電車の車内で。
――それは、仕事という戦場からようやく解放され、家路に就くために乗り込んだ電車のシートに、ヘトヘトに疲れ切った身体を預けていた時の出来事だった。
某不動産会社の営業係長である俺――
「どうも、お久しぶりです。また会いましたね」
「え? ……その、すいません。どこかでお会いしましたっけ?」
「あれ、覚えていませんか? ほら、つい先日、居酒屋で部下らしい人と揉めていたじゃないですか」
「……あぁ、ありましたね。今ではもう二度と思い出したくもない、忌まわしい黒歴史になってますけど……」
「その居酒屋で、一人寂しくカウンター席で飲んでいた、あの
「……いや、あの野口清ですって力説されましても、常識的に考えて覚えているわけありませんよね?」
「……そう、ですよね。すいません。再会したことに興奮してしまい、先走りました。ワタシたちはほぼ初対面だというのに……」
「……ほぼ、じゃなく。社会通念上から言えば完全に初対面だと思うんですけど……」
「でもあのときは可哀想でしたね」
「いやいや。あの程度でへこたれていたら、中間管理職なんて務まりませんから」
「アナタのようなパワハラ上司のせいで、恋人と破綻寸前まで追い込まれていた、あの部下の人が」
「ほぉ〜、こりゃ驚いた。まさか目の前にいる俺ではなく、ここにはいない部下の方の肩を持つとは。アナタにしろ、部下にしろ、いつからこの国は狂った思考回路を持った人間が
「……実は、ワタシもある会社で事務員として勤めておりましてね」
「なるほど。アナタみたいな変人を雇わなければならないほど、昨今の企業は人手が足りていないんですね。ほんと、人材不足はこの国にとって深刻な問題だなぁ」
「そこでワタシ、アナタのようなパワハラ上司の下で働いているんです」
「パワハラを受けているんですか? でもいま俺は、アナタからパワハラ上司なんて
「毎日、些細なことで叱責され、過重労働を押し付けられ、挙げ句には無視されたりしてるんです」
「……それは非道い」
「遅刻したぐらいで叱責し、五人も参加する会議の出席者リストを一日だけで作成しろと過重労働を押し付け、会社で使う日用品の発注を間違って倍以上も発注して頼んでしまい、それを謝罪しても完全に無視し続けたりするんです!」
「……うん。非道いね。アナタのポテンシャルの低さが。一瞬でもアナタの上司を
「あの、ワタシはこのままこの会社で働き続けたほうがいいと思いますか?」
「
「……そうですよね、わかりました。アナタのおかげで決断できました。ワタシ、この仕事をやり続けます!」
「言ってませんよ。仕事を継続しろなんて、誰もそんな世迷い言なんて言っていませんよ」
「ありがとうございました。真摯にワタシの相談に乗ってくださり」
「……相談に乗ったつもりなんて、これっぽっちもないんですけど。それにアナタも、最初からこちらの話なんて聞く気なかったですよね?」
「では、次の相談なんですけど」
「次!?
「ワタシ、離婚した後、再婚しているんですよ」
「ほぅ。こちらの都合もお構いなしに話を進めますか……。何年も仕事帰りに乗ってきた電車ですが、今夜ほど降車駅が待ち遠しく感じたことはありませんよ」
「その再婚というのが、少し訳ありでして」
「訳あり?」
「はい。それが、その……。不倫の末での再婚なんですよ」
「えー! それ、
「はい。そして、妻の元夫がいまの上司なんです」
「マジですか! だったら上司から見れば、アナタは妻を奪った
「でも上司も再婚したんですよ。その相手はワタシが現在の妻と結婚するために別れた、元妻なんですけど」
「なんですか、その
「それで、再婚を機に、ワタシには連れ子である一人息子――
「一人息子さんが?」
「はい。陽平は社会人で、もう外で働いているんですけど……。父親であるワタシが言うのもなんですが、将来が本当に楽しみな息子なんです!」
「へぇ〜。なんだが自慢の息子さんみたいですね」
「そうなんですよ! だって好きな食べ物がドックフードなんですよ!」
「……え?」
「ドックフードは好きなのに、犬そのものには強烈な憎悪を抱いていたりして!」
「……過去に、犬との間で何がしらの壮絶な因縁でもあったんですかね」
「それに近々、自分を支配者として迎えるため、異世界から使者がやってくるとも言っていて!」
「……ほぉ〜。異世界から支配者として迎え入れられる。これはまた見知らぬ土地で大仕事があったものですね」
「そして最終的にはこの全銀河を征服して、自分は
「……それはまた、
「それに息子とは、会った当初から妙に気が合いましてね」
「似た者同士、どこかで波長が合ったんじゃないんですか。類は友を呼ぶって言いますし――非常識は非常識を呼ぶ、ってやつですよ」
「ちょ、そんな運命めいた出会いみたいな言い方しないでくださいよ。照れるじゃないですか」
「まぁ照れますよね。非常識同士が運命の悪戯で親子になってしまったんですから……」
「……それで、ここからが本題なんですけど。実は、陽平には結婚を前提にお付き合いしている彼女がいるんです」
「彼女? それは空想からなる架空の人物ではなく、現実世界にいる人間の女性ですか?」
「もちろんそうですよ! その彼女は
「なんとまぁ。そんな女性が常識はずれの息子さんと結婚を前提に付き合っているとは。いや、世の中には
「そうなんですよ。なんたって、ワタシの娘ですから!」
「……はい?」
「息子が付き合っている彼女というのが、離婚した元妻との間に生まれた、ワタシの一人娘なんですよ!」
「……ここまで来ても、まだ家族ネタをぶちかましてきますか、アナタという人は……」
「そこで重大な問題が発生するんですよ」
「重大?」
「えぇ。もし陽平と娘が結婚したら、ワタシは娘を呼び捨てにしてもいいんでしょうか。それともやはり『さん付け』で呼んだほうがいいんでしょうか?」
「呼び方なんてどうでもいいでしょう! それよりアナタ、息子さんと娘さんが結婚したら、略奪婚した上司と、不倫の果てに離婚した元妻と親族になるんですよ!? そっちのほうがよっぽど重大じゃないですか!」
「……え? なんでですか?」
「こ・の・ひ・と・は!」
「あ、すいません。ワタシ、この駅で降りますんで。相談に乗ってもらってありがとうございました。おかげで気持ちがスッと楽になりました」
なんて、なんとも自分勝手なことを告げると、野口と名乗ったその男は、清々しい顔をして電車から降り、人混みの中へと消えていった。
「……いったいなんだったんだ、あの人は……」
これまでの出来事に頭が追いつかず、ただ呆然としていると、誰かが俺の肩をチョンチョンと人差し指でつついてきた。
顔を向けると、そこには野口の反対側に座っていた、五十代半ばほどの女性が、ニッコリ微笑んでこちらを見ていた。
この展開は、まさか……
「それじゃあお兄さん、今度は私の相談に乗っておくれ」
「も、もう、イヤだァァァっ!!」
俺の悲痛な叫び声が電車の車内に響き渡るのであった。
―――完―――
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