第3話 響くものたち

 朝のヒタカミは、いつものように蒸気の息づかいで始まる。

 だがシノの頭は、まだカフェインの熱を残していた。

『――おはよう、ヒタカミ。今日も霧の向こうに、やさしい音が流れますように。ミチル・ウィステリアでした』

 ラジオのジングルが終わると、短いノイズが残る。

 その微かなノイズまで、ヒタカミの朝の“BGM”になっている。

「……ミチルちゃんって、いつ寝てるんだろ」

「人のこと言えないでしょ。夜中まで“眠れない!”って叫んでたじゃない」

 カジカのツッコミに、シノは枕に顔をうずめた。

「だって、頭がずっとシャキシャキしてて……」

「シノはコーヒー飲まない方が良さそうだね。カフェイン耐性ゼロ」

「うぅっ……コーヒー憧れてたんだけどなぁ……。アグサ先輩みたいに、あの香りで“仕事できる女”っぽく目覚めたかったのに」

「結果、眠れないたぬきの完成だね」

「うぅっ……そんな“ポンコツ図鑑”に載りたくない……」

 ふらふらと起き上がりながら、シノは義手を装着する。

 金属の留め具が“カチリ”と鳴り、わずかに蒸気が抜けた。

 その音に、昨日のムジカの言葉が重なる。

 ――“音の波まで記録する金属。似た波を聞かせると形を思い出す”

 けれど、その意味はまだ掴めない。

 装着直後の自動調整で、関節が“カチカチ”と短く鳴った。内部の歯車が噛み合いを確かめている。

「……ねぇカジカ、この音、なんか蒸かし芋の音に似てない?」

「蒸かし芋って音するの?」

「するよ! ほら、こう……“ほくっ”て!」

「それ、音じゃないね」

 シノはむくれた顔で義手を見下ろし、くるくると指を回した。

 音のことを考えていたはずが、いつの間にか頭の中は芋でいっぱいになっていた。

 そんな自分に苦笑しながら、ふと思い出す。

「そうそう、今日の取材、蒸かし芋屋さんの点検なんだよね?」

「そう。この間の爆発を受けて、市場全体で検査が始まるって」

「ふふふ……つまり、蒸かし芋屋さんに堂々と行ける日が来たってことだね!」

「……純粋に点検取材だからね?」

「でも、蒸かし芋屋さんだよ!? 蒸かし芋だよ!? 甘くてほくほくのやつだよ!?」

「そのテンションで取材行くのやめて。ヒタカミタイムスの看板背負ってるんだから」

「わかってるよぉ。でも……鼻がもう現場に向かってる……!」

 シノの尻尾がぱたぱたと揺れ、鼻先がそわそわ動く。

「寝不足のくせに、こういうときだけ元気なんだね」

「蒸かし芋の香りはね、疲労を無効化する魔法の燃料なんだよ!」

「……アグサのコーヒーと一緒じゃない。いい先輩後輩だね」

 カジカの声に、シノはむふっと笑った。

「そういえば今日は直行なんだよね?」

「うん! アグサ先輩が“現場で合流する”って言ってた。だから今日は、眠れなかったし早めに支度したの!」

「寝不足のまま元気なの、才能だと思うよ」

「大丈夫! 蒸かし芋の香りで目が覚める予定だから!」

「予定って言っちゃったね……」

「じゃ、行こっか! 今日は爆発しない方向で!」

「毎回、選択肢が“爆発するかしないか”なの、やめようね」


* * *


 市場は、前回よりもずっと静かだった。

 屋台の多くは営業を控え、代わりに整備士たちがボイラーを点検している。

 蒸気が少なく、空気は少し冷たい。

 広場の端では、すでにアグサが職人たちと話をしていた。

 手帳を片手に、グレーのシャツの袖を肘までまくり、鋭い眼差しで圧力計を覗き込んでいる。

 その手には、真鍮製の携帯用ボトル。

 蒸気の中で立ち上る香ばしい香りが、現場の緊張を和らげていた。

「おはようございます、アグサ先輩!」

「元気ね。朝の蒸気より圧が高そう」

「はいっ、今朝は寝起きから全力稼働です!」

「その調子で記事の筆も噴かせなさい」

 アグサは口元に笑みを浮かべ、ボトルの蓋を閉じた。

「こっちは一通り聞き込み終えたわ。蒸かし芋屋のボイラーを見せてもらえるそうよ。任せる」

「はいっ!」

 蒸かし芋屋の主人がこちらに気づき、顔を上げた。

「お、タイムスのタヌキの嬢ちゃんじゃねぇか。噂は聞いてるぞ」

「えっ、噂!?」

「この間の爆発の記事、嬢ちゃんが書いたんだろ? みんな話してたぜ。『獣人の記者がいる』ってな」

「う、うわぁ……ちょっと恥ずかしいかも……」

「はは、悪い意味じゃねぇさ。若いのに根性あるって評判だ」

「へへっ、取材は鼻が利くんで!」

「だろうな。芋の焼き加減も当てられそうだ」

「任せてください!お芋にはちょっと自信があります!」

 主人は笑いながらボイラーの蓋を開けて見せた。

 中には歯車と弁、それに圧力計――そして、底に見慣れぬ銀色の部品。

「これ、新しい安全弁の素材だそうだ。ヒタカミ製じゃないらしい」

「えっ、それって……!」

 シノの耳がぴんと立った。

 それは、ムジカに見せたものと同じ“記録合金”だった。

「カジカ、スキャンできる?」

「任せて」

 カジカが屋台に跳び乗り、ボディから小さなセンサーを伸ばす。

 蒸気の唸りと一緒に、低い振動音が鳴った。

 ――その瞬間、金属が“チリッ”と震えた。

「……今、動いた?」

「うん。やっぱりだ。波長が合ったんだよ」

「波長?」

「ムジカの言ってた通り。音――正確には“振動パターン”を記憶してる。似た波を聞かせると反応する」

「つまり、音で“思い出す”んだね」

「そう。しかもこれ、かなり高感度だ。街の騒音でも共鳴するレベル」

 その言葉のあと、通りを走る気送管から「シュウゥゥッ」と空気が抜けた。

 蒸かし芋屋のボイラーが、わずかに共鳴して「ヒィ」と鳴る。

 銀色の弁がわずかに歪み、反射光がちらついた。

 それは、ほんの一瞬だけ――青い空のように見えた。

 同じタイミングで、シノのショルダーバッグの奥で、微かに“カチリ”と音がした。

 義手の指先が、わずかに震える。

 まるで中に入れていた記録合金の欠片が、遠くの音に応えたかのように――。

 シノは一瞬、何かを感じ取った気がして、バッグを見下ろしたが、すぐに取材に意識を戻した。深呼吸をひとつして、目の前の屋台に視線を戻す。

「……今の、見た?」

「見た。青。ヒタカミの“天井”とは違う青」

「どうして弁がそんなものを……」

 シノが言いかけたとき、主人が笑った。

「光? ああ、それな。鳴くときにたまに光るんだと。正常の証拠だってさ」

「正常……?」

「ああ、市の点検課がそう言ってた。“笛が鳴って光るのは、安全が保たれてる証拠”だってな」

「……なるほど……」

 シノは一度頷きかけて、すぐに首をかしげた。

「でも、新しい弁なんですよね? もうそんな話があるなんて、早くないですか?」

「ああ……まぁ、“上”が言うんだ、きっとそうなんだろ」

 主人は肩をすくめ、磨き布を手に取った。

 そのとき、近くの屋台で職人への確認を終えたアグサが数歩こちらへ寄り、シノの横に並ぶ。

「“鳴いてる方が安全”、ね……」

「うん。なんか、変ですよね」

「変……というより、そういう決まりなんでしょ。上がそう言うなら、みんなそう思うものよ」

 シノの視線が掲示板に向かう。

 《笛音は正常の証》《異常と呼ばないこと》――。


* * *


 ヒタカミタイムス編集部。

 午後の光がガラス越しに差し込み、活字の輪郭をやわらかく照らしていた。

 アグサは例によってコーヒーカップを片手に、机の上の原稿をぱらぱらとめくっている。

 その横で、シノはタイプライターを前に背筋を伸ばしていた。

「……で、“青”の件、どう書くつもり?」

「うーん……“弁が光った”ってそのまま書いたら、検閲に引っかかりますよね」

「引っかかるかもね。“安心”に逆らう言葉だから」

「安心に逆らう……?」

「“安心”って言葉は便利なのよ。疑問を抑える鎮静剤みたいなもの」

「鎮静剤?」

「真実は燃料で、安心は麻酔。どっちも使いすぎると動けなくなるの」

「うっ……昨日の私に刺さるやつ……」

 シノが耳を垂らすと、アグサはくすりと笑った。

「そうね……昨日ムジカ先生が言ってたって話――思い出してみなさい」

「“似た波を聞かせると形を思い出す”……。つまり、弁が笛の音で“外の記憶”を思い出した?」

「かもね。けど、それをどう記事にするかが腕の見せどころよ」

「記事に……」

「“聞こえない音”をどう書くか。鼻の利くあんたなら、きっと嗅ぎ取れる」

 アグサは新しい原稿用紙を差し出し、微笑んだ。

「――“街の笛が思い出す青”ってタイトル、どう?」

 シノは一瞬、言葉を失った。

(……やっぱり、この人詩人だ!)

「はいっ! 書いてみます!」

「いい返事ね。じゃあ、原稿が冷めないうちに仕上げなさい」

「了解です! 取材熱、まだアツアツですから!」

 シノは勢いよくキーを叩いた。

 アグサは呆れ半分に笑い、カップのコーヒーをひと口啜った。


* * *


 夕方。

 シノは再びムジカの工房を訪れた。

「先生、これ――もう一度見てほしいんです」

 ショルダーバッグから取り出したのは、飴屋の爆発現場で拾ったあの銀色の破片。

 ムジカに見てもらった“記録合金”の一片だ。

 ムジカは受け取ると、顕微鏡の下にそっと置き、光を調整した。

「……ふむ。反応層が膨らんでるな。何か“音”を聞かせたか?」

「私じゃないです。市場で点検してたとき、笛の音が鳴って……そのとき、この欠片が反応した気がしたんです。実際に見た青い光は、屋台のボイラーの弁からでしたけど……」

「やはり。高い音は、この合金の“記憶”を呼び起こす」

 ムジカは小さくうなずき、レンズ越しに破片を覗き込む。

「けれどヒタカミの“低い音”は、逆にそれを包み隠すようにできている。

 蒸気管の唸りも、ボイラーの鼓動も、地面を伝う機械の震えも――

 全部、人が“安心”を感じる周波数に調整されてるんだ」

「……それって、街そのものが“音”を出してるってことですか?」

「そんなところだ。だが、みんな気づかない。“安心”の音として聞かされている」

「……気持ち悪いですね。街が、音で操られてるみたい」

「気づける者が少ないのは、それだけ音がよく出来ているということさ」

 ムジカは破片を返しながら言った。

「お前の耳は鋭い。……いや、鼻もか。ヒタカミの連中は、長くこの音に馴染みすぎている。安心の響きに包まれすぎると、人間の感覚は鈍っていくものだ。だが、お前には、それが効かない。――だから、気づけたんだろう」

「……効かない?」

「その鼻と耳を大事にしろ。鈍らせるな。……そうだな、せっかくだ。義手にも少し“耳”をつけておこう」

「耳?」

「振動を拾う補助装置だ。さっきの破片と同じ波を感じ取れるようにする。街の“声”を、聞き逃さないようにな」

 ムジカは工具を取り出し、義手の肘関節のあたりを軽く叩いた。

 かすかに金属音が響き、シノの左腕が一度だけ震える。

「これでいい。感度は高いから、静かな場所ではよく聞こえるはずだ」

「……なんだか、くすぐったいです」

「耳をつけたんだから当然だ」

 そう言ってムジカは笑い、最後に静かに言葉を重ねた。

「真実は、音よりも静かに鳴っているからな」


* * *


 工房の扉を閉めた瞬間、世界がざわついた。

 蒸気の音が重なり合い、街じゅうが一斉に呼吸を始めたようだった。

 配管の脈、階段の踏み板、遠くの印刷機――ぜんぶが網目になって押し寄せる。

「うっ……」

 こめかみの奥で針が弾む。シノは、ムジカが新しく取り付けた義手の側面にある小さなダイヤルを、一目盛りだけ絞った。

 音の層が一枚、退く。呼吸が戻る。

「……慣れるまでは、半分で行こう」


* * *

 夜。

 シノの部屋には、またラジオの声が流れていた。

『――こんばんは。夜の街に、ミチル・ウィステリアです。

 今日も、霧の向こうのやさしい音に包まれて――』

 その“やさしい音”の中で、義手の内部が小さく震えた。

 先ほどムジカに調整してもらった“耳”が反応している。

 シノはノートを開き、破片を机に置いた。

 ラジオのジングルが終わる、その低音に――

 破片がわずかに青く光った。

 青は淡く、だが確かに“どこかの空”の色だった。

 そのとき、ノイズの奥で、微かな声が混ざった。

【――……通信層、応答確認】

 シノの手が止まる。

 ラジオの針は、動いていない。

 義手の“耳”だけが、小さく震えた。

 声は、一度だけ、確かに聞こえた。

「……誰?」

 応答はなかった。

 ただ、破片の光が消える前に、

 その表面に“瞳”のような模様が一瞬、浮かんだ気がした。

 じっと覗き込まれているような――そんな感覚。

 シノは息を飲んだ。

 誰かが、ヒタカミを見ている。

 この街の音も、彼女の声も、どこかで拾われている気がした。

 机の上のノートには、今日の記録が増えていた。

・記録合金は音に反応する

・笛音は“安心”として流されている

・街全体が、共鳴している

・破片の光――“誰かの視線”のよう

「……カジカ、さっきのあれって……誰かからの信号なのかな」

 カジカの胸ランプは規則正しく明滅を続けている。

「……何の話?ログも波形も拾ってないよ。ノイズすら平坦」

「でも、確かに“見られてる”感じがしたんだ」

「気のせいじゃない?ヒタカミは機械だらけだから、いろんな音が反響してるだけだよ」

 シノはうなずきかけて、ふとカジカを見た。

 そのレンズが、いつもより少しだけ光って見えた。

「……うん、そうなのかも」

 ムジカの言葉が脳裏に蘇る。

 ――“真実は、音よりも静かに鳴っている”

 夜の街は、静かに蒸気を吐いていた。

 その音の奥で、誰かの気配が、かすかに響いている気がした。


第3話 了

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