第3話 朝のずれ
週に一度だけある出社日だった。
在宅勤務に慣れすぎたせいか、朝の支度はいつもより少しだけぎこちない。
シャツのボタンをかけ違え、ネクタイの結び目がなかなか決まらない。
鏡を前にため息をつき、一樹はようやく形になった結び目を軽く引き締めた。
リビングに戻り、テーブルに視線を走らせる。
昨夜のうちに用意したノートPC、名札、定期入れ。
そこにあるはずのものは確かに揃っている。
ただ、ひとつだけ違和感があった。
テーブルの端に置いたはずのマグカップが、
気づけば中央に寄っていた。
(……俺が動かしたか?)
記憶をたぐろうとした瞬間、思い出の輪郭がふっと曖昧になる。
寝ぼけて片づけたのかもしれない。
その程度のはずなのに、胸の奥にざらりとした感触が残った。
マグカップを流しへ運び、軽くゆすぐ。
底から落ちる水滴の音が、静かな部屋に大きく響く。
時計を見れば、家を出るにはまだ少し早い。
玄関で靴を履き、コートの襟を整えたところで、
スマホがふと気になり、ポケットから取り出す。
画面に表示された時刻は、
7:42。
「……もう、いやになるな」
小さく漏れた声が、玄関の空気に沈む。
(よりによって、四十二かよ)
ただの数字だ。
本来ならそこに意味などない。
それでも、胸の奥がわずかに冷たくなる。
時計、アラーム、給湯器の表示、タスク管理アプリ——
最近、理由もなく“42”を目にすることが続いていた。
「……気にしすぎだ」
無理にでもそう言って、スマホをしまう。
外に一歩踏み出すと、冷たい朝の空気が頬を撫でた。
鍵を閉めようとして、ふと手が止まる。
(閉めた……よな? さっき)
ドアに触れた記憶はある。
しかし鍵を回した“感触”が曖昧だった。
念のためもう一度家の中へ戻り、
チェーンと鍵を確かめる。
「……よし」
改めて鍵を回し、外へ出る。
ただの確認作業に五分ほどかかった。
だがその“五分”が、このあとの現実を大きくずらしていた。
通勤路はいつも通り静かだった。
植え込みを揺らす風の音だけが耳に入る。
ふと、鼻に微かな匂いが引っかかった。
(……鉄?)
金属がこすれたような、鉄錆の匂い。
胸がざわつき、一樹は歩幅を少し速めた。
曲がり角を抜けた瞬間、視界が止まった。
マンションのエントランス脇。
アスファルトの上に、黒い“塊”が横たわっていた。
近づくほど、それが人間の形だとわかる。
仰向けに倒れ、腕が不自然な角度に折れている。
頭の横のアスファルトには、乾きかけた暗い円が広がっていた。
(落ちた……?)
胸が縮み、呼吸が止まる。
倒れた男性の胸の上で、誰かが膝をついていた。
作業着の男だった。
くたびれたグレーの作業服に、深くかぶった帽子。
顔は完全に影に隠れている。
胸を押す腕だけが、淡々と動いている。
押し、戻し、押し、戻す——
そのリズムは、妙に無機質で、妙に正確だった。
息は乱れておらず、声も出ない。
まるで“仕事”のように、感情の欠片も感じられない動きだった。
(……何者だ、この人)
喉がひりつき、胸がざわざわと騒ぎ出す。
震える指でスマホを出し、119を押す。
「ひ、人が……倒れて……!
マンションから……落ちたみたいで……!」
自分の声とは思えないほど震えていた。
通話を終えた途端、マンションの階段を駆け下りる住人が現れ、
続いてサラリーマン、学生が足を止めた。
「落ちたの?」
「誰か知ってる?」
「やだ……血……」
瞬く間に小さな人だかりができる。
救急車のサイレンが近づき、救急隊が担架を抱えて走ってくる。
一樹が一瞬そちらへ視線を向け、
再び元の場所へ戻す。
(……いない)
作業着の男が、消えていた。
すぐ近くにいたはずなのに。
触れられる距離にいたはずなのに。
その姿は影ひとつ残さず消えていた。
人混みに紛れたのだ——
そう考えるべきなのに、胸のざわつきは止まらなかった。
救急隊は倒れた男性を担架に移し、救急車へ運び込む。
片方の靴がアスファルトに残されて転がり、かすかに揺れていた。
救急車が走り去り、
野次馬たちも散り始め、
静けさがゆっくり戻る。
エントランス前のアスファルトには、
乾いた血痕が薄く筋になって残っている。
そのすぐ横に、
泥のついたひとつの靴跡があった。
倒れた男性の靴とは違う。
救急隊の靴とも違う。
そこに“誰かが立っていた”という印だけが、
朝の光の中に取り残されていた。
(……もし五分早ければ……
この男は俺の“真上”から落ちてきて、俺はここにいなかった……?)
その想像が、
冷たい刃のように胸を刺した。
住宅街の朝に、
一樹の震える呼吸だけが静かに広がっていった。
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