてから、僕の耳が慣れ親しんでいた静寂は、あっけなく破られた。


やがて、巨大なカルデラの外輪の尾根の麓に、へばりつくようにして作られた街『風止まりの街』が見えてきた。

街は周囲の風景に溶け込むように、黒い火山岩を積み上げて作られており、まるで大地から生えてきたかのように見えた。


(風が、普通に吹いている。それなのに、どうして『風止まり』なんて名前なんだろう?)


僕はそんな軽い疑問を抱きながら、街に足を踏み入れた。久しぶりの街で少し身構えたが、激しい声は僕の耳に届かなかった。道行く人々は、僕のような旅人を珍しそうに見るでもなく、ただ無関心に通り過ぎていく。その目に宿るのは、諦めにも似た静かな光だった。


情報収集のために立ち寄った冒険者ギルドは、埃と古い酒の匂いがした。中にいた数人の冒険者たちは、僕が入ってきても一瞥もくれない。受付に座っていた若い男は、僕が声をかけると、面倒くさそうに顔を上げた。


「あの、この先にある『嘆きの荒野』について、少し情報を…」


僕がそう切り出すと、男の目に「またか」といううんざりした色が浮かんだ。彼は溜息を一つついて、体を椅子に預ける。


「…あんた、まさかあそこを抜けるつもりか? 最終的な目的地はどこなんだ」

「『霧降りの谷』です」

沈黙の僧院はあまり知られていないようなので、その途中にある『霧降の谷』を目的にしていると答えた。


「ああ、それなら南の交易路を行くのが普通だ。三週間ほどかかるが、一番安全な道だ。わざわざ墓場を近道にしようなんて、命知らずか、よほどの馬鹿だけだ」

男の言葉は刺々しかった。僕の決意が揺らぐのを感じる。


「墓場…ですか?」

「ああ。草木一本生えなきゃ、獣の一匹、虫の一匹すらいない。ただの岩と砂の世界だ。水も食料も、サバイバルごっこの技術も、何の役にも立たない。それに…」

男は声を潜め、忌まわしそうに続けた。

「運悪く迷い込んだ連中が言うには、亡霊の嘆き声が聞こえてきて、正気を保てなくなるそうだ。仲間同士で殺し合いを始めた連中もいると聞く」


仲間同士で…。

僕はごくりと唾を飲み込んだ。僕の不安が、恐怖に近い感情に変わっていく。

僕の場合はコダマと殺し合うのだろうか? コダマは変形して秘密兵器を出してくるのだろうか?

僕は前世の空想の話に出てくる人型兵器を思い出した。それがあまりにもこの現実から離れていたせいか少し恐怖が和らいだ。


ギルドを出た僕は、その近くにあった宿に入った。宿の主人は、僕の顔をいぶかしげに見つめていたが、何も言わずに部屋の鍵を渡してくれた。


その夜、階下の食堂で食事をしていると、主人が静かに話しかけてきた。

「兄ちゃん、もしかして荒野へ行くのかい?」


僕が頷くと、主人は「そうかい」とだけ言って、僕が抱いていた疑問に答えてくれた。


「この街まで街道を吹いてきた風も、あの荒野には入っていかないんだ。この街を境にぴたりと風が止んでしまう。だから『風止まりの街』ってわけさ。

……ギルドの連中は亡霊だと言うが、わしはそうは思わん。荒野はな、化け物が出るんじゃない。自分の心に棲む化け物に、出会っちまう場所なんだと、わしの爺さんが言っていた」


その夜、宿の一室で、僕は集めた情報を反芻していた。

生物のいない死の大地。

仲間さえ狂わせる亡霊の嘆き声。

そして、自分の心に棲む化け物。

どれもが、僕の決意を鈍らせるには十分だった。僕はベッドの脇の机にコダマを座らせ、ランタンの灯りの下で話しかける。


「…ギルドの人が言った通り、南の交易路を行くのが、賢い選択なんだろうね。安全で、確実な道だ。でも、僕には選べないんだ」

僕は自分の胸の内を、静かに言葉にする。

「あの道は、人の道だ。たくさんの人が行き交い、たくさんの声が聞こえる。今の僕には、それが少し、怖いんだ。…アルメは、温かい場所だった。リラもミーナも、僕にたくさんのものをくれた。僕の心は、今、もらったものでいっぱいなんだ。でも、まだ僕のものじゃない。たくさんの声が混ざり合って、どれが僕の声なのか、分からなくなりそうになる」


僕は一度言葉を切り、窓の外に広がる闇を見つめた。

「だから、静かな場所に行きたいんだ。誰の声も聞こえない場所で、アルメでもらった温かいものを、一つ一つ、ゆっくり自分のものにしたいんだ。交易路の喧騒の中じゃ、きっと全部こぼれ落ちてしまうから。…それに、聞こえるだろう? あの荒野の方角から、僕にしか聞こえない、奇妙な『沈黙』の声が」


そう、風が止まるということは、「風の声」が届かないということ。そこは、僕にとって本当の意味での静寂が待つ場所なのだ。


「だから僕は荒野を渡るよ。

……コダマ、僕らは殺し合わないようにしような」


コダマは僕の話をじっと聞いていたが、やがて、僕の指先にそっとその小さな手を重ねた。こくりと頷いたように見えた。


翌日、僕たちは街で水と干し肉を買い込み、旅の準備を整えた。

宿で早めに夕食を食べて、部屋の粗末なベッドに入る。嘆きの荒野に踏み入れるのは、明日の朝。僕は静かな覚悟と共に、宿のベッドで目を閉じた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る