『第三話 • 3 : 封晶の夜明け──名を呼べば、世界が痛む』

森の奥から吹きつける風は、冷たさよりも重かった。

鍛冶炉で焼いた鉄を水へ沈めたときに立つ、あの“蒸気の叫び”。

しゅう、と空気の膜を削る匂いが走り、

その余韻が胸の奥へ、音のない重みとなってじわり沈んでいく。


紅晶の砦は、もう目前だった。

薄明の気配が森の端をかすめ始めただけの早朝。

闇に沈む巨岩の裏側では、まだ姿を持たぬ“脈”が、地をわずかに押し上げていた。


風すらないのに、足元の砂粒がぽつりと跳ねる。

それは風のせいではない。

封印の底で、なにかが――眠りの殻を押し割るように、そっと身じろぎした“気配”だった。


光はまだ届かない。

岩の縁をどくり……と震わせる圧だけが、静かに現実の輪郭を変えていく。

夜明け前の暗さの中で、封じられた心臓だけが先に“朝”を迎えようとしているかのようだった。


息を吸うと、胸の奥まで鉄の熱がじんわり染みた。

吐く息には、かすかな血の匂いが混じっている。


そのとき――セラフィーが、そっと口を開いた。


「……いまさらなんだけど」


触れれば砕けるほど細い声だった。

戦気でも、覚悟の震えでもない。

長いあいだ胸の底に伏せてきた“痛みの名前”へ、誰かがそっと触れたときだけ生まれる、あのかすかな揺れ。


リリアの胸が、理由もなくきゅ、とすぼまる。


「……なに?」

乾いた喉から落ちた声は、自分でも驚くほど脆かった。


セラフィーは答えない。

答えようとする気配すら、微塵もなかった。


その沈黙は――口にした瞬間、もう戻れなくなる未来を知っている者だけが持つ沈黙。


セラフィーの指先が、ほんのわずか震えた。


「……言いたくなかったの。ずっと、あなたには知られたくなかった。」


淡い沈黙が、二人の間にひとしずく落ちた。


「……次の敵は」


刃より細い声が、夜気をすっと裂いた。


「――ラムタフ=シギサ。」


「……あなたが育てた、弟子よ。」


その一言が触れた瞬間、

空気はきぃ、と軋み、早朝の闇さえ息を呑む。

世界そのものが、わずかに“痛んだ”。


リリアの喉が、ぎゅ、と詰まる。

たった半秒、呼吸の仕方を忘れた。


「……は……? どういう……ことだよ……?」


胸の奥がふ、と震える。

置き去りにした“過去”が、無言で背中に触れたような冷たさだった。


ブッくんは理解を諦め、表紙をばたばた震わせて叫んだ。


「弟子ぇ!? リリアに弟子!? そこはええ!

 でも“ラムタフ=シギサ”はあかんやろ!!

 詐欺師の源氏名みたいやん!!

 逆さに読んだら絶対なんか召喚されるタイプの名前やで!!」


しかしその声も、早朝の空気にぽちゃん……と落ち、

冗談の形をした波紋は伸びる前に闇へ吸われていった。


セラフィーは、その静けさを見届けてから、そっと口を開く。


「ラムタフには……才があったの。

 “勇者の後継”なんて持てはやされるほどのね。」


「でも、その裏側で膨らんでいた“焦り”を、私は見落とした。

 あれは……私の罪よ。」


淡々としているのに、声の奥には深い影が沈んでいた。

それは、責めても責めきれない“自分自身”に向けた影だった。


「焦りは人を急がせる。

 何を落としているのかすら見えなくなるほどに。」


「ラムタフは強さばかりを掴もうとして……

 本当に守るべきものの境界を、少しずつ手放していった。」


セラフィーのまつげが震えた。


「その弱さに“寄り添うふり”をして近づいた女がいたの。

 “もっと強くなれる”“特別な力をあげる”……甘い言葉だけを囁く、危ない女。」


「ラムタフはその甘言に縋り、貢ぎ、借金に沈み……

 心の奥まで摩耗していった。」


視線が静かに落ちる。


「やがて――仲間にまで平然と嘘をつくようになった。

 虚構に虚構を重ね、自分の過ちさえ誰かのせいにして……」


そこで、言葉がひとしずくだけ止まる。


「……そのときの涙も、理由も、全部が作りもの。

 本物なんて、ひとつもなかった。」


「……気づいたときには、ラムタフは“弱さの底”に沈んでいたの。」


そして、最も重い言葉が落とされる。


「あなたが去ったあと……

 ラムタフは、最後の最後で“魔王”に縋ったの。」


「媚びて、へつらって、金と力を乞い……

 その代わりに仲間を売った。」


空気が、ひとつ沈む。


リリアは絞り出すように呟いた。


「……堕ちたのか……? あいつが……本当に……?」


胸の奥がぎゅ、と軋んだ。

声は低く、喉の奥で震えている。

信じたくない――それでも否定しきれない。

短い息がひゅ、と漏れ、その冷たさが言葉に滲んだ。


沈黙が落ちる。

湿った土より重く、刃より冷たい沈黙だった。


セラフィーはまぶたを伏せ、静かに告げた。


「ラムタフは“後継者”なんかじゃなかった。

 勇者という名を押しつけられ、出口のない一本道で迷った――ただの迷子。」


「迷子はね……闇へ落ちていくのが、一番早いの。」


その言葉が、朝の空気の表面をそっと裂いた。


「――ラムタフ=シギサ。

 あなたが次に倒さなければならない、魔王軍の将よ。」


その名が落ちた瞬間、夜明け前の世界だけが――息をするのを忘れた。

そして胸の奥で、なにかがゆっくりと軋んだ。

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