『第三話 • 2 : 紅晶の砦は、夜明けより赤かった』

朝靄がゆっくりほどけるころ──

森の向こうに“赤”が、遠い鼓動のように滲み上がってきた。


それは朝日に照らされた岩でも、

濡れた木々の色でも、光の反射でもなかった。

もっと深く、もっと重い“赤”。

胸の奥で微かに脈を叩くように響く、沈んだ赤だった。


セラフィーは歩みを止め、吐息をひとつ落とす。

「……見えてきたわ。紅晶の砦。」


リリアは眉を寄せた。

遠景に浮かぶ砦は確かに“赤”。

しかし朝光を浴びても澱みつづけ、

色そのものが腐り落ちていく途中のような、不吉な深さを帯びていた。


(……なんだ、この赤。)


胸の奥へ、小さなざわつきがそっと触れる。

寒気ではない。

心臓の裏側にだけ薄い爪痕を残すような、いやな冷たさ。


そして、気づく。


あの赤は壁でも石でもない。

砦の“奥底”から、押し返すように滲み上がってきている──

外へ漏れ出すはずのない“何か”の色だ。


息をのむような静寂が、ほんの一瞬だけ場を満たした。

その静けさは、まるで何かがこちらを見返しているようでもあった。


その沈黙を裂くように──

リリアはワン太を抱き直し、きっぱりと言い放った。


「……見えたね。紅晶の砦! よし、行こう!」


(行こうじゃねぇぇ!!

 勢いだけで言っちまったけど、今の俺、防御ゼロの豆腐ビルドなんだぞ!?

 なんの準備もなく突撃とか、ただの自殺プレイじゃね!?

 ……まあ、周りからは“勇者リリアならなんとかする”って思われてるんだろうけど、

実際いちばん状況ヤバいって思ってるの、俺なんだが!?)


冷たい風が頬を切り、胸の奥には小さな恐怖が渦を巻く。

それでも、その声はリリアの背を押し──

赤き結晶の砦へと、確かに一歩を踏み出させた。


(……にしてもさ。

 なんでよりによって“早朝出発”なんだよ。

 夜明け前に城を出たら、朝帰りの酔っ払いまで寝ぼけながら拍手してきてさ……)


(“勇者さまーーッ!! 本当にありがとううう!!”

 “あなたが行ってくれるから安心して眠れますーー!!”

 “勇者さま万歳ーー!! 愛してるぞおお!!”

 ……って、いや感謝の圧つよっ!!)


(あれ絶対、感謝だけじゃねぇよな……

 “頼むから早めに行ってくれ勇者さま!!”も混ざってただろ!?

 両手合わせて拝んでる人までいたし!!

 どんな見送りテンションだよほんと……!!)


セラフィーは横目でリリアを見て、静かに言った。

「……まあ、あなたが城に残るほうが、王都の騒ぎはもっと増えそうだしね」


「え、わたし、そんな迷惑系勇者なの!?」

(今さらっと言われたけど!? それ普通に致命傷ワードだろ!!)


セラフィーはふっと小さく笑い、さらに追撃してくる。


「……昨晩お城の冷蔵庫のアイスを十個近く食べちゃったの、誰だったかしら?」


「え、えっ!? ちょ、なんでその情報知ってるの!?

 てか十個は言いすぎでしょ!!

 ……八個だし!!」


(うわああああっ!!

 絶対アレ、厨房会議で“勇者様のアイス消費速度について”とか報告されたやつだ!!

 どんな議題だよ!!)


セラフィーは追撃の手を緩めない。


「それに今朝の朝食、あなた……プリン、三個食べてたわよね?」


「いや四個……いや違う!! 一個!! 一個!! 一個です!!」


(なんで今“口が滑って自白する犯人”みたいな流れになってんだよ俺ぇぇぇ!!)


セラフィーは小さく肩をすくめ、淡く微笑んだ。

「でも……あれだけ見送ってくれた人たちがいたのは事実よ。

 “騒がしいけど頼れる勇者さま”って、みんな分かってるの。」


(……褒められてんのかディスられてんのか、判定むずすぎるんだが!?)


ワン太が“ぽふっ”と跳ね、短く胸を叩いた。

──まるで「まあいいじゃん」と言ってるみたいに。


その“小さな和み”をぶち壊すように、ブッくんが勢いよく口を挟んだ。


「いやいやいや!! ワイから言わせてもろたらやな!!

 あれ完全に“勇者様ぁ!! はよ行ってくれぇ!!”の圧やったで!?」


「あの泣き笑いみたいな顔、感謝やのうて“心の安寧”を願っとった顔や!!

 王都の胃袋も精神も、あんさんの甘味暴走に耐えられへんかったんや!!」


「誰が甘味暴走なの!!」


「ワイ見たもん!!

 “勇者さまありがとう〜〜”言うてる後ろで、

 料理長と修道女が“どうか無事で……食材をこれ以上……!”って祈っとった!!

 あれは“敵の討伐”ちゃう、“勇者さま関連災害の軽減祈願”や!!」


「そんな祈り方ある!?」


セラフィーはため息をつき、いつもの冷静な声で締めた。

「……まあ、王都があなたを“全力で送り出した”のは確かよ。

 理由は……色々あるにしてもね」


「色々って何!!」


(……つまり結論:

 “勇者リリア、王都に長居すると無自覚にダメージが出る説”確定じゃねぇか!!

 勇者=移動する自然災害って何だよ!!)


この時の彼らはほんの少しも知らなかった。

この朝の軽口が──“砦の赤”に呑まれる前の、

後戻りできない境界線のすぐ手前で燃えていた、“最後の人間らしい温度”だったことを。


その向こうで、赤は静かに呼吸を始めていた。

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