第18話 風鳴りの洞窟

川辺での休日のおかげで、僕の心は驚くほど軽くなっていた。地道な依頼を重ね、財布はついに目標金額まであと一歩というところまで膨らんでいた。

「カイさん、おはよう! 今日はいい顔してるね!」

食堂に降りると、ミーナが笑顔で迎えてくれた。

「ああ。君のハーブティーが効いたのかもしれないな」

僕は逸る気持ちを抑え、まずはリラとの待ち合わせ場所である広場へと向かった。


「カイ、お待たせ!」

リラは僕の顔を見るなり、にっと笑った。

「なんだか、そわそわしてるわね。何かいいことでもあった?」

「ああ。これから親方のところに、心臓石の代金のことで話をしに行くんだ。もうすぐ、用意できそうなんだ」

(……と言っても、この街に来てから稼いだ銀貨を全部差し出すことになるんだけどな。まあ、空っぽの財布は旅人の勲章みたいなものか)

「本当!? よかったじゃない!」

リラは自分のことのように喜んでくれた。

「その時は私も連れて行ってね。師匠の最後の作品が目覚める瞬間、見逃すわけにはいかないもの」


二人でヘーフェン工房を訪れると、親方は僕たちの顔を見て、申し訳なさそうに眉を下げた。

「すまない、カイ君。わしの見通しが甘かった」


親方のその一言で、僕の銀貨たちが一斉に非難の声をあげた気がした。

親方は、僕がこの街に来てからずっと、つてを辿って心臓石の素材となる『共鳴鉱石』を探してくれていたらしい。

「君が代金を持ってきてくれれば、すぐにでも用意できると約束したが……。昔は稀に市場にも出ておったんじゃが、今は全くじゃ。どうしても手に入らん」


彼は、その鉱石が採れる近辺で唯一の場所について語り始めた。『風鳴りの洞窟』。そこは、洞窟内に無数に突き出した水晶に風が吹き抜けることで、常に強烈な不協和音が鳴り響いている場所だという。


「若い頃、一度だけギルドに依頼を出したが、屈強な冒険者たちですら、その音に惑わされて精神に異常をきたしたのか、誰一人として戻ってこなかった。それ以来、あの洞窟は禁足地になっておる」


親方は僕の目を真っ直ぐに見つめた。

「じゃが、君ならあるいは……。君のその不思議な耳なら、あの音の正体を見極められるかもしれん。どうか、この鉱石を取ってきてはくれまいか。報酬は、心臓石の残りの代金とさせてもらう」


「待ってください、親方!」

リラが僕の前に立つようにして、反対の声を上げた。

「危険すぎるわ! ギルドの屈強な冒険者ですら戻らなかった場所に、カイを行かせるなんて!」


「リラ、気持ちは分かる。じゃが、彼らの強さこそが、あの洞窟では弱点になったのやもしれん。彼らは音と戦おうとした。じゃが、カイ君は違う。彼は音を聞く者じゃ」

「それでも!」

リラは僕に向き直った。

「カイ、ダメよ! あなたが音の多い場所を苦手にしてるの、私は知ってる。あんな場所に行ったら、あなただって……!」

彼女の目には、本気の心配の色が浮かんでいた。


なんだかリラって、僕の保護者みたいだな。お母さんとか言うとどんな顔するだろう? 言わないよ。言うとしてもお姉ちゃんくらいで……それでも怒るかも知れないけど。


「リラ、心配してくれてありがとう」

僕は彼女に、できるだけ穏やかに語りかけた。

「でも、行かせてほしい。これは、ただの素材探しの依頼じゃないんだ。僕にとって、これは……試験みたいなものなんだ」


「試験?」


「ああ。その洞窟の不協和音を制御できないようなら、僕は一生、この呪いから逃げられない気がする。自分の力がどこまで通用するのか、確かめなきゃならないんだ」


リラは僕たちの顔を交互に見比べると、悔しそうに唇を噛み、そして小さく息を吐いた。

「……分かったわ。でも、無茶だけはしないで。絶対に」


「……やらせてください」

僕は親方に向かって、深く頷いた。


宿に戻った僕は、旅の準備を始めた。水と食料、ロープ、そして松明。僕はテーブルの上に、工房で手に入れた『調律石』と、詩人から譲り受けた羊皮紙の巻物を並べる。そして、鞄の奥で眠る相棒に語りかけた。


「なあ、相棒。君の心臓を取りに行く。なんでも、すごく歌の上手な石が住んでるらしい。ちょっと挨拶して、うちに来てもらおう。大丈夫。今の僕なら、きっとやれる」

僕は懐に『調律石』をしまい、詩を暗唱しながら、静かに覚悟を決めた。


洞窟の入り口は、山の裂け目にぽっかりと空いた黒い口のようだった。


僕が洞窟に足を踏み入れた瞬間、世界は音の洪水に呑まれた。

キィィン、というガラスを引っ掻くような高音。

ゴォォン、という腹の底に響く重低音。


それは、僕がこれまで経験したどの奔流よりも悪質で、魂に直接干渉してくる音の嵐だった。


その不協和音は、すぐに僕の最も触れられたくない記憶の形を取り始める。


《化け物》

《お前のせいだ》


(僕の記憶から、わざわざ一番古い悪口を引っ張り出してくるとは。ご苦労なことだ)

違う、と首を振っても、囁きは嘲笑うように続く。


《お前はいつも一人だ》

《誰も、お前を助けはしない》


(一人だけど、鞄の中には相棒がいる。それに、助けてくれる友達も街にいる。残念だったな、君たちの情報は少し古い)


一瞬、僕も他の冒険者と同じように、その音の暴力に意識を捕らわれ、同調してしまいそうになる。

だが、僕はこれまで、この見えない敵とずっと戦ってきた。戦いに慣れているし、引き際もわかるから帰れなくなることはなさそうだ。それに今の僕には武器もある。


(錆びた太陽は、平行なる後悔の収束点なり……)

心の中で詩を唱え、思考の盾で悪意ある囁きを弾く。


そして、懐の『調律石』を強く握りしめる。

石が持つ静かな響きが、嵐の中で自分を見失わないための錨となった。


この洞窟は、僕の呪いへの対処能力を試すための、最終試験の場所だ。


僕は、偽りの音の壁を一つずつ聞き分け、遠ざけていく。消耗は激しいが、奥へ進むほど、求める音は鮮明になっていった。

それは風の『声』でも、道の『声』でもない、言葉にはならない音だった。その音に意識を集中すると元気が出てくるような気がした。


どれくらい歩いただろうか。洞窟の奥深く、音の嵐の中心に、僕はそれを見つけた。

他の全ての不協和音を貫いて、静かに、しかし力強く歌い続ける、一筋の光のような調和の音。

音のする岩壁を掘ると、掌サイズの、内側から淡い光を放つ美しい鉱石『共鳴鉱石』が現れた。


僕はそれを強く握りしめた。


(やったんだ。僕にも、できたんだ)


僕は鉱石を慎重に懐へしまうと、足早に出口へと向かった。

やがて、洞窟の出口から光が差し込んできた。僕は最後の力を振り絞り、外の世界へと転がり出る。


途端に、音が消えた。

静寂が、僕の体を包み込む。僕は、芝生の上に大の字に寝転がり、空を見上げた。

そして、こらえきれずに笑い声が漏れた。


僕は鞄から相棒を取り出し、隣に置いた。

「やったぞ、相棒」

僕は『共鳴鉱石』を彼に見せながら言った。

「手に入れた。君の心臓だ。どうだ、きれいな音だろう? 君にぴったりの歌声だ」

おそらく他の人には聴こえないであろう、調和の音をその鉱石は奏でていた。


僕は、心身ともに消耗しきりながらも、共鳴鉱石を手に、工房へと帰還した。

親方は僕が持ち帰った鉱石を見て、驚嘆の声を上げた。


「おお……! よくぞ……!」

彼は、心臓石の完成を固く約束してくれた。


僕は、ただ素材を手に入れただけではなかった。

最も過酷な環境下で自らの能力を制御しきったことで、呪いを克服するための、大きな自信と成長を手にしていた。

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