第15話 調律の石
豚の追跡劇から数週間が経った。
僕はギルドで、猫探しや薬草採集といった、人との接触が少ない依頼を地道にこなし、少しずつ銀貨を稼いでいた。テーブルの上に置いたゴーレムの隣に、稼いだ銀貨を一枚、また一枚と並べていくのが、最近のささやかな楽しみだ。
(うん、だいぶ貯まってきた。この調子なら、いつか硬いパン以外のものだけで旅ができる日が来るかもしれない)
その日も、僕は次の依頼を探してギルドの掲示板を眺めていた。最近はどの時間が冒険者が少ないのかわかってきたので、その時間に依頼を探すようにしている。それに詩の暗唱で、精神を保つコツもわかってきたようで、この依頼探しの時間もそれほどつらいものではなくなってきていた。
「カイ、頑張ってるじゃない」
聞き覚えのある声に振り返ると、リラが腕を組んで立っていた。工房での作業着姿ではなく、街歩き用の軽やかな服装だ。
「リラ。工房の方はどうだい?」
「まあまあね。それより、あなた。すっかりこの街に馴染んだみたいじゃない。よかったわ」
彼女は、僕がこの街に留まっていることを、心から喜んでくれているようだった。
「ちょうどお昼だし、どう? 私がおごるわよ。この前の豚さん騒動の武勇伝、詳しく聞かせなさいよ」
(有名なのか…… 豚と一緒に泥だらけで歩いてたからなあ……)
僕たちは、川沿いにある食堂のテラス席に座っていた。
僕が泥だらけの追跡劇について話すと、リラは腹を抱えて笑った。
「あなた、冒険者っていうより、動物の世話係の方が向いているんじゃない?」と、からかうように言う。彼女の快活な笑い声が心地よい。
一通り笑い終えた後、リラはふと、真剣な顔つきになった。
「……実は、カイに相談があるの」
彼女が修行している工房には、水の力で極細の銀糸を織り上げる、国宝級の精密な織機があるらしい。しかし、数日前から原因不明の不調で、すぐに糸が切れてしまうのだという。
「師匠や他の職人たちがいくら調べても、機械的な故障は見当たらないの。油を差し直しても、歯車の噛み合わせを見ても、全部完璧。なのに、動かすと糸が切れる。まるで、機械が癇癪を起こしているみたいで……。ねえ、カイ。あなたの不思議な耳なら、何か聞こえないかしら?」
僕は、これまでの礼として、無償で協力することを約束した。
僕たちが訪れた工房は、水の音と、職人たちの静かな熱気に満ちていた。問題の織機は、工房の中央に鎮座していた。水路から引き込まれた水が、無数の複雑な歯車を静かに、滑らかに回している。
リラが織機を動かすと、確かに、数回機を織っただけで、ぷつり、と繊細な銀糸が切れた。
僕は織機に近づき、そっと手を触れる。機械そのものからは、ただ正常に動こうとする健気な音しか聞こえない。だが、その土台となっている石の床から、絶え間ない苦痛のような『声』が響いてくるのを感じた。
僕は床に膝をつき、石畳に手のひらを当てた。『道の声』に耳をあわせるように、その床の記憶を探る。工房の職人たちの規則正しい足音、工具の音、水の流れる音……その膨大な記憶の中から、異質な音を探す。
(……あった。数日前だろう、職人が誤って重い鉄槌を落とした音。そして何かに日々が入ったような小さな音)
「リラ。この床の下に、何かあるんじゃないか?」
僕の指摘で、リラと工房の職人たちが床の石板を剥がすと、その下には機械の振動を吸収するための、黒く滑らかな石が埋め込まれていた。
「これは……『調律石』!」リラが声を上げる。
そして、その石の中央には、肉眼ではほとんど見えないほどの、髪の毛のような亀裂が一本、走っていた。
「そうか……この傷が、織機の微細な振動を吸収しきれず、『不調和』として増幅させていたんだわ……!」
リラは、僕の能力に改めて驚嘆の目を向けた。僕自身もまた、自分の力が、ただ過去の出来事を見るだけでなく、物事の『不調和』そのものを見つけ出すことにも使えるのだと、新たな発見をしていた。
工房の主人は、原因を突き止めた僕に深く感謝してくれた。彼は、ひび割れてしまった古い『調律石』を僕に差し出した。
「もう使い物にはならんが、君には何か価値があるのかもしらん。持っていくといい」
僕がその石を手に取ると、不思議なことが起きた。工房内の様々な音や、職人たちの集中した意識が発するノイズが、すっと和らぐのを感じたのだ。ひび割れていてもなお、この石が持つ揺るぎない安定した響きが、僕の乱れた感覚にとっての錨になり、混沌とした声の奔流の中に、一本の静かな芯を通してくれる。
工房からの帰り道、リラが感心したように言った。
「それにしても、驚いたわ。床下の石の、あんな小さな傷まで分かるなんて。一体どうなってるの、あなたの耳は」
「耳というか……感覚、かな。鐘にほんの少しひびが入っていると、音色が濁って聞こえるだろ? そんな感じだ。あの床から、ずっと《痛い》って聴こえてた」
「音色の濁り……」
リラは腕を組んで、何かを考えるように頷いた。
「分かる気がするわ。私も、機械の調子が悪い時は、歯車の音がほんの少しだけ重く聞こえたりする。それをもっと、ずっと鋭くした感じなのね」
彼女が僕の能力を、彼女自身の感覚で理解しようとしてくれているのが、なんだか嬉しかった。
「その石、本当に持ってきたのね」
リラが僕の手にしている調律石を見て言う。
「ああ。なんだか、気持ちが楽になる気がするんだ」
「師匠は使い物にならないって言ってたけど……『調律石』は、それ自体がすごく安定した構造を持ってるの。だから、周りの余計な振動を吸い取ってくれる。カイが持っていると心が静かになるっていうのも、気のせいじゃないのかもしれないわね」
「そうなのか……」
「ええ。まあ、お守りみたいなものね」
リラはそう言って笑った。
宿への分かれ道で、僕たちは足を止めた。
「今日は本当に助かったわ、カイ。ありがとう」
「こちらこそ。面白いものをもらった」
リラがふと思い出したように尋ねる。
「そういえば、カイ。例の心臓石の資金、どのくらいたまったの?」
「ああ……おかげさまで、どうにか半分くらいは」
僕が答えると、リラは目を丸くした。
「半分! すごいじゃない! この調子なら、案外早いかもね」
「また何かあったら、僕にできることなら、相談に乗るよ」
僕がそう言うと、リラは満足そうに頷いて、工房の方へと帰っていった。
宿に戻った僕は、手に入れた石と、相棒のゴーレムをテーブルに並べて見つめた。
「なあ、相棒。この調律石、君の心臓にはなれないけど、なんだか……僕の心を、少しだけ静かにしてくれるみたいだ。僕にとっての、心臓石みたいなものかもしれないな」
僕は、予期せぬ宝物と、リラとの深まった絆を手に、この街での生活に、また一つ確かな手応えを感じていた。
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