静かに、昨日を追い越す

仰波進

短編


早朝、駅のホームは薄い霧に包まれていた。




黒田は昨夜も、やり場のない苛立ちに机を叩いた。


数字を積み上げても、誰にも褒められない。


結果の出せない同僚を見れば、胸の奥に冷たい優越感がひそんだ。




“勝ちたい”


相手じゃない。“誰か”じゃない。


訳もなく、ただ自分の中の何かに。




彼はそれを“焦り”と言い換えてもよかった。


けれど、もっと近い言葉があった。


自分が自分を追い立てている感覚。




──ここに勝ちたい。




黒田はノートを開き、今日一日やることを三行だけ書いた。




1. プレゼン資料を三枚だけ整える


2. 昼食の前に5分だけ深呼吸する


3. 帰りに一駅だけ歩く








馬鹿みたいに小さかった。


けれどこの三つが、胸の奥の透明な凶暴さに――


細い首輪のように見えた。




その日の夜、黒田は同じ駅のホームに戻っていた。


疲れていたが、ノートを開いて三つの項目の前に、小さく “✓” をつけた。


見返すたび、胸に静かな熱が灯った。




誰も拍手なんかしない。


誰も認めていない。


でも、




黒田は、ほんの少しだけ、昨日の自分を追い抜いた。




その勝利を、他人は奪えない。


言い訳も、悪意も、偶然も――


奪えない。




ホームに電車が滑り込む。


響く轟音の真ん中で、黒田はふと気づく。




強さとは、


世界より先に“自分”を整える力だ、と。




そしてそれは「征服」ではなく


自分という野生を、静かに“飼いならす”ことだった。




彼は電車に乗り込む。


手すりにつかまりながら


胸の奥に、確かに感じる。




今日は、昨日の自分に勝った。


小さい。だが美しい。




明日も、たったひとつでいい。


小さく、しかし決定的な “勝利” を積むんだ。




彼は静かに目を閉じる。


世界の喧噪など届かない場所で。





               仰波進

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