第1話 止まった時間
朝の光は、いつもより少し白く見えた。
カーテンの隙間から細い線のように差し込む光が、
テーブルの端を淡く照らしている。
壁の時計は、今日も同じ場所で止まっていた。
二時四十二分。
妻が亡くなった日も、針はこの時刻で止まっていた。
偶然だと思っていた。
だが、電池を替えても、位置を直しても——
翌朝にはかならずここへ戻る。
一樹はその針をしばらく見つめ、それからゆっくりと立ち上がった。
今日は仕事が休みだ。
それなのに、身体はいつもの時間に目を覚ましてしまう。
生活のリズムは変わっても、心だけが立ち止まったままだ。
キッチンでやかんに水を入れ、スイッチを押す。
「カチ」という音が、静かすぎる部屋にやけに大きく響いた。
妻はいつもリビングで小さな音量の音楽を流していた。
中学校で生徒に教えるための曲。
自分で弾くピアノの録音。
ショパンの《別れの曲》の一部を繰り返し流しながら、譜面に書き込みをしていた。
そういう音が、ここから完全に消えて半年が経つ。
音がないというだけで、家はこんなにも違って見えるのか——
一樹は、いまだに驚くことがある。
湯が沸きはじめ、小さく鳴る。
その音に、涙腺の奥がわずかに反応した。
静寂はいつもそこにいて、
まるで “音の死骸” のように部屋の隅に沈んでいる。
コーヒーを淹れ、テーブルに置く。
水色のマグの底には、妻が書いた“Saori”の文字。
欠けた飲み口に親指をすべらせる。
半年経っても、これだけは捨てられない。
コーヒーをひと口飲む。
かつてはこの音に重なるように、
「おはよう」と妻の声が返ってきた。
今は、家電の作動音だけが返ってくる。
「……タバコ、吸うか」
独り言のように呟き、
ベランダの窓を開ける。
冷たい空気が頬に触れ、一瞬だけ目が覚めた。
結婚してからやめたタバコを、
また吸いはじめたのは妻を失った翌日のことだ。
一本取り出し、火をつける。
煙を吐き出すと、白い筋が静かに揺れながら風に消えていく。
手すりに置いた灰皿を見ると、吸殻が二本あった。
どちらも自分の銘柄。
昨夜、灰皿を掃除したような気がする。
……しなかったような気もする。
思い出そうとすると、
手を動かした“感触”だけが抜け落ちている。
最近、何をどうしたのか曖昧なことが増えた。
「……疲れてるんだな」
タバコを押しつけて火を消し、部屋に戻る。
コーヒーは少し冷めていたが、
微かな温度が喉を落ちていく。
少しでも“温度”のあるものに触れていたいと、
ふと思う。
テーブルの上には、昨日開いたままの新聞が置いてある。
指先が勝手にページをめくる。
そのとき、視界にひとつの数字が飛び込んできた。
“42”。
広告欄のキャンペーン番号。
昨日見たものと、まったく同じ。
一樹は、かすかに笑った。
笑ったというよりも、息が漏れただけのような笑い。
「偶然が続くと、偶然じゃなくなるのか……」
新聞を折り畳み、軽く投げるようにしてゴミ箱に入れようとした。
……が、入らなかった。
紙はふわりと宙を舞い、縁に当たり、
柔らかい音を立てて床に落ちた。
しばらく黙って見つめてから、
一樹はしゃがんでそれを拾い上げる。
今度はゆっくりと、
まるで何かを確かめるようにゴミ箱へ入れた。
底に沈む音が、静かに響く。
ただひとつ、
“42”という数字だけが内側に沈殿したまま、
じわりと広がっていくような感覚だけが残った。
それがこの先、
小さな不幸の最初の“音”になることを——
一樹はまだ知らなかった。
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