時間戦士は永遠の夢を見るのか
刹那メシ
第一章 皿(1)
<月曜日>
……昨夜は最悪だった……
まだ頭痛が残っている。
結局、「あの」後、どうやって家に帰ったのか、覚えていない。覚えていないなんて、そうそうないことだ……。それにしても……
「あれ」は現実だったんだ……
彼はテレビの画面を横目で見た。どの番組も、近くの公園に突如出現した、ガスタンクのように巨大な銀色の球体の話題で持ちきりだった。様々な角度から空撮が行われ、警察が張った非常線の前で、興奮したレポータが喚いている。
本来ならテレビにかじりつきたいところだったが、球体を凝視すると、昨夜の経験が蘇って来そうで、彼は耳だけを傾けていた。だが、当然のことながら、それが一体どこから来たのか、誰が置いたのかは分かるはずもなく、ただただ「信じられません」の言葉を繰り返すだけであった。スマートフォンにも、友人からのメッセージの着信音がなり続けている。きっと、この球体に関することだろう。しかし、今は返信する気分にはなれなかった。
いつもならまだ寝ている時間だった。何も手につかず、カーテンも開けずに、再びベッドに転がる。
机の上にはノートが広げたままだ。昨日の飲み会の直前まで、三角関数をこねくり回していた。しかし、エネルギー式が簡単になることはなかった。帰ったら続きをやるつもりだったが、昨夜はどうでもよくなっていた。
放置されているのはノートだけではない。台所のシンクには、何日も前に使った食器に水が張ったままになっている。取り込んだ洗濯物は、ベッドの隅に山盛りになっている。ポストから取り出した不要なチラシは、ノートの下でパッチワークのようになっている。あらゆるものが、中途半端な状態であった。ふと思い立って、彼は冷蔵庫の扉を開けた。部屋の中は物で溢れているのに、冷蔵庫の中には何もなかった。胃も空っぽだった。
鳥のさえずりが聞こえる。光に満ちた新しい一日の到来を祝福するように、せわしなく鳴く。何をそんなに鳴く必要があるのか……。昨日と何も変わりはしないのに……。
くたびれたリュックにノートを詰める。隣にあった就職活動のガイド本も手に取ったが、ため息をつくと、それを机の上に投げ捨てた。勢いでチラシの雪崩が起きたが、片付ける気にもならなかった。
……大学、行くか……
彼はつぶやいた。
* * *
普段より早いせいか、駅前を歩いているのは、サラリーマンが大半だった。未曽有の出来事がすぐ間近で起こっているにも関わらず、殆どの人は退屈なルーティーンを維持しようと努めているようだった。晴れた朝の日差しは爽やかだったが、彼には、世界全体が灰色に沈んでいるように見えた。
僕もこうなるのだろうか……
彼の夢は、飛行機を作ることだった。幼い頃乗った飛行機。離陸の時の加速も衝撃的だったが、着陸の前に、翼の後端からゆっくりとフラップが引き出されていくのを、彼は窓側の席で、固唾を飲んで見守っていた。それは、鋼の鳥が悠々と翼を広げていくようであった。数百トンの体を宙に浮かそうという、揺るがぬ意志が感じられた。こんな機械を作りたい――そう思った。
だが、航空宇宙工学科が有名な大学には合格できなかった。受験勉強は頑張ったつもりだったが、試験前日に体調を崩し、散々な結果に終わった。浪人させる余裕はないと親に言われ、滑り止めの大学に入学した。そこにも、流体工学に関する研究室があったが、授業の成績が悪く、配属希望が通ることはなかった。結局、一番人気のない研究室に配属され、何故か編物のシミュレーションに関する研究をしている。教授は偏屈な人で、研究ミーティングでの叱責は一時間を超えないことはなかった。航空関連会社への就職活動を始めて久しいが、未だ内定はもらえていない。研究室で内定がもらえていない学生は彼だけだった……
フラップの動きはあれほど鮮明に思い出せるのに――夢のきっかけは、これほどまでに明確なのに、一歩、また一歩とそれからは遠ざかっていく。街行くサラリーマン――彼らにも夢はあったはず。それが、生活のため、家族のため、妥協を繰り返すことで、生気を失った毎日を送ることになるのか――
いっそ、夢を忘れた方が幸せかも知れない。夢などなくても、それなりに日々の幸せを感じて生きていくことはできる――はずだ。
だが、忘れられない。手に届かないのに忘れられない夢があることで、人は苦しむ。少なくとも、僕は苦しい。人は何故夢を見るのか。それを叶えられる人など、ほんの一握りもいないのに。そして、殆どの人は、挫折と諦めに満ちた毎日を過ごすのだ……。どこが間違っていたのだろう。どこかで選択をやり直せば、今とは違う世界が広がったのだろうか……
ふと、灰色の淀みの中に、青白い稲妻を見たような気がして、彼は思わず足を止めた。
駅前にある時計の柱の前に、一人の女性が立っていた。
ラピスラズリのように青く輝く瞳。艶やかな漆黒のロングヘア。ハーフなのか、日本人にしては高い鼻筋に、まるで陶器のように白く透き通る肌。そして、すらりと伸びた四肢は、光沢のある黒いボディスーツに包まれている。そのタイトなスーツは、凹凸のある彼女の滑らかなボディラインをくっきりと描き出していた。朝から感情の失せた顔で駅に向かうサラリーマンの集団の中で、彼女の瞳は、冷徹な意志を宿しているようであった。
彼は彼女から目が離せなかった。美しさに目を奪われたことは否定できなかったが、何かもっとこう、心の中で何かが弾けたような気がした。旧友に再会した時の喜びのような……。
あまりにも不躾に見ていたせいで、彼女は彼の視線に気づいた。慌てて彼は目を逸らしたが、今度は彼女の視線が自分に投げかけられるのを感じた。かかとを鳴らしながら、彼女は彼へと近づいてきた。焦った彼はその場を立ち去ろうとしたが、足早に歩み寄った彼女は、彼の進路を塞いだ。
「ねえ!」
流麗な声が響く。見慣れない青い瞳が彼の顔をまじまじと覗き込む。とがめられることを覚悟した彼だったが、彼女に怒りの気配はなく、何かを吟味しているようであった。
「……まあ、あなたでいいか……」
一瞬、かすかに肩をすくめると、彼女は微笑んだ。それは、雲間から陽の光が差し込んだかのようであった。
「こんにちは! 私はアミカナ=デフォルマ。あなたにとっては遥か未来からやって来た、歴史改変阻止者よ。あなたにエスコートをお願いしたいの」
流暢な日本語ではあった。しかし、密かに神の福音を期待した彼は、自分の耳を疑った。
……未来から来た?……
違和感の波が押し寄せる。いや、最初に目にした時から、彼女は違和感の塊だった。
……遥か未来からやって来た?……
「あなたは?」
まるで理解の追い付かない彼に、彼女が聞いていた。
「え?……」
「あなたの名前よ!」
「あ……ああ、僕は橘志音」
「しおん……いい名前ね」
そう言うと、彼女は彼の腕に自分の腕を巻き付けた。スーツで強調された胸が押し付けられる。
「じゃあ志音。まずは、この時代で浮かないような服を買ってくれる?」
一切の拒絶を寄せ付けない、輝くような笑顔で、彼女は言った。
* * *
「凄い! 何これ?!」
彼女は、進むにつれて微妙に色合いを変える、高々と積み上げられた大量のTシャツの棚に目を輝かせた。手に取る訳でもなく、Tシャツの折り目に指先をなぞらせながら、棚の中を進んでいく。
「ねえ! こんなにあるけど、これ、全部売れるの?」
振り返ると興奮気味に尋ねる。
「いや、売れないよ、多分。ディスプレイしているだけさ」
「ふ~ん……」
志音の答えを、彼女はまともには聞いていないようだった。やはり、帰国子女か何かなのか?……
その時、志音は気付いた。彼女の背中、腰の辺りに、ホルスターに収まった黒い金属があることを。
……銃?……見たことのないものだったが、銃に思えた。グリップがあることは間違いなかった。
……コスプレか……。それなら、こんな立ち振る舞いでも分からなくはない……。それは、特定のものに偏執的な愛情を注ぐ人達に対するステレオタイプの感想ではあったが、志音はそれで彼女の違和感を無理矢理納得しようとしていた。
「これ、いいわね……」
気が付くと、彼女は店内に飾られたマネキンの衣装に目を止めていた。襟元にレースのフリルが波打つ白いブラウスに、サテン調の赤いリボンタイが蝶のように結ばれている。深いドレープが印象的なベージュのフレアスカートが、美しい濃淡を描き出していた。華美な感じはない。個性的とも言えない。しかし、それは、何かしら彼女の琴線に触れたようであった。
「これ、欲しいんだけど……」
振り返ると、志音に微笑む。
「試着してみる?」
彼が聞くと、彼女は一瞬眉をひそめた。
「試着?……ああ、実際に試せるんだ」
え……彼が聞き直す前に、彼女は勢いよく彼に顔を近づけた。
「してみる! してみる!」
「……じゃあ、試着室はそこ」
思わず後ずさりながら、彼は指を指した。彼女は、マネキンにそばに置いてあった同じ衣装の一セットを手に取ると、少しだけ躊躇うように試着室へと入った。カーテンを閉めかけて、ふと振り返る。
「えーと……」
何かを思い出すかのように天井を見つめる。
「何?」
尋ねる彼に彼女は目を戻すと、すがるような表情を作り、芝居がかった口調で言った。
「決して覗かないで下さいね」
そういうと、彼女は大きな音を立ててカーテンを閉めた。それが閉じる直前、彼女の照れくさそうな笑顔が見えた気がした。
唖然とした志音は、やがて苦笑しながら呟いた。
……鶴の恩返しか?……
<恩なんて与えてないだろ>
不意に、彼の中の一部が囁いた。
<逃げるなら今のうちだぞ。彼女、明らかにおかしいじゃないか>
……おかしくはない。変わってるだけさ……
<ものは言い様だな。外見に惹かれただけのくせに。また選択を誤るなよ>
……うるさい!……
……選択……僕の選択……
彼女も蜘蛛の糸なのだろうか? 例え他人を蹴落とさなくても、触れただけで、容赦のないバチが当たるのだろうか? 昨日のように……
彼が激しく頭を振った時、カーテンがゆっくりと開いた。
志音は息を飲んだ。ブラウスとスカートが、先刻までの彼女の違和感を完全に包み込み、そこに赤い蝶結びが添えられることで、ただただ美しさだけを際立たせていた。彼女は、少しだけ照れくさそうにほっそりとした指先でスカートを摘まむと、ひらりひらりと上半身を左右に捻ってみせた。彼女の動きを追いかけるスカートの裾から、着たままのボディスーツの漆黒な足が覗く。その動きは、どこかぎこちなく、しかし嬉しそうだった。
「どう?」
彼女は、志音の顔を覗き込むようにして言った。唯一残った違和感である深く青い瞳が輝く。
「……ああ、似合っているよ……」
志音は何とか言った。
「そう! よかった」
嬉しそうに両手を顔の前で合わせると、そのまま試着室を出る。一瞬、引き留めようとしたが、ボディスーツのまま会計をする彼女の姿を思い浮かべて、まあいいか、と志音は思った。
「お金足りる?」
振り返りながら彼女が尋ねる。
「え?」
何のことか分からず、志音は戸惑った。確かに、最初に「買ってくれる?」とは言ったけど……まさか……
「ごめん、私、お金ないんだ。」
顔の前で再び両手を合わせた彼女は、一瞬視線を逸らすと、再び彼に青い瞳を向け、にっこりと微笑んだ。
「おごってもらえる……でしょ?」
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