第17話 静かな声だけを聞く日
ギルドでの依頼をこなし、街での生活にも慣れてきたように見えたが、僕の精神は静かに摩耗していた。
ある朝、僕は悪夢ではない、しかし深い疲労感と共に目を覚ます。窓の外から聞こえてくる街のざわめきが、いつもより大きく、棘のように耳に突き刺さる。
思考の盾である詩『第七公理・影の方程式』を心の中で唱えても、言葉は空滑りし、懐に入れた『調律石』に意識を集中させようとしても、その行為自体が億劫に感じられた。
まいったな。今日は精神的に調子が悪いみたいだ。最近頑張り過ぎたかな。心の過労死も近いな。いや、それは言い過ぎ。心の二日酔いみたいな感じか……
いずれにしろ、休んだほうが良いな。少しは余裕ももできたし、休んだからって僕を怒る上司もいないしね。
食堂に降りると、ミーナが「おはよう、カイさん!」と元気な声をかけるが、その声すらも頭に響く。僕は無理に笑顔を作った。
「おはよう、ミーナ。今日は……ギルドの仕事は休むよ」
「どうしたの? 顔色が悪いよ」
「ああ、少し疲れただけだよ。今日は一日、人のいない場所で静かに過ごそうと思う」
僕の様子に、ミーナは何かを察したようだった。彼女は何も聞かずに、カウンターの奥から小さな水筒を持ってきた。
「これ、お母さんが作ったハーブティー。飲むと、心が落ち着くんだよ。持っていって」
「……ありがとう」
その優しさが、ささくれだった心に沁みた。
僕は簡単な昼食を鞄に詰め、ミーナに「夕方までには戻る」とだけ告げて宿を出た。
街の門を抜けると、背後で喧騒が少しずつ遠ざかっていく。石畳の道が土の道に変わり、足元から聞こえる声も、無数の人々の記憶が重なった不協和音から、農夫の荷馬車や子供の駆け足といった、素朴な独り言へと変わっていった。
僕はひたすら川の上流を目指して歩く。街の匂いが消え、風が運んでくる声が、草の匂いや水の音だけになった頃、頭の中を掻き乱していたノイズが、ようやく潮が引くように消えていくのを感じた。
やがて、僕は川の流れが穏やかで、陽光が降り注ぐ静かな場所を見つけた。岸辺には、人が一人寝転がれるくらいの、大きく平たい岩が突き出している。そこでは、風や道の『声』が穏やかな囁きにしか聴こえなかった。
僕はその岩の上に腰を下ろし、鞄からゴーレムと『調律石』を取り出して隣に置く。そして、ただ、流れる川の音に耳を澄ませた。水の音、遠くで鳴く鳥の声、葉の擦れる音。それ以外の、余計な声は何も聞こえない。
ふと、心地よい風が僕の頬を撫でた。いつもなら、僕は無意識にその風に『耳をあわせ』、どこから来たのか、どんな噂を運んでいるのかを探ってしまう。でも、今日は違った。僕は目を閉じ、ただその感触を味わった。肌を通り過ぎる、涼やかで優しい流れ。
(そうか……忘れてたな。風は、声を聞くものじゃなく、肌で感じるものだったよ)
「なあ、相棒」と、僕はゴーレムに語りかける。
「いつもは、声の中から何かを探そうと必死だった。でも、今日は……ただ、聞き流すだけでいいみたいだ」
風の『声』は聴こえていたが、意識して耳を合わせる事なく、ただそのトーンを聞き流した。僕は初めて、能力を情報収集の道具としてではなく、ただ世界と繋がるための感覚として受け入れていた。自分の精神が、ゆっくりと元の場所に調律されていくのを感じていた。
昼時になり、僕は岩の上で簡単な昼食を広げた。硬いパンを水に浸し、干し肉をかじる。そんな時だった。
「カイ? どうしたの、こんなところで」
声のした方を見ると、リラが少し驚いた顔で立っていた。彼女は工房で使う特殊な粘土を探しに来たのだという。
「なんだか、いつもより顔つきがいいわね。街にいる時より、ずっと穏やかだわ」
リラは僕の事情を深くは聞かず、隣に腰を下ろした。そして、工房での試行錯誤や、新しい機械の設計について楽しそうに語り始めた。彼女が話す、形あるものを生み出す世界の物語は、形のない声に苛まれる僕の心を、不思議と落ち着かせた。
翌日、工房に付き合ってもらう約束をしてリラと別れ、夕暮れと共に宿に戻ると、ミーナが笑顔で迎えてくれた。
「おかえりなさい!」
僕の顔色が朝とは違ったのだろう、彼女も安心したような表情をしていた。
その夜、部屋でゴーレムと『調律石』を並べた僕は、相棒に語りかける。
「なあ、相棒。ただ耳を閉ざすだけじゃダメなんだな。時には、ああして何もない場所で、静かな声だけを聞く日も必要なのかもしれない」
僕は、自分の呪いと付き合っていくための新しい方法――ただ防御するだけでなく、積極的に心を休ませることの重要性――を学んだ。そして、明日からまた頑張ろうと、新たな決意を胸に、穏やかな眠りにつくのだった。
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