第一章 皿(2)

窓際の席に座った彼女は、「凄い……」と言ったきり、メニューのページを一枚一枚、食い入るように見つめている。まるで、青い瞳からレーザーでも出ているかのようであった。店に入る前に束ねたポニーテールの括り目が、視線に合わせて、ゆっくりと左右に揺れている。

ついに間が持たなくなって、志音は尋ねた。

「ええと……君は確か、未来から来たんだよね?」

「そうよ」

顔を上げずに、彼女は答えた。

「それで、歴史改変阻止者……」

「そう」

「……じゃあ、未来のことを教えてくれる?」

「いいわよ。何が知りたい?」

意外な回答に、志音はとまどった。いや、こういうのは、教えられないルールになっているのが定番なのでは?……

「お決まりですか?」

気が付くと、ウェイトレスが立っていた。

「あ、ああ、じゃあ、ナポリタンで! 君は?」

「私は水でいいわ」

「え?」

それまでのメニューの凝視はどこに行ったのか、いや、凝視はまだ続いていた。耳を澄ますと、メニュー名を一つ一つ小さな声で読み上げている。

「ナポリタン一つ、かしこまりました」

そう言って、ウェイトレスは去ってしまった。食事に行こうと誘ったのは彼女の方なのに……。衣料量販店で服を買わされた後、彼の中では分断が起きていた。身ぐるみを剝がされるかも知れない、怪しげな何かに勧誘されるかも知れないと、彼の中の一部がけたたましく警戒音を鳴らしていたが、別の一部の、彼女の違和感の原因を確かめたいという誘惑に抗うことができなかった。結局、彼は登校を諦めて、彼女を連れ、ファミリーレストランに入ったのだった。

デザートまでの密やかな呪文の詠唱が終わると、ようやく彼女は顔を上げた。

「……よく覚えてたわね?」

「え、何が?」

「歴史改変阻止者って言葉」

「……あ、ああ」

志音は後頭部に手をやりながら視線をそらした。

「何か、一度見聞きしたものは忘れない癖があるみたいで……」

「ふ~ん……」

彼の答えに彼女は興味を示したようだったが、それ以上は聞かなかった。

「で、未来の何が知りたいの?」

彼女は身を乗り出し、彼はたじろいだ。実は、沈黙を埋めるために質問しただけで、特に何かを知りたかったわけではなかったからだ。

「あ、ええと、じゃあ、日本の次の首相は?」

「□□□□」

間髪を入れずに、彼女は男性芸能人の名前を口にした。

「え? 彼は政治家じゃないよ」

「今はね。彼は日本の未来を憂いて、まずは都知事選に出馬し、圧倒的知名度で当選。その後、国会議員から首相へと昇り詰めるわ」

「まさか?!」

「そして、強い日本を主張して国防費を増額し、軍用ロボットの実用化なんかにも積極的に取り組むわ。結果、近隣の国々との軋轢を深める。確か、どっかの島での小競り合いもあったわね。そして、最期は航空機事故で……」

「待って待って!」

淀みなく続く彼女の話を、志音は慌てて遮った。

「それが日本の未来だっていうのか?!」

「ええ」

こともなげに彼女は言った。

「信じられない!」

「別に信じなくてもいいけど、それが本当の歴史よ」

「でも……そんなことを話していいの?」

「何故?」

「何故って、僕がそれを誰かに話すことで未来が変わったり、つまりその、□□□□が首相にならなかったりするのでは?」

彼女は笑った。

「第一に、あなたはそんなこと誰にも言わない、第二に、誰かに言ったとしても誰も信じない。そして第三に……」

そこで、彼女の顔からは笑みが消え、じっと彼を見つめた。

「誰も覚えておくことはできない。例え、物覚えのいいあなたでもね」

どういうことだ?……頭が混乱した。嘘っぱちだ。彼の一部が言う。どうせ確認できないんだから、出鱈目を言い連ねただけだ。別の一部は考える。何か、彼女が言うことを確認できる術はないか?…………彼女が未来から来たことを証明する何か……

「じゃあ……じゃあさ、今から10分後、ここで何が起きるか知ってる?」

目まぐるしく思考を巡らせた彼は、何とか質問を紡ぎ出した。彼女は一瞬思案したが、やがて自信たっぷりに答えた。

「ええ。あなたがナポリタンを食べているわ」


* * *


「つまり……どういうこと?」

彼女の言っていることは相変わらず全く信用できなかったが、ナポリタンを食べ終わった志音は、その話に乗ってみていた。

「だから……」

彼女は天井を見つめながら、何かを紡ぎ出すように、右手の人差し指をクルクルと回した。視線が左右に彷徨いながら下へと下りてきて、テーブルの上の水の入ったグラスに目が止まる。彼女はそれを持ち上げると傾けた。水が糸のように流れ落ち、店の床が瞬く間に濡れていく。

「ちょっと?!」

志音が慌てるのに構わず、彼女は説明を始めた。

「これが時間の流れ。我々は『真時間』と呼んでるけど。あらゆるものは、この流れに乗って、ただただ未来へと流れ落ちる」

そういうと、テーブルの上から皿を取って、膝辺りの流れにそれを差し込み、胸元まで持ち上げた。水は皿へと溜まり始める。

「過去への転送は、流れの中に板を差し込んで、上流に押し返すようなもの。すると、時間は板の上を流れ始める。これが『偽時間』」

「『偽時間』?!」

「そう。私達は流れに乗ってるから、それには気付かない。でも流れる方向は変わっている。そして、偽時間の間に起こったことは、世界の揺らぎ。実は何も確定していない」

彼女が話している間に、皿に溜まった水は縁からこぼれ出した。

「そして、流れが板を迂回し切った時、時間は再び真時間となり、揺らぎは定着して歴史となる。こうして未来は書き換えられる」

そういうと、彼女は顎で床を指した。先程までとは違うところに、水たまりができていた。彼女は皿をテーブルに戻した。

「だから、水が皿から溢れる前に、皿を叩き割れば、未来は守られる、ということ。どう?」

空になったグラスもテーブルに戻した彼女は、これくらい分かるでしょう、という具合に両手を広げた。

 いや……一体どういうことだ?

丁度そこに掃除夫が通りかかり、盛大に濡れた床に気付くと、二人を睨みながら、黙ってモップで拭き始めた。志音は思わず彼女の顔を見た。早く謝らないと!……しかし、彼の期待は完全に裏切られた。

「あら、おかまいなく!」

掃除夫の背中に、全く悪気のない響きで、彼女は語りかけたのだ。志音は頭を抱えた。ああ、やはり関わってはいけない人だった……

「問題は皿の大きさよ」

志音の反応には目もくれずに、彼女は皿を指さした。

「皿が小さければ、水はすぐに溢れて地面に落ちる。歴史は書き換わるけど、オリジナルとの差異は僅かよ」

親指と人指し指で、水の落ちる位置の差を示す。

「皿が大きくなると、なかなか水は溢れないけど、溢れた時にはより遠くに落ちる」

ようやく意味するところが分かって、彼は声を上げた。

「つまり、歴史は大きく書き換えられる?」

「そう」

微笑んだ彼女は、再び皿に手を添える。

「この皿の大きさが、実際には、転送される物体の質量に相当する」

「質量?」

「そう。重さだけ。何であるかは関係ない」

そこで、彼女は窓の外の空を見上げた。相変わらず、ヘリコプターが飛び回っている。

「あの銀色の球体は、間違いなく未来から転送されたものよ。それも、いまだかつてないほどの質量を持っている。あれのおかげで、今、この世界は長い偽時間の中にいる……」

遠くに目をやりながら、彼女は眉根を寄せた。

「徹底的に改変するつもりだわ……」

「……で、でも、誰がそんなことを?」

「『メタクニーム』と名乗るテロ組織よ。私達ラキシス機関の宿敵」

「メタクニーム……」

「よく分からない教義を掲げて、歴史の改変を繰り返している」

「それを、ラキシス機関が防いでる?」

「ええ。そういうこと」

そう言うと、彼女は軽くテーブルを叩いた。

「じゃあ、お腹も満たされたところで……偵察、行こっか?」


* * *


球体を取り囲むように張られた非常線の、更にその外側を、二人は野次馬を避けながら、ゆっくりと歩いて一周した。その間、彼女は殆ど口を利かず、鋭い視線で球体を見上げていた。時折、立ち止まってその反対側を見渡す。その表情は、歴史改変阻止者のもの、と思えなくもなかった。次第に、球体の陰へと日が落ちていく。夕暮れが近づく空に聳える、その球体の黒い影は、その存在の異様さを増幅させているようだった。ふと、志音は送電鉄塔を思い出した。美しい夕焼けを背景に、影絵のようになった巨大な送電鉄塔。鉄塔は立ち尽くしたままだが、それが携える電線には、何万ボルトもの電流が流れている。幼いころから、彼はそれを見ると背筋がぞくぞくした。そんな、強大なエネルギーを内に秘めて佇む鉄塔に似ている、と彼は思った。ただ、この球体が秘めているのは、正体不明の不気味なエネルギーだ……

一通り偵察なるものが終わり、夜が近づくと、彼女は、志音の部屋に泊めてくれるように懇願した。お金がないというのが理由だったが、彼は、それだけは、と固辞した。代わりにホテル代を出すというと、彼女はホテルの方に興味を引かれたようであった。ひとまず一泊分の料金を払って、彼はビジネスホテルに部屋を確保した。

「へぇ……こんな感じなんだ……」

部屋の隅々を見渡しながら、中へと歩み入る彼女を、彼は戸口で見ていた。

「……じゃあ、僕はこれで……」

「待って! 明日のことなんだけど……」

振り返る彼女の言葉に、彼は眉を顰めた。

「……明日?……」

窓の外の西日が、彼女のシルエットを浮かび上がらせる。

「この街のこと、もっと色々知りたいの。ホテルの前に、10時集合でいいかな?」

 ……エスコートは終わりじゃないのか?……

彼女も送電鉄塔のようだ……不意にそう思った。目の前に立つ彼女は、穏やかに微笑んでいる。彼が同意することを疑わない目だ。しかし、何か得体の知れないエネルギーを、内に秘めているようだ。それが、青い瞳から垣間見えている。

「……ああ、分かった……」

「ありがとう! じゃあ、また明日!」

嬉しそうに弾んだ声を耳に、彼は部屋を後にした。

 ……どういう子なんだ?……

ホテルを出ながら、彼は今日一日の出来事を反芻した。

球体と共に、日常を切り裂いて突然現れた彼女、アミカナ。変わっているのは間違いない。が、狂っている……とも思えなかった。しかし、信じられる根拠が一切ないことも事実だった。

<止めとけ。明日ホテルに行かなければ、彼女との繋がりはもうなくなる。名前しか知らないんだから>

彼の一部が囁く。もっともな判断だった。なんだかんだ言って、結局お金だけを払わせられている。明日、彼がホテルに迎えに行かなければ、彼女は次の獲物を探すに違いない。

 ……しかし……

<何だ? また蜘蛛の糸にすがるのか?>

 ……まあ、そうかも知れない。しかし、この蜘蛛の糸は、ちょっとやそっとじゃ切れない、そんな気がした。ぞくぞくする様な力を秘めている。そして、それにすがって辿り着いた先に、天国はない、そんな気もしていた。

ふと、彼はスマートフォンの画面を見た。大量に届いていた友人からのメッセージを流し読みする。

『今日のミーティングどうした? 教授、激怒りだったぞ。例の球体でも見に行ったのか?』

 ……ああ、そう言えばそうだった……。定式化に頭を悩ませていたことが、遥か昔の出来事のように思える。彼は返信した。

『いや、ちょっと体調が悪くて』

少し考えて、彼はメッセージを付け足した。

『ごめん、明日も休むわ』

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