綾女さんとは、それっきりになると思っていた。自分は夫以外の誰かとの性交を含んだ関係を維持できるタイプではないと思っていたし、連絡先も知らない相手とは、物理的に関係を継続できもしない。だから私は、綾女さんとのことは、なかったことにしようとした。昼寝の最中に、妙に生々しい夢を見た。それだけのことと。

 それなのに、私は一月もしないうちに綾女さんの家を訪ねていた。それも、息子を連れて。来年から幼稚園の息子は、バスの座席に座って膝に抱きあげると、無邪気に笑った。黄色いプラスチックの降車ボタンを押したがって手を振りまわすので、慎重に胸に抱え込まねばならなかった。

 このこは、知らないのだ。母親がしてきたことを。

 綾女さんの家の最寄りのバス停で降車すると、白い日傘の人影が、バス停のベンチに腰掛けていた。深いブルーの細身のワンピースを着た彼女は、そこだけ他の風に吹かれているみたいに際立って見えた。

 「……綾女さん?」

 どこかに出かけるところなのだろうか、と思い、恐る恐る声をかける。彼女は、声をかける前から私のことを、魅惑的な切れ長の目で、穴が開くほどじっと見ていた。

 「……お出かけですか?」

 息子を抱きかかえたまま、私はぎくしゃくと尋ねた。違うと分かっていた。綾女さんはここで私を待っていたのだ。多分、毎日、ずっと。微かに日焼けで赤くなった蒼白の肌が、そのことを雄弁に物語っていた。

 「……ええ。」

 綾女さんは小さく頷くと、ゆっくり立ちあがった。

 「でも、いいの。大した用ではないから。」

 行きましょう、と、綾女さんは私の先に立って歩き出した。彼女は当然息子の存在に気が付いていたはずだけれど、ほとんどの大人がそうするように、息子に微笑みかけたり、いくつなの? なんて問いかけをしたりはしなかった。彼女が待っていたのは、私なのだ。私だけなのだ。私が、綾女さんと二人になることが怖くて、それでも会いに来ずにはいられなくて、息子をつれてきたのとは違って、彼女はあまりにまっすぐに私に向かっていた。そのことがよく分かって、私は息が苦しくなった。指一本の置き場も分からなくて、狼狽えていた。母親の震えが伝わったのだろう、息子は和菓子みたいにしっとりとした唇を微かに開け、ぽかんと私の顔を見上げていた。

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