事件部小噺①:たぬきと童話と、二杯目のエスプレッソ

 昼下がりのヒタカミタイムス事件部には、タイプライターの音と、アグサのコーヒーの香りが満ちていた。

 タヌキ獣人の新人記者・シノのデスクにも、原稿用紙の山とインクの匂いが積み上がっている。

「シノ、ちょっと手、止められる?」

「はい! 何ですかアグサ先輩!?」

 勢いよく振り向いたシノの耳が、ぴょこりと立つ。

 赤髪をひとつに結んだ先輩記者・アグサは、三白眼を細めて机の引き出しをごそごそ探り始めた。

「最近、取材の文章が少し“優しすぎる”のよね。いいことなんだけど、記者としては、もうちょっと厳しい目線も欲しいわけ」

「ええっ、厳しい目線ですか……?」

「そう。で、思ったの」

 ――ぱさっ。

 一冊の真新しい本が、シノの机に置かれた。

 表紙の角はまだ硬くて、ページにはほとんど折り目がない。

 カバーには、夕暮れ色の山と黒い舟のシルエット、そのそばでうずくまる小さな動物の影が描かれていた。

 子供向けの絵本に見えるが、それにしては少し暗くて、どことなく胸の奥がざわつくような絵だ。

「はいこれ。“かちかち山”。知ってる?」

「何ですかこれ? 絵本?」

「たぬきが出てくる童話」

「た、たぬき……!?」

 シノの耳がぴん、と立つ。椅子の背もたれの向こうで、尻尾がふわっと膨らんだ。

「たぬきの童話なんですね……?」

「そう。童話ってのはね、価値観を育てる教材みたいなもの。いろいろ考えるきっかけになるのよ」

「童話で……価値観……?」

 シノは表紙を見つめ、少しだけ緊張した指先で、ページをそっとめくる。

 机の端で香箱座りをしていたカエル型ロボット・カジカが、ページをのぞき込んで小声で言った。

「あー、シノ、これはおすすめしないよ」

「え? なんで?」

「うーん……ま、いいか」

 最初のページから読み進めていく。

 畑を荒らし、おじいさんに捕まる悪いたぬき。

 おばあさんを騙す悪いたぬき。

 罰として背中に火をつけられる悪いたぬき。

 泥舟で溺れる悪いたぬき――。

 シノの耳が、だんだんしょんぼりと垂れていく。

「……え……?」

 ページをめくる手が止まった。

「えっ……なにこれ……たぬき……ひどくない……?」

「うん、だいたい合ってる」

 アグサはコーヒーを飲みながら平然と言う。

「だ、だって、こんなの……」

 シノは涙目になりながら続けた。

「たぬきが悪いことしたのは良くないけど……でも……これは……ひどい……!」

「昔話ってだいたいこういうものよ。因果応報。勧善懲悪。シンプルでわかりやすいでしょ」

「わかりやすいけど!! でも!! たぬきが!!」

「落ち着きなさい」

「落ち着けません!!」

 カジカが小声でアグサに言う。

「ほらね、言った通りでしょ」

「……ここまで刺さるとは思わなかったわよ」

「もう……こんなの……このままじゃ嫌です……!」

 シノは本をそっと閉じると、きゅっと拳を握った。

 目は涙でうるうるしているのに、妙に強い光が宿っている。

「私……書き直します」

「……は?」

「書き直します!! “かちかち山”を!!」

「いや、童話を……?」

「うんっ! 優しくて! 誰も傷つかなくて! たぬきもおばあさんも仲良しのやつ!!」

「……それもう“かちかち”しなくない?」

「します!! お芋とかで!!」

「芋が“かちかち”する!?!?」

 カジカがぽそり。

「蒸かし芋なら“ほくほく”なんだけど……」

「書きます!!!」

 シノは机にばーんとノートを広げた。

「タイトルは――『新説・かちかち山』!!」

「勢いだけは満点ね……」

 アグサは頭を押さえた。

 しかしその口元は、ほんの少しだけ、楽しそうにゆるんでいた。

「……まあ、いいわ。書いてみなさい。

 “童話から記者魂が育つ”って可能性も、ゼロじゃないから」

「書きますっ!! ポンポコ正義の童話を!!」

「その字面がすごく不安なんだけど……」

 事件部の片隅に、タヌキ獣人の新人記者が“童話改造計画”を宣言する声が響いた。

 ――こうして、『新説・かちかち山』は誕生した。


* * *


新説・かちかち山


 むかしむかし、あるところに、おじいさんとおばあさんが仲良く暮らしていました。

 二人は毎日、山に登っては薪を集め、畑ではおイモやお豆を育てていました。

 おじいさんは働き者、おばあさんは笑顔の人。

 どんな日でも、家の煙突からは、幸せの湯気が立ちのぼっていました。

 ある日、山から一匹のたぬきが降りてきました。

 お腹がすいて、ふらふらです。

「うぅ……いい匂いだ……」

 畑のそばで、おばあさんが焼いていたおイモの甘い香りに、たぬきはつい手を伸ばしてしまいました。

 でも、見つかってしまいます。

「こらこら、たぬきさん。悪いことはいけませんよ」

 おばあさんは叱る代わりに、焼きイモを半分に割ってたぬきに渡しました。

「お腹がすいていたんでしょう? 次からは一緒に食べましょうね」

 たぬきは目をまんまるにして、その焼きイモを見つめました。

 そして、涙をぽろぽろこぼしました。

「ご、ごめんなさい! ぼく、もう悪さはしません!」


 その日から、たぬきはおじいさんとおばあさんを手伝うようになりました。

 畑の草取りも、薪割りも、ぜんぶ一生けんめいです。

 ある日、山からうさぎがやってきて言いました。

「ねぇ、楽しそうだね! ぼくも仲間に入れて!」

 こうして、おじいさんとおばあさんとたぬきとうさぎは、四人で仲良く暮らしはじめました。

 うさぎはお料理が得意で、たぬきは力持ち。

 おじいさんは木を切り、おばあさんはお茶をいれる。

 四人が力を合わせると、どんな日でも笑い声が絶えません。


 やがて秋が来て、畑にはたくさんのおイモが実りました。

 みんなで掘って、焼いて、わけ合って――

 夜にはお月さまを見上げて、おイモパーティーです。

「このおイモ、あまくておいしいね!」

「そりゃそうさ。みんなで育てたんだからな」

 おばあさんは笑ってお茶を注ぎ、うさぎは空を見上げて言いました。

「月の上の仲間たちにも、おすそわけしてあげたいな」

 たぬきがにこにこして言いました。

「じゃあ、ぼくが太鼓で合図を送るよ。――ポンポコポン!」

 月の光がやさしく降りてきて、みんなの顔を照らしました。


 その夜、家の煙突から立ちのぼる湯気は、まるでお月さまへの道のようでした。

 おじいさんとおばあさん、たぬきとうさぎ。

 四人は寄り添って、おイモの香りに包まれながら、静かに笑っていました。

 誰も怒らず、誰も焼けず、誰も泣かない“かちかち山”。

 焚き火の薪が、かち、かち、と小さくはぜて――

 その山の名前は、今日も優しく音を立てています。――めでたし、めでたし。


* * *


 ――その翌日。

「アグサ先輩っ!! できました!!」

 シノが原稿用紙を束ねて差し出す。

 アグサはコーヒー片手に受け取り、三白眼を細めた。

「……タイトル『新説・かちかち山』。副題“優しい世界とおイモの魔法”。

……嫌な予感しかしないわね」

「読み応えありますよ! 涙なしには読めません!」

「どっちの涙かしら……」

 ざらりと紙をめくる音。

 アグサの視線が行を追うたびに、表情筋がぴくぴく震えた。

「……おじいさん優しい」

「はい!」

「……おばあさん優しい」

「はい!!」

「……たぬき優しい」

「もちろんです!!!」

「……うさぎまで優しい」

「四人でイモパーティーです!!」

「……事件ひとつ起きてないじゃない……」

 アグサは原稿をぱさっと閉じた。

「シノ。これはね、

“童話”じゃなくて“お芋の福祉パンフレット”よ」

「ええっ、そんなつもりじゃ……!」

「けどまあ……いいわ。文化欄の下のほうなら、載らないこともないかも」

「本当にっ!?」

「担当者が胃もたれしなければ、ね」

 そんな軽口のやりとりを経て――


* * *


 数日後。ヒタカミタイムス・文化欄。

「……載ってる……」

 シノの震える声が編集部に響いた。

 文化欄の隅、読者投稿コーナーの下段。

 そこに確かに、小さなタイトルが印刷されていた。

《新説・かちかち山(ペンネーム:S.N.)》

 イラスト付き。

 お芋を抱えたたぬきが、月を見上げている。

「やったぁぁぁぁぁ!!」

 シノが尻尾をふわっと膨らませて跳ねる。

「へえ……意外と映えるわね、この絵」

 アグサが腕を組む。

 その声は平静を装っていたが、少しだけ満足げだった。

 そのとき、気送管が「ぽんっ」と音を立てて紙束を吐き出した。

「あら、読者投書?」

 アグサがのぞき込む。

『“新説かちかち山”、ほっこりしました』

『孫にも読ませたい』

『たぬきも幸せでよかった』

『月見イモ、食べたくなった』

「……なにこれ。地味に反響あるじゃない」

「ほ、本当ですか!? たぬきの名誉回復できました!?」

「そこまでの規模じゃないけど……まあ、悪くないわね」

 アグサが読者投書をめくりながら微笑んだ、そのとき――

「――おーい、お前ら。童話で盛り上がってねぇで仕事しろー」

 ヤニの染みついたコートを引っかけた中年記者・ハヤマのその声で、事件部の空気が一瞬凍る。

 シノとアグサがそろって振り向く。

「し、仕事してますっ! た、多分……!」

「文化欄の反響ですよ。れっきとした読者分析」

「どこがだよ。お前ら完全に童話サロンじゃねぇか」

 ハヤマは深いため息をつき、胸ポケットから煙草を取り出しかけ――やめた。

(どうせまた換気扇注意が来る……)という顔。

「いいか、お前ら。事件部ってのは“事件がなくても事件を探す部署”なんだよ」

「は、はいっ!」

「……耳が痛いわ……」

「シノ、お前は特にだ。のんびりしてると、今度は芋の食レポ書かされるぞ」

「え?ちょっとしてみたいかも……じゃない!行ってきます!!すぐ出ます!!」

「アグサ。お前は……まあ、コーヒーだけ淹れ直してこい。頭回ってねぇだろ」

「あら、わかってますねぇ。じゃ、お言葉に甘えて濃いの一杯いれてから出ます」

 カジカがぽそっと言った。

「……事件よりカフェインの方が強い部署だねぇ」

 ハヤマは頭をかきながら、

「……ほんと、平和な職場だな」

 と小さくこぼした。


事件部小噺① 了

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