空蝉がないた夜に

筒井きわ

01

「あんたが何しようと構わないけど、相手に迷惑がかかるようなことだけはしないでね」

 母親の言葉を遮るように、車のドアを思い切り閉める。しばらくしてエンジンは急加速し、速度を落とすことなく狭い角を通過していく。田舎の風景に似合わない赤い車は、山の影に隠れて姿を消していった。

 人を殺せそうなほど、熱い太陽の光線が全身に注がれる。車を降りてから一瞬の間に、体の毛穴という毛穴から汗が噴き出してくる。頭上からけたたましい音量で絶叫する蝉の声が響き、嫌でも道の脇に植わった木々に大量に生息しているのだと予測できた。

 なぜ蝉はこれほどうるさいのか。それはメスに求愛行動する為、つまり種の存続のためなのだと、博識な同級生は言っていた。よく蝉の人生は七年七日というが、これは間違った認識で、実際に日本にいる蝉の成虫の寿命は2週間から一か月程度らしい。蝉という生き物は、孵化したあと自力で土にもぐり、成虫になるまでの数年間を暗い土の中で過ごす。そして、ようやく成虫になって地上に上がったとしても、残された時間は、長くても一ヶ月と少し。限られた短い時間の中で、繁殖相手を探すために、ただひたすた鳴き続け、運良く相手を見つければ交尾をするし、メスは卵を産んで寿命を迎える。対してオスは、無事に一通りのサイクルを終えて重大な任務を遂行し終えたと思ったら、また次の相手を探して鳴き続ける。鳥に食われようが何が起ころうが、関係ない。ただひたすら鳴き続ける。しかし、こうでもしないと成虫になるまでの期間が長い分、繁殖回数を増やして個体数を増やさなければ、絶滅に繋がる危険性が高まる。だから、蝉は夏の炎天下のなか叫ぶことをやめない。命の灯火が消えるまで、鳴き続ける他ないのだ。

 その話を同級生が楽しそうに話しているのを聞いて、心の底から、迷惑な生き物だな、と思った。人間からしてみれば、あんな風に鳴かれるとば単純にうるさいし、一種の公害だと思う。人間が同じ音量で鳴いて喚き散らせば、不審者扱いされて即座に通報されるだろう。鳴き声を聞くだけで気分が悪くなるし、何より嫌なのが、地面に転がる死骸だった。わたしは昔からそれが苦手でたまらなかった。多分、幼い頃にそれを踏んづけてしまったことが原因でトラウマになったのだと思う。あの時の嫌悪感を、足の裏に残された感触を、今でも覚えている。

 ふと、足元に転がる空の残骸が目に入る。土色の触覚が下にうつむき、先ほどまで木の幹を掴んでいたであろう、細く曲がった脚は、一部が欠けて地面に放り出されている。中身が無いのにも関わらず、薄い膜は、かつて目のあった部分をなぞり、気味が悪いほど正確に球体に盛り上がっている。反対側の腹部の方には輪を何枚も重ねたように輪郭が盛り上がって、それらは密集して窪みを作っている。

「最悪」

 靴にもキャリーケースにも、それが一ミリも接触しないように避けて前を通る。これだから、田舎は嫌なんだ。人の姿が見当たらない寂れた道を歩いていると、数分も経たずに目的地の家の前まで辿り着くことができた。

「あぁ、よく来たねぇ。えらいべっぴんさんになったなぁ。はよ中入り。外は暑くてたまらんかったやろ?」

 扉を開けると、目元に深いしわを作って笑う、母方の祖母が立っていた。最後に会ったのは何年前だろう。以前よりも明らかに白髪が増え、腰が曲がって背が低くなっていた。

「冷蔵庫に炭酸あるさかいコップ出そか? 昔よく飲んどったやろ?」

「ううん、大丈夫。ありがとう」

 祖母の好意はありがたく受け取るべきだと分かっているが、甘ったるい炭酸を飲みたい気分ではなかったので、麦茶だけをもらうことにした。それからも、祖母はお菓子やら他の食べ物やらを出そうとする。全部断るのも気が引けて、その内のいくつかを受け取り、応接間の方へ向かうことにした。祖母は何かを言いたげに視線を投げかけていたが、それらに気づかないふりをしてひとりで部屋に閉じこもる。幼いころ祖母に預けられたときはいつもこの部屋で過ごしていた。すぐに冷房を点けて、荷物を部屋の隅に押しやる。ソファに深く座り、麦茶を一気に飲み干す。次第に体温が下がっていくのを感じると、自然と身体が横に倒れ、頭をクッションに埋めて横になった。ローテーブルに置かれた麦茶のコップについた結露が、輪郭をなぞって落ちていくのを眺めた。

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