第2話 静けさの中のノイズ
夜。
寝る前の決まった動作のように、一樹は枕元のスマホを開いた。
お気に入りの再生リストの中で、半年ほど触れていない曲がひとつを除いてすべて灰色になったままだ。
指が自然に、その曲へ伸びる。
ショパン《別れの曲》。
沙織が中学校の音楽室で録音したもの。
遠くの笑い声。
椅子のきしみ。
廊下を駆ける靴音。
そうした雑音が、かえって“そこにいた彼女”の時間を鮮やかによみがえらせた。
息を吸う気配。
鍵盤に触れた指先の、ごくわずかな震え。
そのすべてが録音の中で生きている。
失われた日々の、最後の灯のようだった。
曲が終盤へ向かうころ、
胸の奥に温かさとも痛みともつかないものが静かに広がる。
最後のフレーズがほどける瞬間、
いつも一音だけが思い出せない。
そこだけが、空白になる。
一樹の意識は、その空白へ沈んでいくように眠りへ落ちた。
*
朝。
スマホに見慣れない表示が残っていた。
「アラーム設定:2:42」
「……え?」
声に出た。
寝ぼけて触れたのだろうか。
理由ならいくらでもつけられる。
削除しながら、胸の奥に小さな冷たい波紋が広がった。
リビングへ向かう途中、壁の時計を見る。
針は昨日と同じ位置を指していた。
2時42分。
ただの故障のはずなのに、
なぜか今日は輪郭がはっきり見える。
*
コーヒーの袋を手に取った瞬間、
わずかな軽さに指が止まった。
(こんなに減ってたっけ……?)
最後に淹れた日が曖昧だ。
こういう細かい記憶は、最近しばしば抜け落ちる。
スプーンを袋に差し込む。
底に、小さく固まった粉がひとかたまり残っていた。
湿気ではない。
袋の端に粉が寄るのはよくあることだ。
ただ、その跡を見覚えている記憶だけが抜け落ちていた。
お湯を注ぐと、ふわりと香りが立つ。
だが——
いつもより、わずかに薄い。
(寝起きだから……)
そう思うようにして、もう少しお湯を落とす。
マグカップに注ぐと、香りがどこかかすんでいるように思えた。
口に含んでも、その淡さは変わらない。
テーブルに置いたとき、
マグカップのそばに黒い粉がひと粒落ちているのが見えた。
自分がこぼしたのだろう。
そう決めて指で払う。
だが一樹は、その指先をしばらく見つめていた。
「……寝不足だな」
小さくつぶやいた声が、静かな部屋に吸い込まれた。
*
仕事用のモニターを立ち上げる。
タスク管理ツールの数字が目に入った。
「残り作業時間:42分」
一樹は一瞬だけ視線を止めた。
だが、すぐに目をそらす。
(数字なんて、いくらでも重なる)
そう自分に言い聞かせるように息を吐き、作業を始めた。
キーボードの打鍵音だけが、部屋の静けさの中でかすかに響いた。
*
夕方、シャワーを準備しようと給湯器を見ると、
表示が**42℃**になっていた。
「……あれ、俺……?」
押し間違えか。
そう考えれば十分だった。
温度を下げようとボタンを押す。
短い電子音のあと、少し遅れて数字が「40℃」へ戻る。
壊れているわけではない。
ただ“癖のある機械”なだけだ。
*
シャワーを終え、髪を拭きながらリビングに戻る。
部屋は静まり返り、空気が動く気配すらない。
テーブルの前で、一樹の足が止まった。
朝置いたはずのマグカップが、
ほんの数センチだけ位置を変えていた。
(……動かしたっけ?)
曖昧な記憶を探るが、手応えはない。
沙織は、こういう小さな乱れをよく整えていた。
その気配を思い出すと、胸の奥がかすかに揺れた。
マグカップの下には、
小さな水滴の輪が、ぼんやりと残っている。
一樹はしばらく動けなかった。
壁の時計が止まったまま静かに佇むように、
ただ、その場に立ち尽くした。
その静けさの奥で、
何かが“ほんのわずかにずれた”気配だけが漂っていた。
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