第2話 調律と燃料

 翌朝。

 シノのデスクの上には、濡れたタオルと工具箱が並んでいた。

 義手の関節には、乾ききらない水滴と白い水垢の跡が残っている。

「うぅ……昨夜は蒸気まみれで寝られなかったぁ……」

「そりゃあ、夜中に噴き上げたら当然でしょ」

 隣の席でアグサが、黒い液体をぐいっと飲み干した。そのデスクの端には、空のカップが五つ、ずらりと並んでいた。

 どれも内側が、洗っても取れなさそうな“絶望的な色”をしている。

「……アグサ先輩、それ、昨日も見た気がしますけど」

「見た? ああ、増えてるわよ」

「なんで誇らしげなんですか!?」

 アグサは飲み干した六つ目のカップを掲げ、まるでトロフィーのように輝かせた。

「いい、シノ。コーヒーはね、“飲む睡眠”なの」

 そう言って、脇に用意していた七つ目のカップを手に取り、ためらいもなく口をつけた。

 ニヤリと笑うアグサの顔は、徹夜明けとは思えないほど冴えていた。

 そのカップから立ちのぼる香りは、焦げた金属にも似た刺激臭。

 シノは鼻をひくひくさせて、思わず顔をしかめた。

 嗅覚が鋭いのはタヌキの利点だけど、こういうときは完全に災難だった。

「……なんか、嗅ぐだけで目が覚める匂いですね」

「効くでしょ」

「えっ、効能あるんですか!?」

「もちろん。命を繋ぐ味よ」

 意味がよく分からず、シノは曖昧にうなずくしかなかった。

「で? 義手の調子は?」

「……ちょっと暴走しただけです。でも、弁の締まりが悪くて」

「ムジカ先生のとこ、行ってきなさい。昨日拾った記録合金のことも話しておいたから」

「えっ、もう!? さすがアグサ先輩!」

「恩に着るなら、おみやげ話でも聞かせてちょうだい。私も今日は別件の取材なの」

 そう言って、アグサは取材用のショルダーバッグを肩にかけた。

「えっ、どこ行くんですか?」

「市場の方。ボイラー整備の追加取材よ。ま、こっちは地味な現場仕事」

「地味って言ってる時点で嫌な予感がしますけど……」

「気のせい気のせい。――さ、あんたも行ってきなさい。ムジカ先生が待ってるわよ」

「はいっ!」

 シノはぱっと耳を立てて、メモ帳を掴んだ。

 その勢いに、机の端の空カップがひとつカランと転がる。

「……また増えましたね」

「これは“徹夜の記録”よ。片付けたら、努力がリセットされちゃうでしょ」

「努力というより、供養塔では!?」

 カジカがシノの肩で電子音を立てた。

「うん、今日も平常運転だね」


* * *


 蒸気鉄道の高架をくぐると、空気の匂いが変わる。

 金属の粉と油の焦げる匂い――鼻の奥が少し甘くなるような、ヒタカミ独特の空気だ。

 北側の通りに入ると、看板の代わりにパイプの唸りが迎えてくれる。

 ここは技師街。ヒタカミの心臓部であり、街を動かす職人たちの巣だ。

 ムジカ博士の工房は、その一角にある。

 古い煉瓦の建物の壁一面を銀色の管が這い、ガラス管の中では赤い液体がコポコポと泡を立てている。

 蒸気の霧が窓越しに光を乱反射させ、まるで工房全体が呼吸しているようだった。

 分厚い鉄扉を押して中へ入ると、油と金属の匂いの中に、どこか懐かしい革の香りが混じっていた。

 作業台の奥に立つ人影――

 白衣の上から焦げ茶色の皮エプロンを着け、腕まくりした手には細かな傷が刻まれている。

 髪はところどころ銀を帯び、無精髭の隙間からのぞく口元が、いつものように穏やかにゆるんだ。

「おう、シノ。また義手が拗ねたか?」

 分厚い手袋を外しながら、ムジカが振り向いた。

 その声を聞いた瞬間、胸の奥がふっと軽くなる。

 この響きだけは、どれだけ騒がしい工房でも聞き分けられた。

「ちょ、拗ねるって……。ちょっと痛いだけです!」

「ふむ、痛いときは大体、無理をしたときだ」

 ムジカは笑い、背中の作業灯を明るくした。

 光が影を長く伸ばし、眼鏡の奥の瞳がきらりと光る。

「昨日の爆発現場の件は聞いたぞ。ずいぶん派手にやったそうじゃないか」

「いやいやいや! 私、何も爆発させてません! 爆発してたんです!」

「はは、そう言うと思った。――新聞にも出ていたぞ」

「えっ、もう載ってるんですか!?」

「まったく、自分のとこの朝刊くらい読んどけ。二面の隅にな、“市場に吹いた風、忘れられた笛の音”って記事が出ていたぞ。お前さんの名前が署名にあったな」

「えっ、それ私の!? 本当に!? わぁ……!」

「なかなか読ませる文だった。……見出しはアグサの仕業だろう?」

「う、うん。私、そんな詩みたいなタイトルつけられません!」

「ふはは、あいつは昔から妙に詩人気取りだからな」

「言ったら怒られますよ!?」

「構わん。どうせ徹夜明けでコーヒーの香りしか覚えておらんだろう」

「それは……たぶん合ってます」

 笑い声が霧の中に溶けていった。

「……で、今日は“土産話”だけじゃなさそうだな」

 ムジカは作業台の上を軽く叩き、手を差し出した。

 シノはカバンの中をごそごそ探ると、封筒から銀色の金属片をそっと取り出した。

「はい、これです。昨日の現場で拾ったんです」

 掌に乗せた破片が、工房の光を反射してきらりと光る。

 ムジカは「なるほど」と小さくうなずき、それを受け取ると、ルーペ越しに覗き込んだ。

「……ふむ。アグサから聞いてはいたが、これは……面白いな」

 指先で破片を転がし、光にかざす。

「文字どおり、情報を記録できる金属。“記録合金”と呼ばれている。だが――ヒタカミで作られたものじゃない」

 その声の調子が、ふと低くなる。

 機械の音がぴたりと止まり、室内の温度が下がった気がした。

「……じゃあ、カントーとか? 他のコロニーで?」

 ムジカはルーペを外し、口の端をわずかにゆるめた。

「さてね」

 ムジカは破片を見つめたまま、ほんのわずかに目を細めた。

 やがて、ムジカは試験灯の下に破片を置き、顕微鏡を覗き込む。

「……やっぱりだ。結晶の境界が“織り目”になってる」

「織り目?」

「そう。熱や圧力、それに音の波まで、層として畳み込む構造だ。

 “記録”というより、“記憶”に近い。聞いた振動を、薄い層に仕舞い込む」

「音まで……記憶するんですか?」

「正確には、似た波をもう一度聞かせると、その部分が“思い出す”ように形を戻そうとする。だから“記録合金”って名前がついたんだ」

「……生きてるみたいですね」

 ムジカは小さく笑い、破片を光に透かした。

「生きてるかどうかはともかく、聞き上手ではある。――お前みたいな記者とは、気が合うかもしれん」

 破片をシノの掌に戻すと、ムジカは穏やかに言った。

「お前の記者魂が騒ぐなら、これをネタにしてみるといい」

「えっ、ネタにって……」

「ただし、燃料は取りすぎるなよ」

 ムジカは苦笑しながら、再び工具を手に取った。

「さて――こっちの“燃料切れ”も見ておくか」

「え?」

「義手だよ。痛むと言っていただろう」

 そう言って、ムジカは手を伸ばし、シノの左腕をそっと持ち上げた。

 ジョイントを外すと、接合部の奥で小さな歯車と導線が呼吸するように動く。

 ひときわ強い蒸気音が響き、光が霧の中で滲んだ。

 ムジカは慎重に歯車の噛み合わせを確かめながら、静かに言葉を続けた。

「いいか、シノ。真実ってやつは強い燃料だ。飲みすぎると、夜も眠れなくなる」

 その声は、どこか遠くを見つめているようだった。

 何度か調整をくり返し、ムジカはわずかに頷くと、ゆっくりと手を止めた。

 作業台の上では、外された義手が微かに唸り、まるでまだ生きているかのように震えていた。

 その音を聞くうちに、シノの胸の奥で、何かがかすかに揺れた。

 不安とも、期待ともつかない感覚――けれど確かに、何かが目を覚ましかけていた。


* * *


 工房を出ると、夕方の蒸気が街路をゆるやかに流れていた。

 鼻の奥に残っていた金属と油の匂いが、歩くうちに少しずつ薄れていく。

 やがて、蒸気鉄道の高架が見えてきた。

 その向こうは、ヒタカミの中心街だ。

 そこから吹き抜けてくる風に、焙煎豆の香りが混じっている。

 シノは鼻をひくひく動かしながら、小さくつぶやいた。

「……燃料、かぁ」

 ムジカの言葉が、ふと頭をよぎる。

 そのとき――通りの向こうから、聞き慣れた声がした。

「おーい、シノ! メンテ終わった?」

 顔を上げると、アグサが手を振りながら歩いてくる。

 肩にかけたカバンの端から、取材メモがひょいと覗いていた。

「アグサ先輩! どうしてここに?」

「取材の帰りよ。市場の取材が思ったより長引いちゃって」

「そうなんですか?」

「うん、で――ほら、いい匂いがするでしょ? この近くに“ビタービーンズ”って喫茶店があるの」

「ビター……ビーンズ……?」

「ふふ、せっかくだし“燃料”の補給でもしていきましょ。付き合いなさい」

 アグサの笑顔につられて、シノの尻尾がぴょこんと跳ねた。

 蒸気の白と、コーヒーの香りが溶け合う通りを抜け、二人は高架をくぐって中心街へと歩き出した。

 ――そして、その香りと共に、『飲む睡眠』の伝説は始まった。


* * *

『飲む睡眠』――それは、一杯の“燃料”から始まった。

「いやぁ、オフィスでもエスプレッソ作って飲んでるけど、やっぱマスターのエスプレッソが一番だわ」

 中心街の通りの一角にある喫茶店『ビタービーンズ』。

 真鍮の看板と蒸気管の熱気が漂う店内で、アグサがうれしそうにマグを受け取った。

 縁ぎりぎりまで注がれた黒い液体。ほのかに焦げたような香りが鼻をくすぐる。

 シノはその様子を、尊敬半分・好奇心半分で見つめていた。

「わ、私も先輩と同じのをお願いします!」

 勢いよく言うと、カジカが呆れるようにぼそりとつぶやいた。

「……やめといた方がいいと思うけどなぁ。アグサのコーヒーは、素人向けじゃないよ」

「だ、大丈夫! 私も、記者だから!」

「それ、何の根拠?」

 金属の体をわずかに傾け、カジカがじとっと光学レンズを細めた。

 マスターが微笑み、小さなカップをシノの前に置いた。

 アグサのマグとはまるで違う、指先ほどの可愛い陶器だ。

 二つを見比べて、シノの耳がぴくりと動く。

「……なんか、量が全然違いますね?」

「まぁ、最初はそのくらいの量にしておきなさい」

 アグサは穏やかに言い、マグを傾ける。

 その仕草は、記事の書き方を教えるときのように落ち着いていて、

 シノは思わず背筋を伸ばした。

(これくらいなら、いけるかも……! アグサ先輩みたいに、かっこよく)

 そう思って、見よう見まねで一息に飲み干した。

 ――瞬間、世界の色が反転した。

 舌がぎゅっと縮み、喉の奥で金属が鳴った気がした。

 焦げた香りと酸味がいっせいに押し寄せ、

 口の中の水分が一瞬で蒸発する。

「――ッ!? に、にがっ……ぐぇっ、ぐほっ、びゃびょっ!? うぇ、うぇええ!? な、なにこれぇぇぇぇ!!?」

 苦い。

 苦いを通り越して“濃い”。

 まるで液体の形をした夜を飲み込んだようだ。

「ぐひゃ、ひょぇっ、こ、濃っ……目が回るぅぅぅ!!」

 シノは椅子をずり落ち、尻尾をぶわっと広げた。

 目尻から涙がにじみ、耳がひくひく震える。

 鼻の奥まで苦味が刺さり、世界がちょっと傾いて見えた。

 カジカがひとつ電子音めいたため息をついた。

「ほらね。言わんこっちゃない。何で一気飲みなんてするかなぁ」

「こ、これ……飲み物じゃ……ない……っ! 液体なのに、固い……!!」

 涙目でシノが訴えると、アグサは平然とマグを傾け、ひと口。

「カフェインは心の燃料よ。眠気も理性も吹き飛ばすから」

「吹き飛んでるの、味覚のほうですけどっ!!」

 マスターが苦笑して、水を差し出す。

「初めての人は、少し砂糖を入れるといいですよ」

 シノは水をがぶ飲みしながら、アグサが静かにカップを置くのを見上げた。

 その瞳は仕事中と同じ、冴えた光の奥に、夜を抱えたような深さがある。

「……こうやって飲むと、記事が一本書ける気がするのよ」

 アグサは微笑みながら言った。

「睡眠の代わりにね」

 のちにこの一言は、ヒタカミタイムスの名言として残る。

 『飲む睡眠』――その始まりは、ビタービーンズの午後だった。


* * *


 その夜。

 シノの部屋では、まだ“燃料”の後遺症が続いていた。

「カ、カジカぁ……眠いのに……眠れない……!」

「それ、脳の“おやすみ信号”とカフェインがケンカしてるんだよ」

「ど、どうしたらいいの!?」

「無理やり寝るしかないんじゃない?」

「眠れないんだよぉぉぉ!! 昨日も寝てないのにぃぃぃ!!」

 ベッドの上で転げ回るタヌキ獣人。

 カジカは机の上で小さく光りながら、電子音めいたため息をついた。

「まったく……ヒタカミ最初のエスプレッソ二次被害者だね」

そのとき、ラジオからふっと声が流れてきた。

『――こんばんは。夜の街に、ミチル・ウィステリアです。眠れない夜には、あたたかい飲み物でもいかが? ただし――』

 シノが飛び起きた。

「もう飲まない!!」

 カジカが笑うように電子音を鳴らした。

『――飲みすぎには、ご注意を。おやすみなさい、ヒタカミの皆さん』

 ラジオの声と同時に、シノの悲鳴が遠ざかっていく。

「うわぁぁぁぁ眠れなぁぁぁぁい!!」

 その夜、ヒタカミのどこかで、

 タヌキの耳がカフェインのせいでぴくぴく動き続けていた。


第2話 了

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