第12話 第七公理、影の方程式

水の都アルメでお金を稼ぐと決めた翌朝、僕はいつもより早く目を覚ました。窓の外はまだ薄暗い。テーブルの上の相棒に朝日が当たるには、もう少し時間がありそうだ。

(決めたんだ。相棒の心臓石のために、この街で、稼ぐ)



そう決意したのはいいが、そのためには街に出て、人と関わらなければならない。冒険者ギルドなんて、考えただけで頭の芯が重くなる。

(……その前に、一つ準備をしておこう)

僕は、祈祷師エララに教わった対症療法を思い出した。

――意味のない詩を頭の中で繰り返し唱え、他の声が入る隙をなくす――


思考の盾だ。


意味のない詩、か。昨日の詩人たちの叫びは、意味と感情で溢れ返っていた。でも、あれだけ言葉を操る人たちなら、そういうものも作れるかもしれないよね。


問題は、どう頼むかだ。

(「すみません、魂のこもってない、無味乾燥な詩をくれませんか?」……失礼にもほどがあるな)

僕は鞄の中にいる相棒に視線を落とす。

「なあ、相棒。どう言えば角が立たないと思う? 

心を落ち着けるために、複雑で、難解な詩が欲しいとか……そんな感じかな」


僕は身支度を整えると、まだ人通りの少ない街を抜け、昨日訪れた柳の小道へと向かった。

蔦の絡まる古い集会所の扉は、幸いにも少しだけ開いていた。中を覗くと、いたのは一人だけ。昨日、僕を「魂の同志」と呼んだ、リーダーらしき男が、一人で静かに床を掃いていた。


僕の気配に気づいた彼が、顔を上げる。

「おお、沈黙の詩人殿! どうかされたかな、こんな朝早くに」


沈黙の詩人? 僕にはそんな二つ名がついているの? 短かったから? 雑談しなかったから?


「……昨日は、どうも」

僕は少し気まずさを感じながら、頭を下げた。

「実は、一つお願いがあって来ました」

「ほう?」

「僕は、時々……心が騒いで、集中できなくなることがあるんです。そんな時、複雑で、緻密に構成された詩を心の中でなぞることが、一番の薬になると気づきました」

僕は慎重に、言葉を選ぶ。

「もし、よろしければ……あなたの詩の中で、最も構造的で、感情よりも言葉の構成美が際立つような……そんな作品を、譲ってはいただけないでしょうか」


僕の言葉に、男の目が輝いた。

「……分かるかね、君! 

詩とは魂の爆発であると同時に、冷徹な論理の結晶でもあるのだ! 君が求めるのは、情熱の炎ではなく、思考の涼やかさなのだな! なんという慧眼!」

彼は興奮した様子で、奥の棚から一本の羊皮紙の巻物を取り出してきた。

「これこそ、我がライフワーク! 思考の骨格を組み上げるための叙事詩、『影の方程式』だ。第七公理だけでも持っていくといい!」



彼が朗々と詠み上げる。


「『第七公理、影の方程式』


錆びた太陽は、平行なる後悔の収束点なり。

水銀を呑む鏡は、忘れられし渇きを映し、

塩の第七角は、沈黙の鐘を裏切る。

色のこだまは、砕け散る硝子の上にて血を流し、

故に、影の方程式は、骨の鍵もて解かれるべし。」


(……すごい。何を言っているのか、さっぱり分からない)


それは、僕が求めていたもの、そのものだった。感情が揺れるどころか、意味を理解しようとするだけで思考が占有される。

「ありがとうございます。これがあれば、きっと……」

「うむ。魂の錨とするがよい」

僕は羊皮紙の写しを丁重に受け取ると、何度も頭を下げて、集会所を後にした。これで、街の喧騒と戦うための盾が一つ、手に入った。


リラとの待ち合わせ場所である広場に向かう。日が昇るにつれて人通りが増え、様々な声が僕の耳に流れ込み始めた。僕は心の中で、手に入れたばかりの詩を唱える。

(錆びた太陽は、平行なる後悔の収束点なり……)

言葉の意味を追うことに意識を集中させると、周囲のノイズが少しだけ遠ざかる気がした。


「カイ、お待たせ!」

リラは僕の顔を見るなり、少し眉をひそめた。

「顔色が悪いわよ。大丈夫?」

「ああ、少し考えごとをしていただけだ」

「そう? ならいいけど……。ギルドはここからすぐだけど、中は結構うるさいわよ。無理しないでね」

彼女の気遣いが、少しだけ僕の心を温かくした。


冒険者ギルドの扉を開けた瞬間、覚悟はしていたものの、強烈な感情の奔流が僕を襲った。

酒を酌み交わす傭兵たちの蛮勇と自慢話。依頼の成否に一喜一憂する商人たちの計算高い囁き。初めての依頼に胸を躍らせる新人の不安と期待。それらが混ざり合い、巨大な不協和音となって僕を揺さぶる。

(まずい……!)

強烈な耳鳴りと眩暈。僕は思わず壁に手をついた。

(……錆びた太陽は、平行なる後悔の収束点なり……水銀を呑む鏡は……)

心の中で必死に詩を唱える。リラが僕の腕を支えてくれた。


「やっぱり、ダメそうね。カザマチでも思ったけど、本当に人の多いところが苦手なのね。こっち、少しは静かな隅っこへ」

彼女に導かれ、僕はかろうじて人の少ない掲示板の反対側までたどり着いた。


「さて、と。登録しなくちゃね」

リラに支えられながら、僕は受付カウンターへ向かった。受付嬢から特技を尋ねられ、言葉に詰まる。自分の能力を、どう説明すればいいのか。リラが助け舟を出してくれた。

「この人、すごい方向感覚の持ち主で、探し物が得意なのよ。


カザマチで、崖の上の導風壁の歪みを風の音だけで見つけてくれたくらい」


僕もそれに頷く。

「……失くしたものを見つけるのは、少しだけ得意です」


半信半疑の受付嬢だったが、登録は無事に完了し、僕は一枚の真新しいギルドカードを手にした。


リラと共に依頼掲示板を見る。

掲示板に貼られた無数の依頼書から、人々の切実な願いや欲望がノイズのように響いてくる。ズキリ、とこめかみが痛んだ。僕は思わず指でそこを強く押さえ、心の中で繰り返す。

(大丈夫、これは仕事なんだ。そう割り切ればいい。深く関わりすぎないように……。目的を果たしたら、すぐに離れよう。今までだって、そうしてきたじゃないか)


魔物討伐や護衛といった荒事の依頼書を避け、僕の目は、街の隅に貼られた一枚の古びた依頼書に引き寄せられた。

依頼主は、引退した宝石職人の老人。依頼内容は、亡き妻の形見である『月長石(げっちょうせき)の髪飾り』を探してほしい、というもの。孫娘に譲る約束をしていたが、一月ほど前に、街のどこかで落としてしまったらしい。報酬は決して高くないが、今の僕にとっては十分な額だった。

「これにする」

僕が言うと、リラも頷いた。

「あなたらしい依頼ね」


依頼書を手に宿に戻ると、ミーナがカウンターから駆け寄ってきた。

「おかえりなさい、カイさん!」

「ただいま、ミーナ。お父さんに伝えてもらえるかな。部屋を、一週間借りたい」

「一週間も!?」

ミーナは目を丸くした。

「どこか悪いの?」

「いや、逆だよ。少し、この街で仕事をしてみようと思ってね。冒険者ギルドに登録してきたんだ」

僕がそう言うと、ミーナはぱっと顔を輝かせた。

「冒険者になったの!? すごい!」

その無邪気な尊敬の眼差しに、僕は少し気恥ずかしくも、背筋が伸びる思いがした。


部屋に戻り、テーブルの上に動かない相棒とギルドカード、そして依頼書を並べる。

(この依頼をこなして、少しずつでも金を稼ぐ。君の心臓石のために)

「なあ、相棒。僕たちの最初の仕事だ。人探しじゃない、物探し。これなら、きっとうまくやれるはずだ」

僕は、明日から始まる初めての仕事に向けて、静かに決意を固めた。


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