ヒタカミ・レポート
らおちゅう
第1話 蒸気の街の記者
朝のヒタカミは、蒸気でできている。
石畳の隙間から白い蒸気がぷしゅうと吹き出し、街の壁を走る真鍮の配管がかすかに唸りを上げていた。
頭上には灰色がかった人工の空が広がっている。
それは分厚いガラス天井に投影された疑似青空で、夜が明けるとゆっくり照度が上がる仕組みだ。
太陽の代わりに光を放つのは、天頂部の巨大な「昼光灯炉」。
その反射光が街全体を包み、淡い朝霧のような温かな光を生んでいる。
人々はその光を本物の太陽だと信じて疑わない。
ヒタカミの住人にとって、“空”とは天井のことなのだ。
街は歯車と蒸気で動いている。
電気というものは古い伝説で、通信は真鍮パイプを通す気送管と、低周波のラジオだけ。
広場では蒸気仕掛けの郵便台車が音を立てて走り、パン屋の煙突からは香ばしい匂いとともに煙と薄い蒸気がのぼる。
この白く曇った空気のすべてが、彼らにとっての“朝”だった。
――ただ一人、寝坊中の少女を除いて。
* * *
安物のラジオ時計が、低周波のノイズを唸らせた。
『霧の向こうに、今日が待ってる。おはよう、ヒタカミ!』
『♪目を閉じても 見える空がある♪』
『今日もあなたの一日が、やさしい音で包まれますように。ミチル・ウィステリアでした』
ノイズ混じりのジングルが終わると、時報のチャイムが鳴る。
「シノ、朝だよ。三度寝はもう“朝”じゃないよ」
金属の軽い足音が布団の上を跳ねた。
カエル型のブリキロボット、カジカである。艶消しのボディが朝の光を鈍く反射している。
「うぅ……霧が濃い……」
「それは窓の外。寝ぼけて天気実況しないの」
「あと五分……」
「じゃ、二分」
「三分!」
「交渉成立。ゼロ秒」
カジカが“ぴょん”と跳ね、シノの額を軽く叩く。
金属の冷たさにシノが飛び起きた。
「ひゃっ、冷たっ! もう起きたよ!」
「やればできる子」
シノは布団を蹴って立ち上がり、黒い肌の右腕一本で器用に寝間着を脱ぐ。
小さな部屋の片隅にある鉄製のクローゼットを開け、記者用の服を取り出した。
シャツの袖を通し、スカートのベルトを腰で押さえてボタンを留める手つきは慣れたもの。
ただ、尻尾が思いのほか主張が激しく、時おりスカートの裾を押し上げてしまう。
「……ちょっと、落ち着いてよ、尻尾」
「体の一部に話しかけるの、ボクは慣れないな」
「気合いで伝わるの!」
軽く息を吐き、カーキ色のショートトレンチを羽織る。
寝ぼけまなこのまま髪をかき上げると、茶色いボブの隙間からまん丸のタヌキ耳がぴょこんと顔を出した。
目のまわりには、墨をぼかしたような黒の模様があり、笑うとそれが少しだけ形を変えて柔らかく見える。
小さく前へ伸びたマズルと、丸みのある頬には淡い毛が生えていて、光を受けると冬の毛皮のようにふわりと輝いた。
鼻先はしっとりと黒く、寝起きの息に合わせてわずかに曇る。
その顔には、タヌキの面影がはっきりと息づいていた。幼さと芯の強さが同居する、不思議な表情だった。
腰の後ろでは、モフモフの尻尾がだらりと垂れ下がっている。
机の上のゴーグルを首に掛け、左腕の義手を装着。
カチリ、と金属の音がして接続が完了した。
真鍮の関節部から白い蒸気がふわりと漏れ、ガラスの小窓の奥で青い計器が点滅する。
「今日こそ遅刻しないぞ!」
「そのセリフ、昨日も聞いたよ」
「昨日は“こそ”って言ってないもん!」
「違いがわからない」
シノは机の上の包み紙を開き、昨夜の蒸かし芋を取り出した。
義手の掌の弁をひねると、シュウと柔らかな蒸気が吹き出し、芋がじんわり温まる。
「……うん、これだよね。朝は蒸かし芋!」
「余裕あるならいいけど、時間見た?」
「ふふん、見なくても――」
時計を見た瞬間、顔が青ざめた。
「……え、嘘。もうこんな時間!?」
「言わんこっちゃない」
シノは慌てて蒸かし芋を口に押し込み、もぐもぐと飲み込みながらカバンを肩にかける。
「危ない動きしそうだから、今日はカバンの中入っとくね」
「最初からそうしてて!」
カジカがひょいと飛び込み、カバンの小窓から顔を出した。
玄関脇の棚から茶色いブーツを取り、ベルトをきゅっと締めた。
金具が小気味よく鳴る。
勢いよく玄関を出ると、首にかけていたゴーグルを装着し、義手の弁を回す。
パシュン!
義手の先端からワイヤーが勢いよく射出された。
しかし射出角を誤り、ワイヤーは隣の煙突にがっちり命中。
しかも、巻き取り機構が自動で作動してしまった。
「ちょ、待って待って待って!?」
キュルルルッ、とワイヤーがうなりを上げ、シノの身体がぐいっと引き寄せられる。
「やっぱり入っといて正解だったね」
「他人事みたいに言わないでよぉぉぉ!!」
視界が一気に傾き、気づけば空中。
「ひゃああああ!? ま、待って止まって止まってぇぇぇ!!」
慌てて弁をひねり直すと、今度は別の方向へワイヤーが射出された。
パシュン! カシャン! 今度は街灯の支柱に命中。
しかし勢い余ってスイングのように振り子運動を始める。
「わーっ!? これじゃブランコだよぉぉぉ!!」
シノは涙目で再び弁をひねり、今度は看板の取っ手へ。
パシュン! ガキン! そして——。
天井ガラスに跳ねた朝の光が一瞬だけ目を射し、蒸気の街が真下に広がった。朝霧のヒタカミを、少女が放物線を描いて飛んでいく。
洗濯物をひっかけ、パン屋の看板をかすめ、通りの上の気送管を乗り越え……。
そして最後に、ヒタカミタイムス社の前に並ぶ植木鉢に、見事に着地した。
――がしゃんっ。乾いた土が盛大に散った。
「……おはようございます……」
土まみれのシノを見て、受付嬢は苦笑した。
「おはよう、シノちゃん。今日も元気ねぇ」
「あはは……朝から景気よく飛びました!」
* * *
ヒタカミタイムスの編集部は、今日も蒸気と紙の匂いで満ちていた。
タイプライターの音が鳴り響き、印刷機がリズムを刻み、気送管の口からはときどき原稿の束が“ぽんっ”と飛び出す。
天井の鉄骨にはパイプが幾重にも通り、どこかの蒸気が周期的に吐き出されていた。
「おはようございまーす! 遅刻してないです!」
「“してない”は主観だよ」
赤いポニーテールの女性が、カップを片手に振り向く。
アグサだ。事件部の先輩で、グレーのシャツの袖を肘までまくり、黒のパンツを無造作に履いている。
細身の体に映えるその姿は凛々しいが、三白眼の下には深いクマ。
そして机の上には、空になったコーヒーカップが三つ――うち一つは昨日のままだ。
新しいカップの湯気をくゆらせながら、アグサはシノに声を掛ける。
「市場でボイラー暴走。飴屋が一軒吹っ飛んだって。行ける?」
「行けます! 行きます!」
「いい返事。――じゃあ今日は、一人で行ってみな」
「えっ、ひとりですか!?」
「そろそろ単独取材も経験しとこう。現場に顔見知りの刑事もいるから、危ないことにはならないはず」
「“はず”って不安な言い方やめてくださいよ!」
「大丈夫、あんたなら平気。無鉄砲さなら編集部一だし」
「褒めてるようで褒めてない気がします……」
カップの縁に口紅の跡を残したまま、アグサは新しい原稿用紙をシノに手渡した。
インクとカフェインの混ざった香りがふわりと漂う。
隣の机では、副編集長のハヤマが煙草をふかしていた。
湯気と煙が混ざり合い、光の中でゆらめく。
いつものように気だるげな目で新聞を畳みながら言う。
「若いのに任せろってな。取材は足で稼ぐもんだ」
「はいっ!」
「……お前の場合は鼻だな」
「鼻も足も使えます!」
「じゃあ嗅いでこい。真実の匂いをな」
そう言って、ハヤマは煙を吐いた。
白い煙は窓の外の蒸気と溶け合い、どこからが煙草でどこからが配管の湯気かわからなくなった。
* * *
市場は、いつも以上に白かった。
飴屋の跡地から立ちのぼる蒸気が、通りのガラス天井に届いて霞をつくっている。
屋台の列には、蒸気で動く自動包丁や機械腕が並び、壊れたボイラーからは焦げた砂糖の甘い匂いが漂っていた。
「すごい……これ、完全に吹っ飛んでる……!」
シノが立ち尽くす横で、カジカが言った。
「ボイラーの暴走だね。圧力弁が閉じたまま上がったんだ」
「えっと、それってつまり……?」
「簡単に言えば、爆発した」
「簡単すぎるよ!」
そのとき、現場の警官がこちらに気づいた。
帽子を後ろにずらした男――タキシタ刑事だ。
「おっと、アグサのところのタヌキの嬢ちゃんじゃねえか。取材か?」
「はいっ! ヒタカミタイムスのシノです!」
「現場荒らすなよ。見るくらいなら構わん。気をつけな」
タキシタは煙管をくわえ、余裕の笑みを浮かべている。
シノは頷き、しゃがみ込んで地面に散らばる破片を拾った。
それは白銀色で、真鍮よりも軽く、指にぴたりと吸い付くような感触だった。
「……変な金属。見たことないな」
「“記録合金”だね。……最近、いろんな機械に使われはじめてる素材らしいよ」とカジカ。
「へえ……普通の金属とはなんだか冷たさが違う」
「感じ取れるのは、タヌキの勘かもね」
カジカは軽く冗談めかして返した。
その声の端に、ほんの一瞬だけ考え込むような間があった。
シノは気づかず、金属片を光にかざす。
タキシタが煙管をくわえながら言う。
「よく知ってるな、そう、“記録合金”って呼ばれてるやつだ。光や圧力の変化を“記録”して、あとから再現する性質があるらしい。……詳しい仕組みは、俺にもさっぱりだがな」
「そんなの、ヒタカミで作れるんですか?」
「さあな。学者の連中は“外のコロニーから入った技術”って言ってるが……信じるかは自由だ」
タキシタは煙を吐き、意味ありげに笑った。
白い煙が通りの蒸気に混ざって消える。
その光の揺らぎの中で、カジカが静かに言った。
「……“外”か。ボクの感覚とは、ちょっと違う呼び方だね。」
「え?」
「ううん、なんでもない。ただ――ヒタカミじゃ“新しい”って言われてるけど、外じゃ少し“懐かしい”んだ」
「外って……カントーとかのこと?」
「さぁね。呼び方は街ごとに違うから」
カジカは小さく首を傾げ、そのレンズアイに淡い光を映した。
そのとき、周囲の人々の会話が耳に入る。
「笛みたいな音、してたな」「安全弁の悲鳴だろ」「そういうもんさ」
誰も疑問に思っていない。
“そういうもんさ”という言葉が、まるで魔法のようにこの街のすべてを丸くしてしまう。
「……なんか、変だよね」
「ヒタカミはだいたい変だよ。いい意味で」
「いい意味で爆発しないでよ……」
シノは金属片を封筒にすべり込ませ、ポケットを軽く叩いた。
* * *
夕方。
ヒタカミタイムスの印刷機が唸りを上げ、床がかすかに震えていた。
蒸気の中で、アグサがシノの記事を読み上げる。
「記録合金は後でムジカ先生に回すとして……悪くないね。匂いの描写、臨場感、文末のテンポ。新人としては上出来」
「ほんとですか!」
「でもね、ちょっと味気ない。紙面ってのは“匂い”より“余韻”が残る方が読まれるの」
アグサが記事に目を通しているあいだ、シノの視線はつい机の上に向いた。
朝は空のカップが三つだったのに、今は五つ。
しかも、いま手にしている分を入れれば六杯目だ。
「……あの、アグサ先輩。カップ、増えてません?」
「うん、増えたね」
「う、うんって……」
「原稿一枚読むと一杯増えるの。効率的でしょ?」
「意味わかりません……」
アグサはくすりと笑い、ペンを走らせた。
「たとえば笛の音。証言があったんでしょ? 誰も覚えてないけど、そこに入れておくと雰囲気が出る」
「え、そういう理由!?」
「読者は“聞こえたのに忘れた音”なんて言葉に弱いの。妙に引っかかるでしょ?」
「……なんか、怖いですね」
「そう感じたなら、記事として合格」
アグサはタイトルをつけ、笑顔を向けた。
「――『市場に吹いた風、忘れられた笛の音』。どう?」
「かっこいい……!」
「でしょ?」
背後でハヤマが笑う。
「初の単独取材にしてはいいんじゃねぇか。お前が誘爆しなかっただけでも上出来だ」
「なんでみんな私が爆発する前提なんですか!」
「朝、お前の義手が煙出してただろ」
「あれは仕様ですよぅ……」
編集部の笑い声が蒸気に混ざり、夜がゆっくりと降りていく。
* * *
夜のヒタカミは昼とは違う顔を見せる。
天井の投影空は群青色に変わり、人工の星々がゆっくりと回り始める。
風はない。あるのは、蒸気の流れる音だけ。
シノの部屋では、ラジオから歌が流れていた。
『♪霧のむこうの光は だれも知らない朝の色♪』
『今日という日が、やさしい音で終わりますように。
おやすみ、ヒタカミ。明日も霧の向こうで会いましょう。ミチル・ウィステリアでした』
ジングルとともに放送が終わり、短いノイズが残る。
シノのデスクの隅では、カジカが椅子の上で小さく身じろぎした。
「……ふぁ……夜モードに入るね。明日は……爆発しないでね」
「爆発しないってば!」
カジカの背面ランプがゆるやかに青く光り、静かにスリープに入る。
その光は呼吸のように点滅を繰り返し、やがて完全に落ち着いた。
シノは蒸かし芋を半分かじりながら、ノートを開く。
・市場のボイラー暴走、原因不明。
・金属片(記録合金?)を発見。
・笛の音、誰も気にしない。
「……ねえ、カジカ。今日の爆発、変だったよね」
当然、返事はない。
静まり返った部屋に、配管の低い唸りだけが続いている。
「気のせい、かなぁ……」
シノは義手の弁をくるくると回した。
「もうちょっと精度よく動けばなあ……」
ボフッ!
湯気混じりの蒸気が一気に噴き出した。
「うわわわわぁっ!? あつっ!? なんで今なのぉぉっ!?」
蒸気がもくもくと部屋を満たし、視界が真っ白になる。
慌てて義手を押さえようとするが、弁が空転して止まらない。
「うわーん! カジカー! 起きてー! スリープ解除ー!!」
もちろん、反応はない。
蒸かし芋が机から転がり落ち、床をころころと逃げる。
シノはそれを追って滑り、転んだ拍子にさらに蒸気が噴き出す。
「ぎゃああっ!? あつっ! もうやだぁぁ!」
どうにか弁を閉めたときには、床はびしょ濡れ、蒸かし芋はしなしな、
シノは髪の毛が湿気でふにゃふにゃになっていた。
「……うう、誰も助けてくれない……」
静けさの中、スリープ中のカジカがかすかに音を立てた。
「……ビー……しの……温度……過剰……」
「今さら言う!?」
シノは濡れた床にしゃがみ込み、しばらく天井の蒸気を見上げた。
その白さは、夜の静けさに溶けていく。
蒸気の残る部屋の外では、人工の星がゆっくりと瞬いている。
――ヒタカミの街は、今日も蒸気の息で動いている。
そして、明日もまた。
第1話 了
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