電車の車内で。

――それは、仕事という戦場からようやく解放され、家路に就くために乗り込んだ電車のシートに、ヘトヘトに疲れ切った身体を預けていた時の出来事だった。


 某不動産会社の営業係長である俺――高橋裕介たかはしゆうすけに、隣に座っていた五十代半ばぐらいの白髪まじりの男性が話しかけてきたのだ。




「どうも、お久しぶりです。また会いましたね」


「え? ……その、すいません。どこかでお会いしましたっけ?」


「あれ、覚えていませんか? ほら、つい先日、居酒屋で部下らしい人と揉めていたじゃないですか」


「……あぁ、ありましたね。今ではもう二度と思い出したくもない、忌まわしい黒歴史になってますけど……」


「その居酒屋で、一人寂しくカウンター席で飲んでいた、あの野口清のぐちきよしですよ!」


「……いや、あの野口清ですって力説されましても、常識的に考えて覚えているわけありませんよね?」


「……そう、ですよね。すいません。再会したことに興奮してしまい、先走りました。ワタシたちはほぼ初対面だというのに……」


「……ほぼ、じゃなく。社会通念上から言えば完全に初対面だと思うんですけど……」


「でもあのときは可哀想でしたね」


「いやいや。あの程度でへこたれていたら、中間管理職なんて務まりませんから」


「アナタのようなパワハラ上司のせいで、恋人と破綻寸前まで追い込まれていた、あの部下の人が」


「ほぉ〜、こりゃ驚いた。まさか目の前にいる俺ではなく、ここにはいない部下の方の肩を持つとは。アナタにしろ、部下にしろ、いつからこの国は狂った思考回路を持った人間が跋扈ばっこする国になったのだろうか」


「……実は、ワタシもある会社で事務員として勤めておりましてね」


「なるほど。アナタみたいな変人を雇わなければならないほど、昨今の企業は人手が足りていないんですね。ほんと、人材不足はこの国にとって深刻な問題だなぁ」


「そこでワタシ、アナタのようなパワハラ上司の下で働いているんです」


「パワハラを受けているんですか? でもいま俺は、アナタからパワハラ上司なんて事実無根じじつむこんの中傷を受けている真っ最中なんですけど?」


「毎日、些細なことで叱責され、過重労働を押し付けられ、挙げ句には無視されたりしてるんです」


「……それは非道い」


「遅刻したぐらいで叱責し、五人も参加する会議の出席者リストを一日だけで作成しろと過重労働を押し付け、会社で使う日用品の発注を間違って倍以上も発注して頼んでしまい、それを謝罪しても完全に無視し続けたりするんです!」


「……うん。非道いね。アナタのポテンシャルの低さが。一瞬でもアナタの上司を陰湿いんしつな人間ではないかと疑ったことを、当の本人の前で土下座して謝りたいぐらいですよ」


「あの、ワタシはこのままこの会社で働き続けたほうがいいと思いますか?」


速攻そっこうで辞表を出しましょう。それが会社のため、上司のため、ゆくゆくはこの国のためなると思うんで」


「……そうですよね、わかりました。アナタのおかげで決断できました。ワタシ、この仕事をやり続けます!」


「言ってませんよ。仕事を継続しろなんて、誰もそんな世迷い言なんて言っていませんよ」


「ありがとうございました。真摯にワタシの相談に乗ってくださり」


「……相談に乗ったつもりなんて、これっぽっちもないんですけど。それにアナタも、最初からこちらの話なんて聞く気なかったですよね?」


「では、次の相談なんですけど」


「次!? 露骨ろこつに迷惑がっている俺に、まだ相談しようとするその無駄な勇敢さはどこから湧いて出てくるんですか!?」


「ワタシ、離婚した後、再婚しているんですよ」


「ほぅ。こちらの都合もお構いなしに話を進めますか……。何年も仕事帰りに乗ってきた電車ですが、今夜ほど降車駅が待ち遠しく感じたことはありませんよ」


「その再婚というのが、少し訳ありでして」


「訳あり?」


「はい。それが、その……。不倫の末での再婚なんですよ」


「えー! それ、略奪婚りゃくだつこんじゃないですか!」


「はい。そして、妻の元夫がいまの上司なんです」


「マジですか! だったら上司から見れば、アナタは妻を奪ったにくき相手ということじゃないですか! アナタ、そんな気まずい職場で、よくついさっき『やり続けます!』って豪語ごうごしましたね! 鋼の精神もここまできたら、もう恐怖でしかありませんよ!」


「でも上司も再婚したんですよ。その相手はワタシが現在の妻と結婚するために別れた、元妻なんですけど」


「なんですか、その複雑怪奇ふくざつかいきな人間関係は!? テレビドラマだったら絶対に良からぬ事件が起きる設定じゃないですか!」


「それで、再婚を機に、ワタシには連れ子である一人息子――陽平ようへいができたんです」


「一人息子さんが?」


「はい。陽平は社会人で、もう外で働いているんですけど……。父親であるワタシが言うのもなんですが、将来が本当に楽しみな息子なんです!」


「へぇ〜。なんだが自慢の息子さんみたいですね」


「そうなんですよ! だって好きな食べ物がドックフードなんですよ!」


「……え?」


「ドックフードは好きなのに、犬そのものには強烈な憎悪を抱いていたりして!」


「……過去に、犬との間で何がしらの壮絶な因縁でもあったんですかね」


「それに近々、自分を支配者として迎えるため、異世界から使者がやってくるとも言っていて!」


「……ほぉ〜。異世界から支配者として迎え入れられる。これはまた見知らぬ土地で大仕事があったものですね」


「そして最終的にはこの全銀河を征服して、自分は唯一無二ゆいいつむにの独裁者になるんだと、上機嫌に父親のワタシに語ってくれる自慢の息子なんですよ!」


「……それはまた、中二病ちゅうにびょう真っしぐらな自慢の息子さんですね。この国がそんな人ばかりになる前に。高市総理には、一日も早くこの国を立て直してほしいもんです」


「それに息子とは、会った当初から妙に気が合いましてね」


「似た者同士、どこかで波長が合ったんじゃないんですか。類は友を呼ぶって言いますし――非常識は非常識を呼ぶ、ってやつですよ」


「ちょ、そんな運命めいた出会いみたいな言い方しないでくださいよ。照れるじゃないですか」


「まぁ照れますよね。非常識同士が運命の悪戯で親子になってしまったんですから……」


「……それで、ここからが本題なんですけど。実は、陽平には結婚を前提にお付き合いしている彼女がいるんです」


「彼女? それは空想からなる架空の人物ではなく、現実世界にいる人間の女性ですか?」


「もちろんそうですよ! その彼女は容姿端麗ようしたんれいで、天真爛漫てんしんらんまんで、気立てがいい、とても素晴らしい女性なんです!」


「なんとまぁ。そんな女性が常識はずれの息子さんと結婚を前提に付き合っているとは。いや、世の中には奇特きとくな女性もいたもんですね」


「そうなんですよ。なんたって、ワタシの娘ですから!」


「……はい?」


「息子が付き合っている彼女というのが、離婚した元妻との間に生まれた、ワタシの一人娘なんですよ!」


「……ここまで来ても、まだ家族ネタをぶちかましてきますか、アナタという人は……」


「そこで重大な問題が発生するんですよ」


「重大?」


「えぇ。もし陽平と娘が結婚したら、ワタシは娘を呼び捨てにしてもいいんでしょうか。それともやはり『さん付け』で呼んだほうがいいんでしょうか?」


「呼び方なんてどうでもいいでしょう! それよりアナタ、息子さんと娘さんが結婚したら、略奪婚した上司と、不倫の果てに離婚した元妻と親族になるんですよ!? そっちのほうがよっぽど重大じゃないですか!」


「……え? なんでですか?」


「こ・の・ひ・と・は!」


「あ、すいません。ワタシ、この駅で降りますんで。相談に乗ってもらってありがとうございました。おかげで気持ちがスッと楽になりました」


 なんて、なんとも自分勝手なことを告げると、野口と名乗ったその男は、清々しい顔をして電車から降り、人混みの中へと消えていった。


「……いったいなんだったんだ、あの人は……」


 これまでの出来事に頭が追いつかず、ただ呆然としていると、誰かが俺の肩をチョンチョンと人差し指でつついてきた。


 顔を向けると、そこには野口の反対側に座っていた、五十代半ばほどの女性が、ニッコリ微笑んでこちらを見ていた。


 この展開は、まさか……


「それじゃあお兄さん、今度は私の相談に乗っておくれ」


「も、もう、イヤだァァァっ!!」


 俺の悲痛な叫び声が電車の車内に響き渡るのであった。



―――完―――

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