『第三話 • 4 : 師弟の終わりと、ポストが燃えた日』

その時、リリアの胸の奥で、ぴしり、と細い罅が走った。

塞ぎ込み、押しつぶし、飲み込んでいた熱が、止め金を外された鍛冶炉みたいに噴き上がる。


次の瞬間――声より先に、魂が叫んだ。


「裏切り? あいつが魔王の将だ?」


胸の奥で、熱がひとつ破裂する。


「はっ……笑わせんなよ!」


「パーティーの金を丸抱えして消えて、

 俺の知り合いにまで 借金撒き散らして……

 返すどころか消息不明でトンズラしたままのやつが!」


怒りの温度で声がひび割れる。


「しかも全部、“女”のため!!」


「“勇者の弟子です”の看板だけ使って、

 信用だけ吸い取って、金だけ持ってったクズが!!」


胸の奥で、再びぴきり、と罅が裂ける。


「散々迷惑かけて、全部ぶん投げて……

 その末路が“魔王に寝返りました”だと!?」


怒りの針が一気に跳ね上がる。


「ふざけんなよ!!」

「ありえねぇだろうが!!」


夜気がびりっと震え、握り込んだ拳が軋む。


(……それでも“弟子だ”と信じてた俺が……

 結局、いちばんのバカなんだよ……)


視線が地面へ落ちる。

足元の影が、かつての自分の愚かさに見えた。


(魔王軍の将になったってことは……

 師として積んだ時間も、背中預けた日々も、

 全部、全部、“踏み台”だったってことだろ……?)


息を吸い込む。

胸の奥の熱が、ゆっくり鋭さへ形を変えていく。


「そんな筋書き、受け入れられるわけねぇだろ……!」


冷たい風が足元を撫でていく。


リリアは顔を上げた。

その瞳には、燃え残った情と、凍てついた覚悟が同居していた。

氷の底で火が灯ったみたいな声音で告げる。


「──ケリをつけてやる」


その一言で、空気が刹那震えた。

怒りではない。これは、もう“決別”の響きだった。


静けさが世界を覆う。


その静寂に、セラフィーが小さく横目で息をつく。


「……リリア。今の口悪さ、完全に“街角でカツアゲしてる兄ちゃん”よ。平気?」


ぎくり、と肩が跳ねる。

怒りの炎が、ほんの一瞬だけしぼむ。


(……やべ。本気でキレて素が出た……)


――その“わずかな隙”を誰よりも鋭く察知し、

 そして誰よりも長く耐えていた存在が、ついに限界を迎えた。


(……よし。ワイ、ずっと我慢しとった。

 もうええよな? 今こそ、出番やろ……!)


ばっさぁぁっ!!!


紙の爆音が夜気を裂いた。

ブッくんが跳ね起きる。


「もう無理やああああ!!

 ワイ、黙っとったけどな!! 黙っとったけどなぁぁ!!?」


墨をぶちまけ、表紙をバタバタ叩きながら絶叫。


「『勇者を継ぐ男』の闇堕ち理由が――

 よりにもよって 借金トンズラ&色恋営業 て何やねん!!」


ページが千切れそうな勢いで震える。


「もっとあるやろ!?

 “禁呪に魂売った”とか“真理に触れて壊れた”とか!!

 なんで設定が

 サラ金の夜逃げスキル Lv.3(情弱特効)

 なんやねん!!」


さらに叩きつけるように叫ぶ。


「ビッグネームやぞ!? “勇者を継ぐ男”やぞ!?

 実態はキャバ嬢に貢ぎ倒して破産した

 ただの 庶民型金融事故マン やないか!!」


「闇堕ちちゃうわ!!

 情弱サラ金マンの間違いやぁぁぁ!!」


(……いや、お前なんでそんなキレてんの?

 本気で怒ってるの俺なんだが!?)


リリアはあきれ半分、怒り半分で叫ぶ。


「そうなんだよ!!

 毎日、債権者ギルドの取り立て使い魔が飛んで来て、

 ポストなんか督促状の摩擦で火ぃ噴いたんだぞ!!

 危うくボヤ騒ぎだったんだよ!!」


「最後には、あらゆる方面から訴えられて……

 王都裁判所から正式に“召喚状”まで届いたんだぞ!?」


「勇者の弟子が!! だっせぇにも程がある!!」


(“勇者を継ぐ男” → “裁判所出頭男”……

 あぁ胃がまたひっくり返る……)


セラフィーは冷徹に言う。


「……滑稽ね。

 強さに焦る男ほど、甘い言葉にすぐ落ちる。

 まして女絡みで破滅する男なんて……救えないわ」


ブッくんもしんみり頷く。


「ワイも昔、美人セールスに丸め込まれて

 “スイーツ百科事典三十六巻”を60回払いで買ったし……

 ちょーっとだけ気持ちわかるわ……」


「わかるな!!」

リリアが叫ぶ。


(いや今そこ共感すんな!)


怒りの底で、言葉の形を拒むような“空白”がひっそり揺れた。

……怒りだけじゃない。

その感情は、胸なんて小さな器には収まらず、

もっと深いところで……ずっと燻っていた。


セラフィーは氷の刃みたいな目で言い放つ。


「……女絡みで堕ちる男は、本当に厄介。

 魔物より見苦しいわ。」

「──でも、あなたが怒ってる理由は“そこ”じゃないのでしょう?」


その一言だけは、リリアのいちばん弱いところを正確に突いた。

反論しようとした喉がひゅ、と閉まり、胸の奥で古い縫い目が静かにほころぶ。

“図星すぎて言葉が出ない痛み”が、ひどく冷たく沈んだ。


周囲の空気は軽く戻ってきているのに、

自分の胸だけが重いまま。


(……そうなんだよ。

 誰も“俺と同じ重さ”で怒ってねぇんだ)


(ほんとは、こんな話したくなかったんだ……

 “師としての失敗”なんて……誰にも見せたくなかった)


拳が、ひくりと震えた。


(あいつがどれだけ腐ってて、

 どれだけ俺が“間違えた”か……

 全部知ってるのは……俺だけだ)


(でも――決着つけなきゃいけないのは、あいつだけじゃない)


(“あの日の俺”にもだ)


視線をゆっくり上げる。


(何もできずに見てた自分にも……ケリをつける)


その時。


ワン太が“ぽふん”と跳ねて、

リリアの胸を“とん”と叩いた。


小さくて軽いはずのその一撃が、

怒りでひび割れた心の奥へ、まっすぐ沈んでいった。


ほんのり温かい余韻が、

乾ききっていた胸の奥に、そっと小さな灯を置いていくように広がる。


その灯は小さくても、たしかに息をしていた。

師としての悔恨も、仲間としての痛みも、

触れるものすべてをそっと抱きしめるような、やわらかな光だった。


深く吸い込んだ息に、その灯りが静かに溶けていく。


――まるで言っているみたいだった。


「お前だけは、間違ってない」


胸の奥で灯った温度が、

怒りを静かな決意へと形を変えていった。

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