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綾女さんは、白い日傘をさして、私をバス停まで送ってくれた。シャンパングラスを日傘に持ち替えた彼女は、まるで別のひとみたいに見えた。無邪気でのびやかだったひとが、静謐で穏やかなひとへ。どちらにしても彼女が魅力的であることは変わりがないけれど、まるで、別のひとみたいに。
「すぐにくるわ。本数は多いの。」
バス停で、綾女さんはそう言って、日傘の作る薄い色の影の中に私を入れてくれた。もう日は影ってきていたのだけれど、強い日差しを浴びたらそれだけで散り散りになってしまいそうな、繊細な色をした綾女さんの肌を見ていると、日傘はどうしても必要なのだろうとごく自然に承知された。
バスは、本当にすぐにきた。私たちがバス停について、二分も経たないうちにゆっくりと近づいてきた。いっそ乱暴なような濃い青色をしたバスは、綾女さんにも綾女さんの家にもまるで似合わず、別世界からやってきた野蛮な生き物みたいに見えた。私は、バスに乗るのが少し怖くなった。
「友利子さん?」
綾女さんが、動かない私の顔を不思議そうにのぞき込んだ。
「具合でも悪い?」
「……いいえ。」
「そう。」
私はぎくしゃくと足を前に出して、バスのタラップを上がった。整理券を引き抜いて、空いている席に座る。しょっちゅうしている一連の動作が、なぜだか奇妙に浮ついて感じられた。綾女さんは、バスの窓から私を見まもり、バスがのろのろと走り出すと、控えめに手を振った。私の慌てて手を振りかえした。
綾女さんの姿がすっかり見えなくなってから、私は、次の約束がないことに思い到った。私は綾女さんの連絡先を知らないし、綾女さんだって私の連絡先は知らないだろう。
そんな相手と寝たことは、これまでない。だから、こんなになにもかもが浮ついて感じられるのだろうか。
バスが駅に着くと、私は滞りなくそこで降車し、歩いて家へ帰った。やっぱり、雲の上を歩いているみたいに現実感がなかった。
夫はとうに家に帰っていて、ベビーシッターの女の子は私を見ると、ほっとしたような顔をしてそそくさと帰って行った。夫がこの女の子を気に入っていることを、私は知っていた。息子はいつも通り健やかで、車の絵本を広げて笑っていた。
こんな時間まで、パーティを抜け出してどこに行っていたんだ。そんな趣旨のことを夫は口にしなかった。そもそもいつもそうであるみたいに、黙ってソファに座って新聞を広げていた。だから私も、なにも言わずに夕食の支度にかかった。なにもかもが、昼寝の途中に見たただの夢みたいに思われて仕方がなかった。
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