綾女さんとはもう、肉体関係は持たないと思っていた。そのために息子をつれて来たと言っても過言ではなかった。もう、あなたとは寝ない。その宣言に息子を使ったのだ。けれど、綾女さんには、私のその卑怯な策略は通用しなかった。

 綾女さんは、彼女の家のリビングに私と息子を通し、息子にカルピスを、私に紅茶を出してくれた。私はカルピスの入ったグラスを見ながらなんだか意外な気がしたけれど、このひとにも息子とそう歳の変わらない子どもがいるのだ。そして私が息子に、リュックサックに詰めてきたお気に入りの絵本をわたしたのが合図だった。

 綾女さんが私の手を引く。私はびくりと身体を硬直させた後、ゆっくりと彼女の腕にもたれかかる。そして、私と綾女さんはリビングの隣の台所の床で関係を持った。息子になにかあればすぐにわかるように、ドアを少し開けておいたけれど、それで私の罪が軽減されるとは思っていない。私は確かにそのとき、息子の母親でいることよりも、綾女さんのおんなでいることを選んだのだ。

 セックスは、あの日の再現だった。身体に綾女さんへの好意と欲望を自覚させられたのだ。私は泣きたかったし、逃げたかった。それなのに、私の身体が綾女さんに縋りついて離さなかった。射精という終わりのない、蜜の海に溺れるみたいな時間。綾女さんの肌と血が香る。

 息子は、いいこだった。泣きもしなければ、母を捜しに来ることもなく、ひとりリビングで遊んでいた。私はどうしようもなく、息子の泣き声を待った。それだけが私をこの蜜の海から引き上げてくれると。けれど息子は、決して泣かなかった。

 昼過ぎに綾女さんの家へ着いて、私たちが肌を離したのは、日が暮れかけてからだった。その間息子は、リュックサックいっぱいの玩具をリビングの床中に広げて遊んでいた。

 「……いいこね。」

 囁くように綾女さんが言った。

 「……ええ。」

 私もごく短く答えた。

 息子はいいこ。それは確かなことだった。それなのに私は、いい母親でいられなかった。

 夫が帰って来る前に、私は息子を連れて家へ帰った。バス停まで綾女さんが送りに来てくれた。息子は綾女さんと手を繋ぎたがり、綾女さんもそれを拒まなかった。

 手を繋いで歩く息子と綾女さんの背中を見て、私は、息子が物心つく前に、綾女さんとは離れなければ、と思った。そうしなければいつか、息子は綾女さんに惹かれてしまう。綾女さんには、それだけの引力があった。それなのに私は、もうここへは来ないと、その決意をすることができなかった。

 

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